12 チェストツリーの下で

「知ってる? ここを通った男女はキスしないといけないという決まりなんだよ」


「えっ? それってヤドリギのことじゃ……」


「ええ? この街ではチェストツリーのことだよ。だって花弁が唇の形をしているからね。というわけでユーフェ。目を閉じて」


「えっ……、えっ⁉」


「ほら。はやく済ませないと追手がきちゃうかも」


 ヴィクトールが顔を近づけてくるので、ユーフェも混乱のままギュッと目を瞑ってしまった。


 ほっぺたにちゅっとキスされる。呼吸が止まりかけた。


「……ふふふ、なんちゃって。チェストツリーの話はでたらめで、今のは俺がきみにキスしたいだけの口実」


 ユーフェの耳元でヴィクトールは甘く囁く。


 突然のことで真っ赤になり、慌てているユーフェの頭にもキスを落とされた。


「ユーフェはからかいがいがあるなあ。騙してごめんね? 本当はもっとゆっくり口説きたかったけど……、それはまた次の機会かな」



 ◇



「おかえりなさい、ユーフェ様」


 自室に戻ると、ネリがほっとした顔で出迎えてくれた。


「思っていたよりも早いお帰りでしたね。何かトラブルでもありましたか?」


「あ、うん……」


 怪しい人物につけられていたことを正直に話す。ヴィクトールが襲われていることに慣れているようだと言うとネリは顔を曇らせた。


「ええ……。ヴィクトール様は周囲への負担を鑑みられ、自由な暮らしはもうずっと諦めていらしたんです。口さがない者たちは滅多に自己主張をされないヴィクトール様のことを『傀儡人形のようだ』と……。本当は思慮深く、お優しい方なだけなのです」


「少し話しただけだけど、わたしもヴィクトール様はとても聡明な方だと思うわ」


「あの方はどこか世を儚んだような顔で暮らしていらっしゃいました。ユーフェ様がいらっしゃってからなんですよ、あんなに楽しそうな表情を見せられるのは。ですから、今回の事も……、危険かもしれないと思っていながら、私もヴィクトール様の従者も強く反対はできませんでした。そのせいでユーフェ様を怖い目に合わせてしまいましたね……」


「あっ、ううん。本当に気にしていないの。ヴィクトール様が機転を利かせて追手を撒いてくれたし……」


 手を振るユーフェの袖口でブレスレットがきらりと光った。


 地下道を通って帰ってくるときにヴィクトールから渡されたのだ。「今日の思い出に」と。

 追われていた時に適当に選んで買った品物だったが、天然石と革紐を繋いだブレスレットは安物とは思えないくらいに凝った作りで可愛かった。


「そちらは?」


 目ざとく見つけたネリに聞かれ、ユーフェの頬は少し赤らむ。


「その……、逃げている時にヴィクトール様が買ってくれたの」


「まあ! もしや、ヴィクトール様も……」


「ええ……、わたしが紫の石で、ヴィクトール様が青の石を……」


「お互いの瞳の色ですのね! 素敵ですわ!」


 ブレスレットを渡されるときにまた頬にキスされたことを思い出す。あの人、キス魔なのだろうか。


 変装のために結い上げた髪をネリが解き、櫛で丁寧に溶かしながら、「ヴィクトール様が女性と親しくされること自体が本当に珍しいんですのよ」などと言われ、ユーフェはますます困ってしまった。


 ヴィクトールは本当にユーフェの事を気に入ってくれているのだろうか?

 それとも、ユーフェの正体に感付いていて、篭絡しようとでも思っているのだろうか。



 ◇



『ノクトお兄様へ


 そちらの暮らしはどうですか?

 わたしはヴィクトール様に大変良くしていただいています。


 先日、街に植えられていたチェストツリーという木を見ました。

 昔、お兄様がわたしにくれたセージの花に似た花がついていて綺麗でした。


 少しだけ村が恋しいですが、わたしたちみたいに故郷がなくなって悲しむ人が増えないようにわたしはここで頑張ろうと思います。


 ユーフェより、愛を込めて』




『ユーフェへ


 お前が言っていた木を見に行った。

 怪我だらけのお前にセージをあげた日が懐かしい。


 噂では聖ポーリアが攻めてくるとか、ワトレー村の方が危ないと聞いた。


 ヴィクトール様が守ってくださるとは思うが、お前はくれぐれも無茶なことはしないで欲しい。ノクト』




(……どうしてノクトの方が情報を掴めているのかしら)


 短い手紙を見つめながら、ユーフェは自室で溜息をついた。

 夜も更け、ネリが置いて行ったキャンドルの灯を消さないままに物思いに耽る。


(ワトレー村……。あの辺りで聖ポーリア国と争いが起きているの? でも、アレックス皇子は今査問中で行動には制限がかけられているはず……、皇帝陛下も三か月後には隠居なさる気でいるのよね)


 じゃあ、誰が指揮を取っているのか。


 考えられるのは一人しかいない。


(……ヴィクトール?)


 あんなに優しそうな人が?


 聖ポーリアが攻めてくる、とノクトからの手紙にはあるが、ヨハンはこの侵略戦争は守備の一手を取っている。温暖な気候で海も近く、貿易が盛んな聖ポーリア側に他国に攻め入るメリットはない。


 聖女がいる国として周囲から一目置かれている国のため、ヘタに領土拡大に乗り出せば周辺諸国から袋叩きに合うからだ。攻め入られたら押し返すだけ。


 だから、手を出してくるとしたらアンスリウム側だ。


 好戦的な第一皇子アレックス。

 温厚派のヴィクトール。

 聖ポーリアではなく、別の国に領土を広げたい現皇帝。


 誰の動きを注視するべきなのか……。


(よし)


 ガウンを着たユーフェはそっと部屋を抜け出した。

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