第4話 明日香が刑法ゼミでこっぴどく苛められる!

 真里菜が転落死した日の翌日の午後。

 明日香と麻衣子は、陣内じんない雅彦まさひこ准教授の刑法ゼミナールを受講した。毎週水曜日の4時限は、このゼミを受けるのが日課になっている。

 明日香は、真里菜が亡くなって気が重いので、サボってしまおうか、とも思ったが、この日は、ちょうど自分の発表日にあたり、気が進まなかったが、出席することにした。


 明日香がこのゼミを選択したのは、憲法、民法、刑法の3つの法律基本科目の中で、刑法が苦手で、このままでは司法試験を受験する上で、致命傷になりかねないからだ。

 苦手科目を克服するには、ゼミできたえてもらうのが一番だと、先輩の杉浦に勧められ、陣内准教授のゼミナールを申しこんだ。麻衣子は、特になにも考えていなかったが、仲よしの明日香と一緒であれば、と申しこんだところ、ともに受講が許可された。


 明日香に与えられたテーマは、『原因において自由な行為』。

 原因において自由な行為とは、責任能力のない状態で行った行為が、犯罪の構成要件に該当する場合、その行為が責任能力を有していた原因行為に起因することを根拠に、その者の責任を問うための法律理論をいう。

 この問題は、そもそも犯罪とはなにか? ということから考える必要がある。


 法律論上、犯罪とは、『構成要件に該当し、違法かつ有責な行為』であると定義される。

『構成要件』とは、刑法が定めた犯罪類型のことで、このような行為が犯罪にあたるという犯罪カタログのようなもの。例えば、殺人罪であれば、人を殺す行為が構成要件になる。


 次に、『違法』であること。

 構成要件が犯罪類型である以上、これに該当する行為は、違法であると推定されるので、ここでは、違法でないこと(これを『違法性阻却事由いほうせいそきゃくじゆう』と呼ぶ)がないことになる。

 代表的なものとして、正当行為、正当防衛、緊急避難などがあげられる。例えば、ボクシング。ブローグをつけてはいるが、相手を殴る行為は、暴行罪や傷害罪の構成要件に該当することは明白である。しかし、犯罪とはならないのは、ボクシングが正当な業務による行為、すなわち正当行為にあたり、違法性がないからである。


 最後に、『有責』であること。つまり責任があることである。

 刑法における責任能力とは、物ごとの是非や善悪を分別し、かつそれに従って行動する能力をいう。責任能力がない者に対して、その行為を非難することができず、例え犯罪を行ったとしても、刑罰を科すことができないとされる(刑法39条)。

 テレビや新聞などで、犯罪者が『心身喪失しんしんそうしつ』や『心身耗弱しんしんこうじゃく』のため、無罪や減刑になったことが報道されることがある。これらは、責任能力がなかったため、もしくは責任能力が著しく減退していたからである。

 このような犯罪の法律論を前提に、『原因において自由な行為』を考えることにする。


 よく出される事例として、酒を飲むと酩酊状態になり、凶暴になるという性格を十分に自覚している者が、酒を飲み、心身喪失状態に陥り、人を殺傷した場合である。

 先ほどの犯罪論では、犯行時に責任能力がなく、犯罪は成立しないことになるが、その責任能力がない原因をつくった酒を飲むという行為そのものに着目し、その時点で責任能力がある以上、犯罪が成立するという結論を導き出すのである。この理論構成には、ふたつの学説が対立している。


 まずは、原因行為説。一般に『間接正犯かんせつせいはん類似説』とも呼ばれ、原因において自由な行為を、自己の責任能力のない状態を道具として利用する点で、間接正犯に類似するものと理解している。ちなみに、間接正犯とは、他人の行為を道具として利用して自己の犯罪を実現する場合をいう。例えば、事情を知らない者を使って、被害者に毒入りの飲み物を飲ませるような場合である。

 この説では、原因行為に実行行為性が認められるとして、行為と責任能力の同時存在が成り立つとする。


 これに対抗するのが、結果行為説。この説では、行為と責任能力の同時存在の原則を緩和して考える。つまり責任能力のある状態で意思決定がなされ、それに基づいて原因行為がなされた場合、自由な意思決定に基づいて、結果行為がなされたと評価でき、完全な責任を問えるとする。結果行為を実行行為として捉えるのである。

