兜と剣
岩瀬たかし・岩瀬橡三
第1話 「兜と剣」
『兜と剣』
岩瀬橡三 著
兜と剣
「今から、発声練習をする。いいか、気合を入れて声をだせ。」体育館脇の一周四、五百メートルはあるグランドの南端に一列に並んだ新入部員。
「コテッ、メンッ、ドウッ。」「コテッ、メンッ、ドウーッ。」「コテッ、メンッ、ドウーッ。」
「ダメだ、聞こえん! もっと腹から声を出せ~っ」「やり直し~ッ」 北端に陣取った主将以下、上級生たちの大声が聞こえる。
「コテッ、メンッ、ドウッ。」「コテッ、メンッ、ドウーッ。」「コテッ、メン、ドーッ。」「コテ、メン、トゥー・・・・。」
剣道着のままグランドを七周走った後の発声練習のために、まともに息ができず、慎司は前屈みになり両手を膝につけた。
「姿勢が悪いッ。」「胸を張れ~!」
「コテッ、メンッ、ドウッ。」「コテッ、メンッ、ドウーッ。」「コテッ、メン、ドーッ。」
夏の日差しが照りつけるグランド。ちらっと横の友人を見ながら、「入部したのは早まったかな。」と慎司は思った。二ヶ月前の新入部員募集のときの上級生たちの笑顔は遥か昔の情景に思える。
・・・・・
経済学の授業を終えた慎司とクラスメートの稲嶺は、体育館に向かった。経済、工学、農学の三つの学部を有するキャンパスの中、体育館は経済学部のすぐ近くにあった。 梅雨明けの剣道場はひんやりとしている。床に近い格子状の小窓からの風は、練習前の礼のひと時、部員たちの頬と心を通り抜けて行く。
「お願いしますッ。」
基本練習後の自由稽古。慎司は、同い年の二年先輩に向かっていった。
「ちょっと待て!」
激しい稽古の中で、なんとか、一本でも多く取ろうと勝気にはやっていた慎司に、元立ちの上級生が制止をかけた。
「井関ッ、まっすぐに打ってこい。お前、右手に力入れ過ぎだ。面打ち、やり直しッ、」
「メーンッ」・・・「メーン」・・・「メーンッ」。
奥義と信仰
秋になった。
夏の合宿を終えて、午後四時半からの通常の練習が始まった。上級生との地稽古を終えた慎司は、佐々木季邦師範に一礼し、指導を仰いだ。
最初の切り返しを終えて、剣先を合わせて打ち込んで行く。師範は時折、打ち込む瞬間を促されるのだが、なかなか前に出るタイミングがとれず、ほんの一瞬遅くなる。案の定、足が流れて体勢が崩れた瞬間、「メーンッッ!」との裂帛の気合いのもと、面に激しく、しかし、いささかの力も感じさせないような師範の一撃が降った。
なんども正面に師範を見つめて、面を捉えようと打つのだが、その瞬間に師範の姿が消えている。正面を打たれ、コテを打たれ、時に、鮮やかな胴を抜かれていた。小柄な師範ではあるが、一撃を放った時の発声は鋭く、「メーンッ、ウワン、ウワン、・・・」と残響を響かせているように聞こえる。
練習を終えて体育館の入り口で四年生の一人が言った。「いいか、俺たちはすごい先生に剣道を教えてもらっているのだ。だから、お前たちもしっかり練習しろよ。」
慎司は、少し離れて聞きながら思った。「あの七十過ぎの小柄な師範、それほど有名な先生なのだろうか。確か、京都の武専を出られて、高校や大学で教鞭を取られた方なのだそうだが・・・。」
慎司がこのことの意味を理解したのは、大学を卒業して何年も経ってからのことだった。
ある日の練習を終えて師範の前に正座し、挨拶をした慎司。静かに師範の言葉があった。
「井関君、しないの持ち方だが、右手に力が入りすぎている。力を抜いて、構えてみなさい。」
「はいッ。」
内心、「どのように力を抜けば良いのだろう。」と思いつつ注視している慎司に 「右手を出しなさい。」と師範。
右手を差し出すと、ご自分の左手で慎司の右手の三本の指を握られた。
「左手はこのように薬指と小指で軽く卵を握るように、右手は上から柄にそって軽く掴むように。」
戻って着座した慎司は、突然、別世界で師範から剣道の奥義を伝授されたような感覚を覚えたのだった。
・・・・・・・
一ヶ月半の夏のバイト。工場の夜勤で稼いだバイト料で慎司は五十本立ての黒胴を買った。漆の深い色合いが気に入った。 二回生になり、剣道の練習も一年前とはだいぶ違って、上級生や同級の者たちとも息のあった練習となっていた。
時折、師範が語る剣道の訓話の中で、その奥義を現す歌が心に響く。
