Passion

鳥海 摩耶

Passion

 私はダム管理官だ。日々流れてくる感情を貯め、放出される感情をコントロールしている。流れる感情のエネルギーは、主の生命力となる。同時に私達の生きる力にもだ。大事な仕事であるのは自覚している。誉めて欲しいくらいだ。と偉そうに言ってはみたが、仕事らしい仕事はなく、毎日退屈だ。他のダムの管理官と話をしたことがあるが、毎日氾濫が起きて大変なやつもいれば、ほとんど感情が貯まらず困っているやつもいるらしい。本人たちは私の仕事具合を聞くと、皆口を揃えてこう言う。

「君が羨ましい!」

 羨ましいのはこっちだ。毎日毎日、同じ量。同じような流れ。もう飽きたよ。ちょっとくらい、人間らしく感情というものを見せてくれ。なあ、主さんよ。

 

 

 

 それは、ある日の夕方だった。私はいつも通り退屈なシフトを終え、夜勤の同僚に交代しようとしていた。一通りのチェックを終え、感情量を記入していた時、ふと気づいた。

「……増えてる?」

 そう。感情量が、わずかだが増えていたのだ。多少の増減は日常茶飯事。だが、今日の増え幅はいつもより多めだった。私はしばし考え、増加幅は明日には戻るだろうと推論を立てた。どうせまぐれ。日が昇れば元通りさ。私は帰宅後のビールに思いを馳せながら、同僚にシフトを代わった。

   

 翌朝。やけに身体が重い。ベッドから足を下ろすのが億劫に感じる。飲み過ぎたかな。

いつもより遅れて出勤すると、夜勤の同僚が眠そうな目をこちらに向けてきた。

「なんだ、昨日飲み過ぎたのか?」

「飲み過ぎってほどじゃないんだがな。やけに怠いんだ」

「そりゃご苦労様。俺は夜勤でクタクタさ」 

 私はメーターを見て、違和感に気づいた。

感情量は減っていなかった。むしろ昨日見た時より増えてるじゃないか。

「おい。このメーター値、昨日から増えてるんだが」

「ああ、それか。昨日の夜からジリジリ増えてるよ」

 おかしい。

「ひとまず、一週間経ってどうかだな。俺はこのまま仮眠室で寝てくよ。夜勤の間中眠くて仕方なかったんだ」

「そんなにか。昼間遊んでたのか? よくパチンコしてるじゃないか」

「いやいや、そんな気力はねえよ。他のやつも言ってたぜ。なんかのぼせたみたいに怠いって」

 私はそれを聞いて、何かが我々に起きていると気づいた。だが、何が……

 

  

 その後、一週間計測を続けた。結果はあまりに不規則。上がったり下がったり、激しい。同時に、我々の体調もジェットコースターのようにフラフラする。こんな調子では仕事どころじゃない。そのうち、体調不良を訴えて仕事を休む同僚が次々に現れた。例のパチンコ狂いも、パチンコどころじゃないらしい。私もビールを嗜む余裕はなく、日々疲労困憊していた。明らかに異常だ。主の感情に劇的な変化が起きたのは事実だ。これまで平穏を保っていた主の感情グラフ。それを狂わせたのは、一体何か。

 

 

 それは、突然訪れた。グラフが狂いだしてから二週間後の朝。やけに静かな朝だった。私は夜シフトだったから、睡魔に襲われながら数値を記録していた。管理室には朝日が差し込み、鳥のさえずりが聞こえる。空間の心地よさに、ふっと意識が飛びそうになる。床に鉛筆を落とした。軽い音に目を覚ます。と、その時── 

 地面が揺れた。地面だけじゃない。感情メーターも揺れている。グラグラする空間の中で、私は机にしがみついているのが精一杯だった。揺れは激しくなったり落ちついたりを繰り返す。どれだけの時間揺らされていたのだろうか。気づいた時には揺れは収まり、辺りは静かになった。

「おい! ダムが!」

 外から同僚が駆け込んできた。

 私は管理室を飛び出した。

 

 

 

 一面の赤。ダム一体が薔薇色に染まっている。しかも、キラキラと輝きを放っている。まぶしい程の紅。情熱の、赤。

 私は確信した。ああ、主は恋をしたのだ。

「ダメだ! もう貯められない!」

「緊急排水! 急げ!」

 同僚たちが慌てる中、私はただ茫然と眺めるのみだった。

 ダムから放流が始まった。溢れ出た感情は、一匹の龍となり、荒れ狂いながら躍り出た。 

 そうか、主にもこんな感情が──。 

 

 

 

 私はダムを見下ろしながら、疲労感の中にほのかな安堵が広がるのを、はっきりと自覚した。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Passion 鳥海 摩耶 @tyoukaimaya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