 そもそも刑法における責任の本質は、行為者に対する道義的非難であり、責任能力がある状態で原因行為がなされれば、その結果に対して、道義的非難を問うことができ、原因行為時に責任能力があれば、足りるとされる。


 このふたつの学説に対しては、それぞれ批判がある。

 原因行為説に対しては、心身喪失状態では、うまく説明できるが、心身耗弱状態では、完全な道具とはいえず、心身耗弱を理由に減刑されるという批判がある。

 この点、結果行為説では、心身耗弱でも責任を問うことができるが、この説に対しては、そもそも行為と責任能力の同時存在の原則を修正することは、刑法の大原則に反するのではないか、という批判がなされている。


 以上の学説の対立とそれぞれの批判をまとめたレジュメをもとに、明日香が説明したあと、ディスカッションが始まった。

 2、3人の学生が、明日香の説明に関連して質問したが、明日香は、無難に答えた。しばらくすると、誰も発言しなくなり、教室が静まり返った。その沈黙を破るように陣内准教授が、明日香に質問を始めた。

「村木君は、どちらの学説を支持するのかね?」

「あたしは……、あたしは、原因行為説の方が妥当であると思います」考えあぐねた上で答えた。両説とも一長一短があり、明日香には判断しかねたが、原因行為説が通説となっているので、こっちの方が無難だと思ったからだ。

「では、心身耗弱状態に陥ったときの説明を、どうするのかね? まさかこの場合、減刑されてもよいと、考えるのかね?」早速陣内は、原因行為説に対する批判をとりあげて質問した。

「それは……。それでも、仕方ないと思います」

「仕方ない、とは、とても法律論とは、いえないね。それに、原因行為に実行行為性を認めることには、かなり無理があると思えるがね」陣内は、皮肉な笑顔を見せた。

「そっ、それは……、……」


「僕の質問の趣旨が理解できていないようだから、もう一度尋ねるよ。

 先ほどの、酒を飲むと酩酊状態になって凶暴になるという性格を十分に自覚していた者が、酒を飲み、心身喪失状態に陥り、人を殺傷した場合の事例。

 この事例で、過失犯であれば、酒を飲むという原因行為に過失致傷罪の実行行為を認めることは、さほど問題ないと思うが、故意犯である場合、酒を飲むという原因行為に傷害罪の実行行為を、果たして認めることができるかね?」

「……。でっ、できると思います」明日香は、しばらく考えたが、うまく理論的に説明できないことに気づいた。しかし、黙っている方がもっとまずいと思い、思いきって断言した。


「今の事例で、人を殺すつもりで酒を飲んだ場合、酒を飲む行為に殺人罪の実行行為を認めるというのだね?」

「いっ……。いえ、それは……」

「実行行為性を認める以上、人を殺すつもりで酒を飲んだが、結果的に殺さなかった場合、殺人未遂罪が成立することになるが、それでもいいのだね? まさかこの場合も、仕方ない、というのかね?」

 陣内の表情が、まるで困り果てる明日香を見るのを、楽しんでいるかのようであった。

「……」明日香は、反論はおろか、ひと言も返すことができなかった。


 このあとも、陣内の執拗な明日香に対する質問攻めが続き、ほとんど答えられないまま、4時限の授業終了のチャイムが鳴り、陣内准教授のゼミナールは終了を告げた。

 明日香がこれほどまで陣内にこっぴどくいじめられたのは、はじめてのことだったが、その原因に薄々気づいていた。


 陣内雅彦は、城北大学法学部の出身で、学部時代は、特待生に選ばれるほどの秀才。学部卒業後、法科大学院に進学し、2年で修了した年、一発で司法試験に合格。司法修習を行わず、博士課程に進み、実務家ではなく、研究者の道を選んだ。博士課程修了と同時に博士号を取得し、5年前、城北大学法学部の専任講師に採用され、昨年、准教授に昇進している。

 背はそれほど高くないが、引き締まった細身の身体と鼻筋のとおった甘いマスクが、女性をきつける。アルマーニのスーツやロレックスの腕時計など、高級ブランド品を身につけ、見るからにお洒落な准教授。野暮やぼったい教授が多い城北大学では、ひと際目立つ存在。女子大生の人気は、絶大だった。


