第5話 転落死した真里菜に将来を約束した恋人が!

 真里菜の転落死事件の翌日。

 事件は、豊島警察署刑事課第一係が捜査を進めていた。

 転落したとみられる11号館の屋上が、立入禁止になっている状況から、転落の原因が事故でないことが明らかであったが、自殺なのか、それとも他殺なのかが、係長の竹内和夫は、判断を下せずにいた。

 司法解剖により死亡推定時刻は、午後6時から7時の間と判明。第一発見者の警備員の証言をあわせると、6時から6時35分の間に真里菜が転落したことになる。

 事件の翌日から捜査員による聞きこみが行われたが、残念ながら今のところ、目撃者はひとりも出ていない。目撃者はいないが、向かいの10号館3階にある院生研究室にいた大学院生が、6時15分頃、物が落ちる音を聞いたという情報が寄せられていた。


 この日の午後、竹内は、再び現場を確認するため鑑識課の佐藤とともに、城北大学の11号館の屋上にきていた。

 鑑識による現場検証の結果、屋上に出る扉の取っ手には、真里菜の指紋しもんが残されていたが、鍵とそれをおおっていたプラスティックの丸いカバーには、真里菜の指紋がなかった。つまり、真里菜は自分で扉を開けたが、施錠されていた鍵を開けてはいなかった。真里菜が扉を開けたとき、すでに鍵が開けられた状態であったことになる。

 おそらく真里菜は、何者かに呼び出され、この屋上にきたと推測される。その何者かが、真里菜のくる前に、プラスティックの丸いカバーを外し、鍵を開けて待ち構えていたことになる。

 鑑識の調べでは、プラスティックカバーと鍵には、新しい指紋はなく、ほこりが削りとられた状態なので、手袋をして触れたものと推測された。


「やっぱり殺しかね?」

 これを乗り越えて転落したと思われる鉄柵の前で、屈んでなにかを探そうとしていた佐藤に竹内が尋ねた。

 屋上の周囲には、高さ1メートルの鉄柵がはり巡らされている。鉄柵の向こう側は、幅50センチほどが残されており、かろうじて人ひとりが立って歩ける程度のスペース。

「竹さん。ここをちょっと見てくれ!」

 小太りの佐藤が、重そうに身体からだひねり、鉄柵の埃が削りとられた部分を指さした。


「俺の長年の経験だと、自殺を決意した者でも、躊躇ためらうのが人間なんだ。リストカットするヤツが、躊躇い傷を手首に一杯つくってるのでも、わかるよなぁ。

 飛び降り自殺の場合、目の前にこんな柵があると、これを一気に超えて飛び降りるヤツは、まずいない。いったん柵を乗り越えて、心を落ちつかせた上で、えっい、やあ、で飛び降りるもんなんだ。中には、柵を越えたが、踏んきりがつかず、躊躇い続けて飛び降りるまで、何時間もかかるヤツもいるんだ」

 今度は、鉄柵の向こう側を指さし、佐藤は話を続けた。

「そうすると、こんな50センチもない狭いところに立つのは、誰しも怖くなる。これから飛び降りて自殺しようとするヤツでも、怖くなるんだ。となると、ここに立つと、必ず手で柵をつかんでしまうもんなんだ」

 佐藤は両腕を後ろに伸ばし、両手で鉄柵をつかみ、身体を支える格好をした。


「でもな、竹さん! この鉄柵には、向こう側からこんなふうにつかんだ被害者ガイシャの指紋は、出なかった。

 この大学で起きた3年前の自殺のとき、ここと同じような鉄柵があって、そこには、両手でつかんだ被害者の指紋が残されていたんだ。ここでも何箇所か、被害者の指紋は出てるが、誰かとみあってるうちに、咄嗟とっさに触れたと思われるような指紋だけだ。躊躇ってつかんだと思われるものはない。

 それに、入口の扉の取っ手に被害者の指紋があったが、鍵とそれを覆っているプラスティックのカバーにはなかった。おそらく被害者は、誰かに呼び出されてここにきたからだと思うよ。自分の意思できてないヤツが、ここで自殺するとは、考えられんしなぁ」

「それは、殺しで決まりだという意味ですね」竹内が確認した。

「まず間違いないだろう。目撃者が出れば、案外早く解決できるかもしれないよ!」

 あとはお前たちの仕事だ、といわんばかりの佐藤の口振りだった。



 同じ頃、刑事課第一係主任の田中好雄は、江東区にある岡本真里菜の自宅を訪れていた。

 地下鉄東西線の東陽町駅から汐見運河に向かって商店街を歩き、商店がまばらになった辺りに、岡本家は居を構えていた。入口のひさしの上に『岡本クリーニング店』の看板。築20年は経っていると思われる木造2階建て、1階が店舗、2階が住居。家の周囲は、柘植つげの垣根で囲われている。

