第92話 罪深き恋人報告(双葉陽毬)

“――起きろ。次はおまえの番だぞ”


 そんな声が聞こえた気がして、あたしは目を覚ました。


 すぐに閉じそうになるまぶたをこすって、辺りを見渡す。


「ん……外……?」


 背後には知らない大きな家。

 ふらふらと立ち上がって、目を前に向けると高い塔みたいな建物があった。


 ここ数日ずっと続いていた耳鳴りがいつの間にか治まってる。

 不思議と……どこか懐かしさを覚えながら、あたしは引き寄せられるように目前の建物へ歩いていく。


 スチール製のドアに鍵はかかってなかった。

 おそるおそる開いてみると、中はとても暗い。

 そしてやっぱり、郷愁にも似た、過去を懐かしむ気持ちになる。


 どうしてこんな暗闇に、あたしは安堵なんてしてるのだろう。


 ごく自然に、思い出と連動した記憶がよみがえる。

 脳のその部分にアクセスすることを、まるで壁のように阻んでいた耳鳴りが消えたから。

 そうなのかもしれない。


 真っ暗闇でひとり、目を閉じた。

 まぶたの奥に、かすかな光が差した。


 それは、あたしのとても大切な――。




“さみしくないか? 海未うみ


“だいじょうぶ。兄ちゃんがいるから”


 幼いあたしは、そう言って兄の手を握った。


 月明かりが差し込む殺風景な部屋で、ベッドを背に並んで座って。

 部屋も床も冷たかったけど、繋いだ手だけは温かかった。


 児童養護施設での消灯後は、いつもこうして兄妹ふたりで寄り添ってた。

 とくに辛い思いはしてない。

 言葉の通り、だって兄ちゃんがいたから。


 事務的にお仕事をこなす職員さんとも大きなトラブルはなくて。

 ただ、あたしが泣きわめくから就寝のときは兄ちゃんと同じ部屋で眠ることを許されてた。


 物心がつく前の話だから、施設でどう過ごしてたかはあまり思い出せない。

 お絵描きをして、食事の前にお祈りをして、兄ちゃんと手を繋いで眠る。

 覚えているのはそれくらいだ。


 大きな転機は、施設をひとりの男の人が訪ねてきたとき。


“はじめまして。蒼介くん、それに海未ちゃんだね”


 男の人は柔和に微笑んで、あたし達ふたりに“新しい生活を始めよう”と、そう言って手を差し伸べてきた。

 施設の職員さんも“手続きは済んでるから”って。


 あたしと兄ちゃんは、何もわからないまま知らない田舎の家へ住むことになった。


 でも。


“――その汚らしい身なりを整えろ。おまえ達には、弓削家の格式というものをまず叩き込んでやる”


 やさしい笑顔の男の人はすぐにいなくなって、あたし達をゾッとするような冷たい目で見下す男が、養父となった。


 それは……たとえば獲物を狙うときの蛇みたいな目で――。




「何も、思い出すな」


 ハッとなって、俯けていた顔をあげる。

 暗い部屋に、スーツ姿の男性が立っている。


「……楝蛇、さん?」


 コンクリートの壁に寄りかかった楝蛇さんは、眉間にしわを寄せて脂汗を額に浮かべていた。

 ゆっくりと体を前に、ふらつきながらもあたしへ手を伸ばしてくる。


「いま……すべて忘れさせてやる」


 あたしは本能的にその手を避ける。

 緩慢な動きの楝蛇さんから距離を取ることは容易かった。


「忘れさせるって、どういうことですか」


 あの耳鳴りみたいな現象に、あたしの記憶は狂わされていた。

 だけどもう遅い。


「あの家は、本当に厳しかった。反抗も、弱音すらも許されなかった。叩かれて、髪を引っ張られて、外に投げ出されて。兄ちゃんとも別々に過ごさなきゃいけなくて、毎日が辛くて、辛くて」


 思い出した弓削の家での生活。

 慰霊のための神事だとか言っていたのは覚えてる。

 厳格な躾だなんて、そんなレベルはとうに超えてた。

 その日の気分で、腹いせのように暴力を振るわれた。


 ……ううん、でもまだ。


 こめかみに指をそえる。

 なぜか記憶には齟齬がある。


 弓削の家で過ごした時間は苦痛だった。

 けれどあたしには確かに、暖かな家族団欒の光景が脳裏に残ってる。


 居間でみんなで……お父さんお母さん、兄ちゃんと一緒に笑って過ごした記憶が。

 そんなに前の話じゃない。

 あたしは中学生で、陸上部の話をみんなに聞かせたりして――。


「思い出す必要などない!」


 いっそう険しい顔になった楝蛇さんから逃げるように、目についたドアを開けて中へ飛び込んだ。

 後ろ手にドアを閉め、弾む息を整える。


 そういえば、この建物はなんなんだろう。

 さっきまでいた部屋よりもここは暗くて、見上げると天井が吹き抜けになっているらしかった。


 おぼつかない足取りで前に進みながら、はるか高みに何があるのかと目を凝らす。


「……よう」


 ふいに呼びかけられて、驚きのあまり肩が跳ねあがった。

 真っ暗闇の部屋に、誰かいる。


 少し慣れてきた目で怖怖と確認すると、部屋の中央には椅子があった。

 その人は椅子に縛りつけられてるようで、そんな状態なのにあたしを見て微笑んだ。


 ひどくやつれて、衰弱した顔で、なのにあたしを安心させるためだけに笑ったのだ。

 あたしにはそれがわかる。

 ぜったい、わかるんだ。


「……さみしい思いしてないか? 海未」


 どうして……。


 もっと早く思い出さなきゃいけなかった。

 忘れるなんて許されないことだった。


「昔話したの、覚えてるか? ……兄ちゃんさ、彼女できたぞ。おまえはできるわけないって言ってたけど……どうよ、すげぇだろ」


 あたしはコクコクと何度も頷いて。

 歪んだ視界の真ん中に、兄ちゃんを今度こそしっかり捉えた。

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