 ひと月前、明日香は、陣内ゼミが終わり、教室を出たとき、陣内から声をかけられた。用があるから、研究室まできてくれと。

 9号館4階にある研究室を訪ねると、陣内から食事に誘われたのだ。なぜ自分が? という疑問が頭に浮かんだが、刑法についていろいろと質問したいこともあったので、誘いを受けることにした。


 陣内が指定した場所は、新宿の高層ホテルの30階にあるフレンチレストラン。入口で陣内の名前を告げ、窓際のテーブル席に案内されると、陣内は、すでにワインを飲みながら待っていた。

 洒落たレストランで、窓から新宿の街を一望できた。大半の客がスーツやドレスなど、きちっとした身なりをしていたので、トレーナーにジーンズという普段着の明日香は、気恥ずかしい思いがした。


「君は、法科大学院に進学するつもりなのかね?」ワインで乾杯したあと、陣内が尋ねた。

「はい。受かるかどうかはわかりませんが、チャレンジするつもりです」

「法曹では、なにを目指しているのかね?」

「弁護士です。人の役に立つ仕事がしたいと思ってますので……」大学の准教授を前に少し恥ずかしい気がしたが、明日香は素直に答えた。

「法科大学院や司法試験の準備は、してるの?」

「いえ。まだです」

「司法試験は、そう簡単に受かる試験ではないよ」

 陣内は、司法試験のレベルや出題傾向などについて話し始めた。法科大学院を修了した年に一発で合格した自身の経験に基づいて、受験の心構えを説いた。

 そして、自分が法律の実務家ではなく、研究者の道を選んだことについて、料理を食べながら、ワインを飲みながら、教室で講義をしているかのように喋り続けた。


 フルコースの最後のデザートを食べ終えたとき、

「続きは、この上に洒落たバーがあるから、そこで飲みながらしよう」陣内は、明日香の意向を聞こうともせず、席を立った。

 明日香は、どうしようか迷ったが、いまさら断ることもできず、仕方なく陣内についていった。

 そこは、スカイラウンジバーで、夜景が一望できる窓際にカウンター席がしつらえてあった。

 もちろん明日香には、このようなバーに入るのは、はじめての経験だった。


「僕は、スコッチをダブルロックで。このお嬢さんには、なにか美味しいカクテルを、つくってくれないか」陣内は席につくなり、バーテンダーに注文した。

「もう遅いですから、あたしは、これで失礼します」明日香は、立ったままで暇乞いとまごいの挨拶をした。レストランを出るとき、スマートフォンで時刻を確認すると、10時をすぎていた。

「もう少し、いいじゃないか。これから僕の刑法理論を、とくと解説しようと思っているのに。まあ、座りたまえ!」隣の椅子を引き、かけるように促した。

「実は、門限がすぎちゃってるんです」女子大生のきり札を出して、帰ろうとしたが、「まあ、いいじゃないか」といいながら、明日香の腕をつかんで引き寄せられた。

「じゃあ、1杯だけ」と観念してつきあうことに。

 レストランでは、明日香は、ワインが苦手でほとんど飲まなかった。ボトルの大半は、陣内が飲み干していた。


 すっかりできあがった陣内は、呂律ろれつがまわらなくなっている。にもかかわらず、さらに饒舌じょうぜつになり、自身の博士論文のテーマである『可罰的違法性の理論』を熱く語った。

 そして、「自分について勉強すれば、法科大学院だけでなく、司法試験の合格も間違いない」といって、「ともにがんばろう!」と、明日香の手をとり、

「君さえよければ、下に部屋をとるから、これからそこで、ゆっくり未来について語ろうじゃないか」と、誘惑めいた言葉をささやいた。


 そのとき、「先生、陣内先生じゃ、ないですか?」ロングヘアーでシックなスーツを着た美人が、声をかけてきた。

「きっ、き、君は……、どっ、どっうして、ここに……」狼狽うろたえた陣内は、言葉に詰ってしまった。

「すっかりお酔いになって。若い女の子を、こんなに遅くまでつきあわせたら悪いわよ」その女性は、落ちついた口調で、まるで悪さをした弟をさとすようにいった。

 思わず立ちあがった明日香に、「あとのことは、私に任せて。遅いから帰っちゃいなさいよ」と、小声で囁いた。

 陣内が、いいわけともつかないことを喋り出したので、明日香は、これ幸いにバーを出た。


 ホテルを出て、駅に向かって歩き出したとき、女性が、法科大学院で杉浦と同級の有村ありむら美咲みさきであることに気がついた。なぜ、彼女があのバーにいたのか? に落ちなかったが、危ないところを援けられたのは、事実だった。あのまま部屋に連れこまれていれば……と思うと、背筋がぞっとした。

