第16話 陣内を脅迫する真里菜のメールが見つかる!
真里菜の転落死事件から11日が経過した金曜日の午後。
授業のない明日香は、麻衣子とともに、新しく建てられた15号館1階のコンピュータ教室で、レポートを作成していた。
レポートをレポート用紙や原稿用紙に手書きしていたのは、ひと昔前のこと。今では、パソコンでワープロソフトを使って作成する時代。字の下手な文章など、読めたものではないので、教師の方も大歓迎。そして、レポートを提出するのも、窓口に並ぶ必要はなく、Eメールの添付ファイルを使って提出する。本当に便利な世の中になったものだ。
明日香が作成していたのは、刑法各論のレポート。課題は、『放火罪における保護法益について、学説を対比させて論述せよ』。
明日香は、パソコンの前に教科書、参考書、判例集、六法などを広げて、懸命に文字を入力していた。
その隣で、なにも広げず、ただパソコンを操作していた麻衣子が、驚いた表情で呟いた。
「なによ、これ! 嫌になっちゃう」
「いきなり、どうしたのよ?」驚いた明日香が、隣りに視線を向けた。
麻衣子のパソコンをのぞくと、未読のEメールが20通ほど表示されていた。
「こんなにメール、溜まっちゃってんの」
「全然、メールチェック、してないの?」
「だって、家にパソコンないもん」
「ないっていっても、大学にくれば、見れるでしょう」
「いちいち図書館やパソコン教室に行くのが、面倒なのよ!」
「なにいってんのよ! けっこう重要な連絡、見落としてるかもしれないよ!」
「これから全部、読むつもりよ!」麻衣子は、パソコンに向かって黙々とメールを読み始めた。
そのとき、突然明日香の脳裏に
「ねえ、麻衣子。真里菜さんの
学番とは、『学籍番号』のこと。明日香は、もしかすると、真里菜が学内メールを使って、誰かと連絡をとっていたのではないかと、思い浮んだのだ。
「真里菜の学番と生年月日? 全然知らないけど……。でも、千佳なら知ってるはずだから、聞いてみようか?」
「お願いできる?」
「
城北大学では、入学時に全学生に対し、学生証とともにEメールのアドレスが与えられる。
学生ひとりひとりに7桁の学籍番号が振られ、それがアドレスの前半部分になり、後半部分は同じアドレスを使用。そして、メールを送受信するため必要なパスワードは、西暦の生年月日8桁の数字に初期設定がなされている。
もちろんパスワードは、変更することができ、大学当局からは、独自の英数字に変更するよう指導されているが、面倒なのと、変更したパスワードを忘れてしまう恐れがあるので、明日香は、初期設定のパスワードをそのまま使用している。
5分後、千佳からの返信が麻衣子のスマートフォンに入り、真里菜の学籍番号と生年月日が判明。
「ビンゴ!」思わず明日香は叫んでしまった。
メールソフトを稼働させ、千佳から聞き出した学籍番号と生年月日をもとに、真里菜のメールアドレスとパスワードを入力したら、真里菜のメールを開くことができたのだ。
「これ、もしかして、真里菜のメール?」麻衣子が確認した。
「そうよ。真里菜さんも、パスワードを変更せず初期設定のままにしてたの。ほんとは、こんなこと、しちゃいけないんだけど……。
亡くなった真里菜さんには申しわけないけど、この際だから読ませてもらうわ」
まず受信メールを開いたが、ほとんどが大学からの連絡で、不審なものは見あたらなかった。
次に送信済みメールを開いた明日香は、目を
「これは……?」
「どうしたのよ。なにか、見つかった?」明日香の後ろに立って、麻衣子が肩口からのぞきこんだ。
「これって、陣内先生宛てのメールよね」麻衣子がいった。
「そうよ。このアドレス、陣内先生に間違いないわ」
送信済みメールには、事件の4日前と前日、陣内に宛てた真里菜のメールが残されていた。
1通目の内容は、井坂宏治のことで、至急会ってほしいとだけ書かれていた。受信メールを見ても、陣内の返事はなく、おそらく陣内は、返事を返さなかったのだろう。
2通目は、返事をくれないことの