 店舗の入口のシャッターは、下ろされたままだったが、脇の路地を入ると、住宅用の玄関がこしらえてあり、家の中に入ることができた。

 海が近いのか、かすかに汐の匂いが辺りに漂っている。


 真里菜の遺体は、司法解剖が終わったあと、自宅には戻らず、直接木場公園近くの葬儀ホールに運ばれていた。この日の午後6時から通夜、翌日11時から告別式の予定で、葬儀が執り行われる。

 真里菜の父岡本真治しんじと母典子のりこに対する事情聴取は、昨夜遺体確認のため警察署を訪れたときと、1時間前に葬儀ホールで行っていたが、田中が真里菜の部屋を見せてほしいと頼んだところ、父親が案内してくれたのだった。


 真里菜の部屋は、2階の4畳半の洋間。ベッドに机と本棚、衣類が入っていると思われる縦長のビニール製のスーツロッカーが、家具として置かれていた。薄いピンクの水玉模様のベッドカバーとグリーンのカーテンが、いかにも若い女の子の部屋であることを物語っている。

 机には、憲法や民法などの法律の入門書と並べて、写真が立てかけられていた。その写真は、遊園地のベンチに座って微笑む真里菜と、その背後から肩に手をあてて同じように微笑むひとりの青年が写っていた。


「この人は?」田中が父親に尋ねた。

宏治こうじ君です。幼馴染の井坂いさか宏治君です。

 以前は、この近くに住んでいて、父親が鉄工所をやっていました。私とその父親とも幼馴染で、家族ぐるみのつきあいをしてたので、幼い頃から真里菜と宏治君は、兄妹のように育ちました」

「今は、どこに?」

「小岩の方で、母親とふたり、アパートを借りて住んでいるようです。

 2年前、父親が自殺しましてね。経営していた鉄工所が、不況のあおりを受けて傾き始め、いろいろなところから借金をするようになって……。それでも、親の代からの工場を護ろうと、夜遅くまでよく働いてたんですが……、二進にっち三進さっちもいかないぐらい借金がかさんじゃって。

 家屋敷を売り払っただけでは、足りなくなって、自分の保険金を足して清算したんですよ。なにもそこまでしなくても……」

 つらい過去を思い出したのか、父親は言葉に詰まった。


「おふたりは、おつきあいをされてたのですか?」

「さあ。宏治君のことは、よくわかりません……。ただ真里菜は、宏治君と結婚するつもりでいたのは、確かのようです。妻には、そう話していましたから……」

「机の中を調べさせてもらっても、よろしいですか?」田中が机に近づきながら、父親に了承を求めた。

「えっ、なにか探し物でも、あるんですか?」一瞬嫌悪の表情を見せた父親が聞き返した。

「いえ、そういうことではないんですが……。あくまでも今後の捜査の参考になるものがないかと……」

「先ほどもお話ししましたが、真里菜は、自殺をするような子ではありません。どちらかといえば、勝ち気で活発な子です。ひとりで悩むようなこともなく、心配ごとがあると、必ず母親に相談してました。母娘というより、姉妹のような関係でしたから……」

「お話は十分に伺ってます。ただ参考に見せていただきたいだけです。お時間はとらせませんから……」

 ようやくのことで父親の了承を得て、机の中を調べたが、目ぼしいものはなにも見つからなかった。田中は、日記のようなものがあればと期待していたが、あてが外れた。



 竹内が城北大学から豊島警察署に戻ると、部下である第一係の阿部あべが、竹内を待ち構えていた。真里菜の所持品を報告するために。

 転落死したとき、真里菜が所持していたポシェットの中には、手帳、スマートフォン、化粧品、ハンカチ、ポケットティッシュなどが。屋上に残されたブックケースには、教科書とルーズリーフノート、布製の筆箱が入っていた。そのうち手帳とスマートフォンについて調べた結果が報告された。

 手帳の当日のスケジュール欄には、なにも書かれておらず、特に不審なメモもなかった。スマートフォンの通話、メールとも、大半が登録された相手との交信であったが、事件当日の12時半頃と3時前の二度、公衆電話から着信が入っていた。この公衆電話の所在を電話会社に問いあわせたところ、豊島区内であることが判明したが、細部は不明だった。


