8 誓いのキス

「きす?」


 は? ときょとんとした顔をしてしまう。

 ヴィクトールは照れもせずに続けた。


「そう、キス。この国では約束を結ぶときに誓いのキスをするんだ。今の状態で言うと、『ユーフェが俺に忠誠を誓う代わりに』『俺はきみに行動の自由を与える』というような誓いだね。で、証人はここにいるネリといったところかな。誓いの内容が重大であればあるほど証人の位は高くなる」


 愛を誓いあう夫婦は司祭に証人になってもらい、騎士の位を授かるものは皇族の前で主の手の甲にキスをする。証人の位が高ければ高いほど法的な拘束力は増すらしい。聖ポーリアにはない習わしだ。


「ネリは侯爵家の娘だから、今僕たちがキスを交わすのを見届けるに遜色ない証人だよ」


「えっ、侯爵家の娘⁉」


 ユーフェよりも遥かに身分が高いのに、なぜ侍女なんかを引き受けたのか疑問であるがそれよりも……。


「その誓いを破るとなにか罰があったりするんですか?」


「破った方に罰が課せられるから、賠償金や刑罰を要求できる。そうなりたくなかったら平和的な解消をすればいいだけの話だよ。……安心して。ユーフェがこの城を出て行きたいって思ったらちゃんと解消するから」


「つまり、わたしはヴィクトール様の信頼を得ているというお墨付きを、ヴィクトール様はもしもわたしが何か悪さをしたら罰を与えることができるというわけですね」


「そういうこと。兄上はきみと信頼関係を結ぶつもりがなかったから、閉じ込めて言うことを聞かせようとしていたみたいだね」


 ヴィクトールへの誓いのキス。

 これは、ヨハンを裏切ることになるのだろうか?


(ならないわよね。任務続行に必要なプロセスなだけ。断る方が怪しいし……)


「わかりました。ヴィクトール様に誓います」

「良かった。じゃあ……」


 ヴィクトールは左手の手袋の留め具を外した。

 抜き取られた下から現れたのは大きくてごつごつとした男性の手だった。優しげな面立ちからきれいな手をしているのだと思っていたが、剣や手綱を握っているせいか皮膚はごつごつとして硬い。普段は隠されているであろう素肌を預けられたユーフェは赤らんでしまった。


(な、なんか、緊張するんだけど……)


 ふしだらなことをするわけではないのにドキドキしてしまう。

 男性にキスを贈るなんて生まれて初めてだから……。


「ユーフェ・エバンス。稀有な力を持ったきみが俺を支えてくれると誓う限り、この城でのきみの暮らしを守ろう」


「……ヴィクトール様。あなたのお役にたてるように精一杯務めます」


 この場合、手の甲に口づければいいのよね?


 口づけを落とし、視線を上げる。

 熱っぽくこちらを見つめてくるヴィクトールの視線に、ユーフェの鼓動はますます激しくなった。


「お二人の誓いはバーンレッド侯爵家が娘、ネリが見届けました。アンスリウム皇国が守護神、スーリア様の導きがありますように」


「スーリア様の導きがありますように」

「……えと、スーリア様の導きがありますように?」


 ネリとヴィクトールがにこにこしているのでこれでいいらしい。……異国の文化はよくわからない。


 ◇


 執務に戻るというヴィクトールが去って行ったあと、ユーフェはネリと共に布の山に埋もれることになった。


「見てくださいユーフェ様、このとろけるような手触り……! 最高級の絹糸で作られていますね!」


「さすがネリ殿、お目が高い。刺繍も細かくて美しいでしょう? ささ、ほら、聖女様もお近くでご覧になってください」


「は、はあ……」


 ユーフェ用のドレスを仕立てるのだと言って、立ったり座ったりするユーフェの身体に巻き尺が当てられたり、肩に布を当てられたりしている。


 お針子を従えてやってきた仕立て屋はネリと懇意らしく、二人の意向でどんどん話が進められて行ってしまう。


「ユーフェ様はどちらの刺繍が好みですか?」

「お色のお好みなどもお聞きしておきたいところですね」


「えーっと、正式な場に出るための衣装などでしたらお任せします……。できたら、動きやすい服を何枚か頂けるとありがたいんですが……」


「ユーフェ様は馬にも乗られますものね!」

「ではこちらはいかがでしょう! 襟元と袖口にサファイアが縫い付けられたジャケット……」

「いやいやいや! もっと普通ので大丈夫です‼」





 夜は調香師がやってきて、いい匂いのする香油やらなんやらを紹介されたと思ったら女官たちによって裸にひん剥かれ、身体をぴかぴかに磨きたて上げられた。


「このオイルは肌を柔らかくする効果があってうんたら~」

「爪も整えますね。今から甘皮の処理をさせていただきますので云々~」

「こちらは唇用のパックです。蜂蜜が入っていてどうのこうの~」


 ……気づいたらよだれを垂らして寝ていた。

 そのままベッドに移っても、ふかふかのシーツといい匂いで大変快適な夜を明かした。






 翌日はヴィクトールに連れられて騎士団に挨拶に行った。


「ユーフェ様! 先日はありがとうございました!」


 ユーフェが怪我を治した騎士は何度も礼を言ってくれたし、アレックスではなくヴィクトールの保護下に置かれたことを皆が喜んでくれていた。


 聖女様聖女様と声を掛けられ、さながら歌手や女優アイドルのようである。







「おやすみなさい、ユーフェ様」

「おやすみなさい、ネリ」


 寝支度を整えてくれたネリを見送り、ベッドに潜り込む。

 ヴィクトールの下について三日ほどが経ったが、お姫様みたいな生活はユーフェをほどよく疲れさせていた。


 ユーフェが出入りしても驚かれないようにと関係各所に挨拶に行き、商人が持ってくる品をネリと選び、ヴィクトールとお茶をして、肌や爪などの美容ケアをしてもらって眠る。


 初手から疑われるような行動は控えるべきだろうと、言われるがままの暮らしをして過ごしたため、「田舎から出てきたばかりの聖女」らしく振る舞えているはずだ。


 その一方で、何も考えずにもてなされて暮らす生活はユーフェの心を麻痺させそうになった。


(このままここで、『聖女』として暮らせたら幸せなんだろうな……)


 怪我を治す程度の事でみんなが大喜びしてくれて、ちやほやされて……。


 聖ポーリアでは役立たずだと教護院から冷遇され、ヨハンから虐待まがいの訓練をさせられてきた日々とは天と地ほどの差がある。


 けれど、ユーフェはこの穏やかな幸せが続かないことを悟っていた。



 ◇



『感動の再会』は思ったよりも早くにやってきた。


「ユーフェ!」


 ヴィクトールによって客間に呼び出されたユーフェは、部屋に入るなり、体格の良い男に抱きしめられることになったのだ。


「ノク……、お、お兄様……」


 アレックスの元に連れられて以来に会う、偽装用の兄。


 ユーフェがヴィクトールの保護下に入ったことを知れば早々に接触してくるだろうと思っていた。ぎゅうっと抱きしめられたまま、耳元で囁かれる。


「――お前に色仕掛けの才があったとは意外だったな」

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