山川の瀬々に流るる栃殻も身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり
そして、今一つの言葉、聖書の一句、キリストの言葉がいつも浮かんでくる。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はない。」
その年、YMCAの英会話の友人からもらった教会案内をたよりに、母校の高校近くの教会を訪れていた慎司は、初めて出席した礼拝のメッセージを聞き、クリスチャンとなっていた。
「イエス・キリストは、罪人であるあなたのために十字架でご自身のいのちを捨てられました。ここに神の愛があり、あなたを『友よ』と招いてくださっているのです。」
小柄な有田優牧師の語るメッセージを最前列で腕組みしながら聞いていた慎司。その日、圧倒的な神の迫りと臨在を体験し、激しい慟哭と嗚咽の中で回心してキリストを仰いだのだった。
姿は心を現す
「大阪よりは、だいぶ涼しいな。」
稲嶺が言った。
「夏の合宿としては、長野はいい場所だな。俺は、松本に小一から中一までいたので、長野県人、信州人さ。一応、『信濃の国』の歌も歌えるし。生まれは、群馬県。かかあ天下と空っ風の上州だけど。」と慎司。
剣道部の合宿は日増しに激しくなり、時に、コーラのような小便が出た。もちろん、練習中の水飲みは禁止である。
夕食が終わって師範や参加したOBを交えてのミーティングの頃には、疲れもピークになり、時にうつらうつらする時もある。OBの先輩たちの挨拶と話が続く。初めは正座していた慎司たちだったが、次第にあぐらをかき、立膝となり、足を投げ出し壁に寄りかかって話を聞く者もいた。
突然、黙って正座しておられた師範は、すくっと立ち上がり、車座の中央に進み出、正座し、おもむろに尋ねられた。
「井関、これはなんと言う。」
「ハイッ、正座です。」
座り直され、
「稲嶺、これは何か。」
「ハッ、胡座です。」
膝を抱えられた師範は、
「広野、これは。」
「ハイッ、立て膝です。」
最後に、横に寝て肘枕をして問われた。
「笹田、これは何か。」
「ごろ寝です。」
ピーンと張りつめた空気の中で、座り直された師範は、静かに毅然として言われた。
「姿は心を現すものである。」
忙しい仕事の合間に休暇を取って夏合宿の指導に来られた諸先輩に対して、何と礼を欠いた態度だったかに気づかされた部員たち。慎司はこの時、イエス・キリストがその表現は異なるけれども、同じ内容を弟子たちに語っておられたことを思い起こし、自らの姿勢を正されたのだった。
「人の口は、心に満ちているものを話す。」
エクスプロ・74
「お、いい匂いがするな。」
工学部の四回生、林が部室に入ってきた。大アサリを半分に横に切り、醤油を入れて餅網の上で焼いていた慎司たち。貝殻の脇から香ばしい貝汁が滲み出している。
「帰省した浅原が持ち帰ったので、焼いています。林さんも、一つ、どうです?」
学生食堂の横、池のほとりの文化部の二階立ての建物の一室。この時ばかりは磯の香りに満ちていた。
三回生になった慎司は、その一年前から聖書研究会の部室に顔を出すようになっていた。学生伝道団体、キャンパスクルセードの女性スタッフ二人や、クリスチャンの大学教授や職員も時折やってきた。 部室には、通路側にも、部屋の中にも、二十数箱の大きな段ボール箱が積み上げられていた。部長の話では、学内で配る無料の聖書とのこと。日本語と英語の
対訳で、学生向きなのかもしれない。
「ところで、今度の韓国の「エクスプロ・74」の世界大会、井関君は参加するの?」
林が問いかけた。
・・・「エクスプロ・74」は、韓国全土の教会あげて開催する、民族福音化、福音の爆発をテーマとした大宣教大会である。・・・
「はい、良い機会なので参加しようと思います。」
「東京と大阪から学生が二百名くらい参加するらしい。国際キャンパスクルセードの代表、ビル・ブライトの講演もあるとスタッフの志摩さんたちが言っていたよ。」
大宣教大会
伊丹空港を出発し、降り立った韓国の金浦空港。空港全体にキムチのような匂いがした。宣教大会参加のために日本から来た学生団体ということで、別ゲートから入って入国審査はフリーパス。トランクの中も全くのノーチェックで通過した。韓国の教会が急成長しているとは聞いていたが、社会的な評価や影響も大きくなっているのかな、と慎司は思った。