 竹内が、ひととおり報告を受けてしばらくすると、田中が刑事課に戻ってきた。

「どうだった?」お帰り、という代わりに竹内が尋ねた。

「目ぼしいものは、なにもありませんでした。両親の話や部屋を見た感じだと、自殺というセンは、まずないでしょうね」

「そうか。これで、殺しで決まりだな」

「それから、被害者ガイシャ彼氏かれしがいました。幼馴染で井坂宏治という被害者より1歳上の大学生。同じ城北大学の法学部に通ってます。親も公認の間柄で、ふたりは大学を卒業すると、すぐにでも結婚するようなことを母親がいってました」

「彼氏? そいつから、話は聴けたのか?」

「住所を聞いてすぐに出向いたのですが、不在でした。朝出かけたままで、まだ家に帰ってません。今夜か、明日の朝にでも、もう一度会いに行くつもりですが……」

「そっちの方は、よろしく頼むよ」ねぎらうように竹内がいった。


 夜遅く署内の会議室に、真里菜の転落死事件の捜査を担当する刑事課第一係の捜査員が集められた。刑事課長の石田が招集をかけたのだ。捜査員の報告により、次のことが判明した。

 まず岡本真里菜の転落死は、自殺ではなく、何者かによって11号館の屋上から突き落とされ、死亡したものである。

 死因は、転落による脳挫傷。ほぼ即死状態。死亡推定時刻は、司法解剖と10号館にいた大学院生の証言により、午後6時15分頃と推定された。

 真里菜は、犯人と思われる者から呼び出され、11号館の屋上にいっている。犯人は、あらかじめ屋上の鍵を外して真里菜を待ち構えていた。

 呼び出しは、公衆電話から真里菜のスマートフォンに電話をかけたものと推測された。着信履歴に公衆電話からの着信が、12時27分と2時43分に記録されていた。

 当日の真里菜の足どりは、朝8時自宅を出て大学に向う。1時限のフランス語、2時限のキリスト教倫理学の授業を同じクラスの友人とともに受講し、昼食もその友人と学生食堂で食べている。3時限の民法総則の授業を受けている姿も目撃されていたが、それ以降、どこにいたか不明。


 3時限が終わるのが2時30分。それ以降の所在がつかめていない。普段火曜日は、3時限で授業が終わるため、夕方から実家のクリーニング店の店番をすることになっていたが、3時頃真里菜は、急に用ができたので、今日は店番ができない旨の電話を母親に入れている。

 そのときの真里菜の話では、それほど遅くならないうちに帰るといい、夕飯は家で食べるという話だった。

 真里菜は、明るい性格で、誰とでも仲よくつきあうタイプ。大学内にも友人は多く、交友関係は比較的広い。そして、幼馴染で将来結婚を約束した井坂宏治という彼氏がいた。井坂とは、親も公認する仲で、真里菜は、大学を卒業したらすぐにでも結婚するつもりでいたようだ。井坂の所在は、今のところつかめてない。


「殺しとなると、怨恨えんこんのセンが濃厚だなぁ」

 今回の転落事件に関する情報がすべて出揃ったところで、石田が口火をきった。

「呼び出されてることからも、顔見知りの犯行に、まず間違いないでしょう」竹内が、頷きながら同意した。

「しかも、通常は一般人が立ち入らない大学という限られた場所で、起こった事件ですから、容疑者も、大学の関係者である疑いが濃いと思われます」田中がつけ加えた。

「スマホにかかってきた公衆電話の場所を、特定できないのか?」

「今のところ、豊島区内としかわかっていませんが、再度電話会社に場所を特定するよう要請します」阿部が答えた。


「怨恨となると、その井坂という彼氏が、あやしくないか? 愛情のもつれから、殺してしまったとか?」石田が推理した。

「いえ、ふたりは結婚の約束までしてる仲で、周りの者に聴く限りでは、そのようなことは、なかったようです」田中が即答した。

「そうか、愛情の縺れはないか……」石田が残念そうに呟いた。


「ただ……」といった田中が、一瞬間をおいて、眉根を寄せて疑わしい表情を見せた。

「その彼氏の行方が、いまだにわからないのが、引っかかります。恋人が死んだわけですから、普通であれば、すぐにでも駆けつけてくるはずです。

 それが、どこにいったのか、母親も知らないんです。電話の1本も、寄こさないらしいんですよ」

「それは妙だな……。どうしたんだというんだ?」

「わかりません。なにかトラブルにでも、巻きこまれたのかもしれませんが……」田中が自信なさげにいった。

「トラブル?」石田が聞き直した。

「いえ、それはなんともいえませんが、いまだに姿を現さないのが、腑に落ちないんです」

「それもそうだな。よし、明日から、その井坂の行方を追ってくれ!