 この一件以来、陣内の態度が一変した。

 口説くどき落とせなかった腹いせか、それともこんな小娘に逃げられたのが、しゃくさわったのか、明日香を完全に無視したり、そうでないと、徹底的に苛めるようになった。

 いい齢の男が大人気おとなげないと、明日香は、気にも留めないでいたが、今日のように皆の前で苛められると、さすがに気が滅入めいった。



 ゼミが終わり、明日香と麻衣子が、教室から出てきた。

「なによ、あれ! 明日香を目のかたきにしてない!」と不満を爆発させながら、「帰りに、パフェのヤケい、どう?」麻衣子ご用達の『パーラールーブル』に誘われた。

 明日香も、このまま帰宅する気にならず、一緒にいくことにした。


 パーラールーブルは、大学から駅に向かう二又交差点の角にある雑居ビルの2階。窓際のテーブル席が、麻衣子のお気に入りだった。幸い客はまばららで、ふたりは、いつもの入口に近い窓際の席に座った。学生バイトのウエイトレスに、明日香はフルーツパフェ、麻衣子はチョコレートパフェを注文。

 明日香が、なにげなしに店の奥に目を向けると、先輩の杉浦が、法科大学院の仲間とともに談笑していた。杉浦と目があったので、会釈すると、杉浦は微笑みを返してくれた。


「ねえ、麻衣子。杉浦先輩がいるよ!」杉浦たちのテーブルが麻衣子の背中側で、まったく気づいていないので、そっと教えてあげた。

「えっえ!」すぐに麻衣子は振り返った。

 杉浦のほかに男子がふたり、女子がひとり。女子は、ひと月前明日香を援けてくれた有村美咲だった。話が盛りあがっているのか、4人とも笑顔で話しこんでいた。


「あの女の人、綺麗な人だね」

「麻衣子は、有村美咲さんを知らないの?」

「ぜんぜん。誰なの?」

「杉浦先輩の大学院の同級生。才女で先輩とはいいライバルらしいの。綺麗でスタイルがよくて、法科大学院のマドンナと呼ばれてる人よ。でも、こう見ると、ふたりは、お似あいのカップルだね」

「とんでもない! 私の第一本命は、杉浦先輩なのよ。邪魔しないで、もらいたいよ!」頬を膨らませながら麻衣子が抗議した。


「いい加減に諦めたら。合格確実を狙うのだったら、部長でも、いいんじゃない?」

「部長って、片瀬君? ダメダメ。彼の身長とスタイルは、許容範囲としても、ルックスは、私の趣味じゃないわ。それに、毎日同じような服しか着ない、センスのなさには、耐えられないし、あの関西弁を毎日聞かされると、気が変になっちゃうよ」

 麻衣子と話していると、心が落ちつく。自分にとって麻衣子は、かけがえのない親友だ。大学に進学して麻衣子と出会えたことが、一番の幸運だと、明日香は思うようになっていた。


 麻衣子は、山形県の新庄市の出身。どうしても東京の大学に進学したくて、両親を説き伏せたらしい。

 麻衣子曰く、あんな田舎で一生暮らすと思うだけで、気が滅入ってしまう。明日香にはわからないが、田舎暮らしにんだりして、東京の生活にあこがれる若者は、今でも少なくない。

 ひとり娘であるがゆえに、なかなか承諾しなかった両親も、麻衣子の熱意にほだされ、卒業後は、必ず実家に戻ることを条件に、渋々許可したという。


 上京した麻衣子は、西武池袋線の東長崎駅近くにアパートを借りて、ひとり暮らしを始めた。ときどき明日香も遊びにいき、泊めてもらうこともある。そのときは、夜を徹して、いろいろなことを語り明かすのだ。

 それにしてもゼミでは、陣内にこっぴどく苛められたが、指摘することがすべて的を射ていたのが、さらに癪に障る。

 噂にたがわず陣内は、秀才でキレ者だ。酔っぱらうとだらしないが、素面しらふで法律論を語らせると、論理的で法律センスが抜群。とてもかなう相手ではないことを、改めて思い知らされた。

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