宿泊先の韓国キャンパスクルセード、通称KCCCのビルの一室。シャワー室ではバリが十分取れていない蛇口を見た。バスの窓から見る自動車は、日本の中古車のようで、所々凹んでいる車や、ドアを応急修理したようなタクシーも走っている。こんなところも、急激な経済発展の印なのかもしれない。
「夜のソウルはすごいな。百メートルと離れていない街角ごとに、十字架の赤いネオンが光っている。すごい教会の数。」同室の学生が窓の方に皆を手招きした。
翌日、学生リーダーと話をしにKCCCビルの事務所を訪れた。なんとか英語で語りかけ、歓談していた慎司は、一つの問いかけをした。
「韓国の教会がこれほど急激に成長した理由は何ですか。」
しばしの沈黙の後、彼は答えた。「それは、『祈り』です。」 その瞬間、日本の統治時代から朝鮮戦争という苦難の火の中を潜り抜けてきた民族の叫びを心に感じ、慎司にはもはや次の言葉が出てこなかった。
ソウルでも最大級の教会の一つ、永楽教会やヨイド広場の大会会場では、金 俊坤博士の講演や、世界的に有名な伝道者や各国の牧師たちのメッセージが語られていた。通訳者の日本語をイヤホンで聞きながら、百万人が集う世界大会に参加している実感がこみ上げてきた。
非常時は戦闘機の滑走路になるというヨイド広場のアスファルトの上は、何しろ暑い。韓国の人々は様々な敷物を広げてメッセージに聞き入っている。
慎司は、屋台のような売店で二個購入した帽子を取り出した。薄い絹地のような化繊の布で造られた帽子。平たい三つ折りの帽子は、袋から出して手を離すと三~四倍に大きく広がり、カウボーイハットのようになる。帽子の周囲に入れてある平たく細いバネが瞬間的に帽子を広がらせる。白色と薄茶色の帽子には、それぞれ、宣教大会の大きなロゴが印刷されていた。頭の大きな慎司は、売店で特に探し当てた白色の大きなサイズの帽子が気に入った。
他の色の帽子は全く頭が入らなかったのも、一つの理由ではあったが。 ヨイド広場の壇上では、ビル・ブライト博士や韓国の伝道者や牧師、世界的な伝道者が力強いメッセージを語っていた。六~七十万の大群衆の中に座りながら、慎司は高いステージの壇上から自らや大群衆を見渡しているような、不思議な感覚を覚えたのだった。
真夜中のヨイド広場。
雨が降りだしているにもかかわらず、何十万の人々がメッセージに耳を傾け、「チュヨー(主よ)、チュヨー(主よ)」と叫ぶような祈りをしていた。肌寒くなってきた。日本から来た女子学生を気遣ってか、横の婦人が上着と傘を差し出してくれている。
雨がますます強くなって来た。帰ろうともしない大勢の人々。すでに一年前に洗礼を受けていた慎司であったが、彼らの激しい祈りと信仰に圧倒されていた。 「そろそろ、帰ろうか。バスの時間が来ている。」だれかが声をかけてきた。周りの学生たちとともに、雨の中に座る大群衆を見渡しつつ、心惹かれながらも大型バスに乗車したのだった。
狙撃事件
八月十五日。
「おい、朴 正煕大統領夫人が狙撃された。犯人は日本人だというニュースが流れているらしい。」 少し興奮しながら、一人の学生が伝えてきた。何か事件が起こっている雰囲気は、慎司たちも感じていた。道路で立ち話をしている人々の雰囲気や、何か泣き叫んでいる年配の女性たちの姿があった。
「朴大統領夫人の陸 英修さんは、「国母」として韓国の人々から尊敬されていると聞いた。」今一人の学生が話し出した。
・・・・・
十九日、国葬の日。
宣教大会が終了し、慎司たち一行はバスに乗り、金浦空港へ急いだ。沿道には大勢の群衆、特に、激しく泣き叫む女性たち、母(オモニ)たちの姿があった。入国時にはフリーパスだったが、出国ゲートでは、一人ずつ徹底的なボディーチェックを受けた。韓国における大伝道大会に参加できた喜びとともに、韓国の人々の悲しみの一端を心に刻みつつ、信仰と経済と政治のエクスプロージョン(爆発)の只中にある国を後にしたのだった。
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『兜と剣』
( 藤本義一文学賞(第1回)応募作品・ 2015年)
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