井坂が大麻の密売にかかわっていることを、真里菜は知らなかったのか、大麻にかかる記述は一切なかった。2通目のメールに対する陣内からの返事も、やはり受信していない。
受信したが、真里菜がそれを消去したのかもしれないが、発信が残っているのに、受信だけを消去したとは考えられず、明日香は、陣内は返事を返していないと推測した。
明日香は、この真里菜のメールを警察に
こうなったら、レポートどころではない。レポートそっちのけで、麻衣子と一緒に考えてみたが、ふたりで悩んでいても、
「ごめん、明日香。これから、バイトなのよ。そろそろいかないと、間にあわないわ」
「こっちこそ、ごめんね。変なものにつきあわせちゃって……」
「いいのよ、気にしなくて。明日はバイトないから、いつでもつきあうわ。連絡、待ってるからね」といって、麻衣子は、慌ただしく教室から出ていった。
レポートを作成する気力を喪失してしまった明日香は、真っすぐ家に帰る気も起こらず、片瀬信介に相談することにした。
スマートフォンで、「今どこにいるの?」と尋ねたメールを打った。5分も経たず、片瀬から、「図書館にいる」という返信。
「これから会えないか?」という追伸メールを打つと、2分後、「腹が減ったから、
「5分後、一食で」というメールを打ち、明日香は、コンピュータ教室を出て一食に向かった。
食事には中途半端な時間帯。第一学生食堂は、
すぐに片瀬はやってきた。
「やあ」と、いつものぶっきら棒な挨拶。
「ごめんね、急に呼び出したりして……」すまなさそうに明日香がいった。
「今、
明日香も席を立ち、自動販売機でペットボトルのウーロン茶を買った。考えすぎて喉が乾いたのだ。
トレイにカツ丼とラーメンを載せ、片瀬が戻ってきた。
「気を
「誰がそんなことするねん。ふたつとも俺が食うんや。昼飯食べ損ねたから、めちゃめちゃ腹減ってんねん」
「あっ、そう、そうよね。片瀬君がこんな
「なんや、お前も腹減ってんのか? ラーメン半分やろか?」
「いいのよ。別にお
「ほんで、なんの用や? 急に呼び出したりして」
「そうよ、ラーメンの話なんかしてる暇はないのよ。実はね、――」
明日香は、麻衣子と見つけた真里菜のメールのことを話し始めた。
「……んで、どうするつもりなんや?」カツ丼とラーメンを食べながら、ひととおり話を聞いた片瀬が尋ねた。
「それを相談したくって、きてもらったんじゃない!」ムカッとした表情で明日香がいい返した。
「そうか、そうだよな。そんでなきゃ、俺なんぞ、呼びつけたり、せいへんからなぁ」
「もっー。真面目に考えてよ!」明日香は頬を膨らませた。
「警察に報せた方がええか、それともこのまま黙っておくか、その辺で、悩んでるんやろ」急に真面目な顔つきに変わった片瀬がいった。
図星をさされた明日香は、片瀬の洞察力の鋭さに感心し、表情を一変させた。
「そうなのよ。片瀬君だったら、どうする?」
「そうやな、岡本から陣内センセ宛のメールが見つかったからって、陣内センセが岡本を殺したという証拠にはならんやろ。
せいぜい岡本と陣内センセが、顔見知りの関係やったというだけや。同じ大学で同じ学部の准教授と学生やから、なんらかのかかわりがあったとしても当然やな。これを警察に報せても、あんまし意味ないわなぁ。
ただなぁ、こないだ部室にきはった刑事はんが、井坂が大麻の売人をしてたっていうてたやろ。もしそれをやめさせようと、岡本が陣内センセを脅かしてたというなら、井坂に大麻の売人させてたのが、陣内センセや、ということになるやろなぁ」
「その可能性は高いと思うわ。でも、残念ながら真里菜さんのメールには、大麻のことは、ひと言も書いてないのよ」
「そこが問題やなぁ。このメールで、岡本と陣内センセがかかわってることは、証明できても、陣内センセが大麻にかかわってることは、証明できへんわな」
「そうなのよ。でもね、あたし、例えメールでも、真里菜さんが陣内先生を脅迫してることが気になるのよ。
テレビのサスペンスドラマで、よくあるじゃない。弱みを握られて脅迫された人が、口封じのために脅迫した人を殺してしまうシナリオ。
今回の事件、これにあて
「村木、お前。テレビの見すぎとちゃうか?