 それと被害者ガイシャの交友関係、特に大学の関係者を徹底的に洗うようにしてくれ!

 夜も遅いから、今日は、これで解散だ!」

 石田が捜査員に指示を出して、会議は終了した。



 事件の翌々日の午後。

 明日香と片瀬が、警察の事情聴取を受けることになった。

 真里菜が法律研究部に所属していたことから、事情を聴きたいと、警察から申し出があり、昨夜、部長である片瀬のスマートフォンに城北大学の学生課から連絡が入り、呼び出されたのだ。

 学生課の事務室がある3号館1階の応接室に、明日香と片瀬が出向くと、すでに刑事らしき男がふたりソファーに座り、向かいに座った学生課の職員と話をしていた。

「法律研究部の片瀬君だね」職員が話を中断して、片瀬に声をかけた。

「そうですが……」片瀬が答えた。

「こちらは、豊島警察署の刑事さん。岡本真里菜さんの事件のことで、話を聴きたいそうです」職員は、自分が座っていたソファーを空け、片瀬と明日香に座るように促した。


「豊島警察署の竹内です」

「同じく田中です」

 ふたりの刑事は、矢継ぎ早に名乗った。

「法学部3年の片瀬です。法律研究部の部長をしてます。こっちは、同じ3年の村木です」片瀬も自己紹介をした。

 竹内と名乗った年配の刑事が、質問をきり出した。

「岡本真里菜さんを、ご存知ですよね」

「ええ、うちの部の1年やから」

「最近、彼女に変わったことがなかったですか? 例えば、なにかに悩んでいたとか、思い詰めていたとか、あるいは誰かに脅されていたとか?」

「それはなんとも、いえまへんわ。俺らは3年で、1年とは、あんましつきあいはないし、最近、岡本とは、うてもいなかったしなぁ」

「あなたは、どうですか?」竹内が明日香に目を向けた。

「あたしは、週に何回かは顔をあわせましたが、特に変わった様子なんて……、気づきませんでした……」


「そうですか。ところで、法律研究部とは、なにをしてるサークルですか?」

「将来法曹を志す者が集まり、法律の勉学にいそしむサークルなんです」と答えたあと、

 片瀬は、法律研究部の理念、目標、部員数、自主ゼミや合宿などの活動状況などを説明した。さらに、部のOB・OGで、現在法曹界で活躍している主な先輩たちを紹介しようとしたとき、

「もう、けっこうです」と、竹内にさえぎられた。

「岡本さんは、どの程度、部の活動に参加されてたのですか?」

「まだ1年やから、今は、週1でやってる憲法の自主ゼミだけやと思いますけど……。それと、確か夏に清里でやった合宿には、参加してたんやと思いますが……」

「そうですか……」と相槌を打つ竹内であったが、有益な情報を得られないのか、苛立ちの表情を浮かばせていた。


「ところで、刑事さん! やっぱり真里菜さんは、殺されたんですか?」逆に明日香が刑事に質問をぶつけた。

「それは、今のところ、なんともいえません」

「真里菜さんは、明るく前向きな性格で、決して自殺をするような子ではありません。11号館の屋上は、普段閉鎖されてます。そんなところにいったのは、誰かに呼び出されたとしか考えられません。目撃情報などは、ないんですか?」

「それにも、お答えすることはできません。捜査情報を外部に漏らすことは、できませんから……」

「でも……」さらに明日香が質問しようとしたとき、ふたりの刑事が同時に立ちあがった。

「どうもご苦労さまです。お引きとりいただいてけっこうです」

 一方的に事情聴取が打ちきられた。近くに待機していた学生課の職員がドアを開け、目で早く出ていけとばかりに催促されたので、明日香と片瀬は、やむなく会議室から退去した。


「なんや、あいつら。こっちの情報をとるだけで、ちっとも教えようとせん。ケチ臭いヤツらやなぁ」

 ふたりが、7号館の入口まで戻ってきたとき、片瀬が不満を漏らした。

「仕方ないよ。警察が、簡単に捜査上の秘密を部外者に漏らすようなことはしないよ。でも、わざわざあたしたちに会いにきたってことは、警察は、真里菜さんの事件を殺人だと考えているのよ、きっと!」

 明日香は、迷いながらも自分の印象を片瀬に伝えた。

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