もしそうなら、大麻の密売という弱みを握られ、やめへんと警察にいうぞと、脅された陣内センセが、脅してきた岡本を口封じに、井坂を弱みのもとを消すために、ふたりとも、殺したってことになるぞ」
「確信は少しもないけど、その可能性はあるんじゃない?」
「そうかもしれへんけど、このメールだけで、そこまで証明することなんぞ、できへんのと違うか?」
「それは、そうだけど……」
結局、片瀬に相談しても、結論が出なかった。
片瀬の提案で、翌日の土曜日、もう一度皆で集まって、事件について考えることにした。結論が出るまでは、真里菜のメールの件は、警察に黙っておくしかない。
お腹が一杯になったから、もう少し図書館で勉強するという片瀬と一食の前で別れ、明日香は、帰宅するため駅に向かった。
明日香が池袋駅西口から地下道を潜って、西武池袋線の改札口に向かって歩いていると、JRの改札付近で背後から呼びとめられた。杉浦功一だった。
「もう帰るの?」と、尋ねられた明日香は、「はい」と答え、「急ぐ用がなければ、少し僕につきあってくれないかな?」と誘われた。
どこかでお茶をしようということになり、地下道から東口に出ると、目の前にマクドナルドの看板が見えたので、そこに入ることにした。
1階のカウンターで、杉浦はアメリカンコーヒー、明日香はマックシェイクバニラを買って、2階の客席にあがった。もちろん杉浦の
店内は、100ほどある席の8割方が埋まっている混雑振り。空いたテーブル席を見つけられず、窓際のカウンター席に仲よく並んで座った。
「杉浦先輩があたしを誘ってくれるなんて、珍しいですね」
「そうかな、前にも誘った気がするけど……」恥ずかしそうに杉浦が答えた。
杉浦とは、喫茶店などで何度も一緒になったことはあったが、ふたりきりで会うのは、これがはじめてだった。
「前に君がさぁ、法科大学院に進学することを考えてるって、いってたじゃない。そのあと、どうなったのかなって、気になってね」生真面目な杉浦が、いいわけするように話し始めた。
「そうですか。お気遣い、ありがとうございます。
実は、法科大学院に進学することに決めました。でも、まだ親には、なにもいってないんですよ。けっこう学費がかかるみたいだし、なかなか話しづらくって」
「そうだね。学費は馬鹿にならないよ。初年度納付金は、150万もかかるものね」
「杉浦先輩は、既修コースですよね」
「そうだよ。2年の既修にしたんだ。じっくり勉強するには、3年の未修の方が、いいかもしれないけど、1年でも早く司法試験を受けたいし、3年だと学費が1.5倍かかるからね」
「あたしも、学費のことを考えると、既修コースにしようと思ってるんですが、既修だと、入試が難しくって、受からないんじゃないかと、心配してます」
「君の学力だと、大丈夫だよ。僕でも、受かったんだから」
「そんなこと、ありませんよ。あたしの実力なんて、とてもとても、杉浦先輩には及びませんよ」
「そんなに
でも、せっかく未修コースをつくったにもかかわらず、法科大学院に進学する者の大半は、法学部の出身者で、期待されたほど他学部からの受験者は、いないのが実情なんだ。だから法学部出身で本来ならば既修に進学すべき者が、そこに入れずに、空いている未修の方にまわされているんだよ。
うちの法科大学院でも、既修と未修の割合は半々。既修に進みたくても枠が一杯で、未修にまわされている者がけっこういるみたいだ。
その
「そうなんですか」得心した表情で明日香は呟いた。
「だから受験勉強は、しっかりやりなさいということになる。
特に適正試験の対策は、十分やった方がいい。既修・未修の振り分けは、法律の専門科目の成績だけでなく、適正試験の成績も加味されるからね」
「はい、がんばります!」杉浦の的確なアドバイスに明日香は感心した。
「ところで、真里菜さんの事件、そのあと、どうなったの?」杉浦が話題を転換した。
「まだ犯人は、捕まらないようです。井坂君の事件の方も、同じように犯人は捕まっていません。実は、昨日警察の人が部室に訪ねてきたんです」
「警察が……?」杉浦の表情が驚きを帯びた。
「刑事さんには、内密にしておくようにいわれたんですが、杉浦先輩だから、いっちゃいます。実は、井坂君が大麻の密売をしてたというんですよ!」
「大麻……?」今度は、険しい表情に変わった。
「刑事さんの話では、間違いないというんですよ。それで、真里菜さんがそのことを知ってたかどうか、確かめにきたようなんです。でも、千佳ちゃんに聞いても、わからないようで、結局、刑事さんたちは、収穫のないまま帰ったんですが……」
「そんなことがあったんだ。大麻ねえ。最近、大学生の間で大麻が
「それと、……」明日香は、真里菜のメールのことを杉浦に話そうか迷ったが、いろいろと相談に乗ってくれる信頼できる先輩だからこそ、隠すのは悪いと思い、話すことにした。
「それと、今日、事件前に真里菜さんが陣内先生宛てに送ったメールが見つかったんです」
「陣内先生って、あの陣内先生?」
「そう、法学部の陣内雅彦准教授です」
「真里菜さんは、陣内先生にどんなメールを?」
「至急会いたいというのが1通目で、井坂君を利用するのをやめてくれ、やめないと大学や警察に訴えてやると、脅かしたのが2通目です」
「えっ……!」
「1通目は事件の4日前。2通目は前日です」
「それに対する陣内先生の返事は?」
「返信はありませんでした。消去されたのかもしれませんが、メールサーバーには、残ってませんでした」
「陣内先生が……。いったいどういうこと、なんだろう?」ひとり言のように呟いた杉浦は、
「いろんな推測ができるんですが……。まだはっきりわかりません」
しばらく考え込んでいた杉浦が、明日香に顔を向けて尋ねた。
「それで、警察には?」
「まだ報せてません。そのことで、さっきまで、片瀬君と話しあってたんですが、結論は出ませんでした。確実に犯罪の証拠になるものでは、ありませんから……」
「それもそうだね」といった杉浦の表情が、だんだんと沈んでいくように見えた。
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