第54話
夜闇と静けさが辺りを包みこんだ頃、術師装束の上に灰茶の
馬よりも軽い蹄の音を立てながら白山羊がゆるりと夜の平地を駆ける。
「……お主、もしかして怒っておったのか?」
白山羊が足を止めた時、背に跨るトレンスキーが小さく問いかけた。
「何のことなのだ?」
「ゲルディークに対してじゃ。その、……シウル殿のことで」
白山羊の耳がぱたりと動く。
「別に怒ってはいないのだ」
「本当か?」
淡々とした声からは言葉の真偽が分からない。戸惑うトレンスキーに白山羊は言葉を重ねた。
「あれの言うことも事実であるとは理解しているし、我が主もそれを理解した上で戦闘用
「そう、なのか?」
「流す血も、恨みの声も、
聞いたトレンスキーは痛みをこらえるように目を細めた。
「……シウル殿はそこまで覚悟を決めておったのか。ワシとはえらい違いじゃな」
「君とは、というと?」
淡い月を見上げながら、白山羊の背に乗るトレンスキーは
「昼間な、サリエートがワシを見ていたのじゃ。氷に包まれた野を見渡して、あやつはワシを見た。その目に『何が変わらない?』と問われたような気がしたのじゃ」
白山羊の角から手を離したトレンスキーは右腕に目を落とす。月明かりを受けて、
「……どちらも同じじゃ。何も変わらない。望まぬ力を与えられた人殺しでしかない」
「私は、君とあれとは違うと思うのだ」
白山羊が言ったがトレンスキーは無言だった。答えが返ってこないことを知ると、白山羊は再び地面を蹴って進み出した。
やがて白山羊は野に生える一本の木に身を寄せた。遮るものが少なく、これ以上は近づけそうにない。しかし朝日が差せば最も早くアーシャ湖を目指せる距離だ。
「……久々じゃのう。お主とこうして夜中に移動するのは」
白山羊から下り、体を伸ばしながら夜の空気を吸い込んだトレンスキーが思い出したように言った。
「あの時、アンティと出会ってなければ。たしかワシらはアーフェンレイトまで行く予定じゃったな?」
「あの地は、以前訪れた時も招来獣が多く残っていたのだ」
トレンスキーは懐かしそうに笑うと、四肢を折った白山羊の隣に座り込んだ。
「ゲルディークと初めて会った頃じゃから、二年前か」
「あの時はカルア・マグダの騎士らしき者が襲われていたのだ」
「ああ、覚えておるぞ。ワシとお主で助けに入ったらずいぶんと驚いた顔をしていたのう」
月明かりに照らされた星空の下、座りこんだ一人と一頭はアーシャ湖を眺めながらぽつりぽつりと話を続けた。
会話が途切れると、トレンスキーはそっと白山羊の首に両腕を回した。
「最近は、毎日が賑やかでとんと忘れておったが」
温かい毛並みに自分の額を押しつけながら、トレンスキーは小さく呟く。
「……二人だけの旅とは、こんなにも静かなものじゃったか?」
白山羊が不思議そうに尋ねた。
「君は、もしかして心細いのだ?」
答えるかわりに、トレンスキーは白山羊の毛皮に強く顔をうずめる。白山羊はそれを見て若草色の目を静かに閉ざした。
月がようやくトーヴァ連峰の向こうへ隠れた。入れ替わるように東の果てがだんだんと白みはじめ、辺りの輪郭を少しずつ明らかにしてゆく。
夜明けは近かった。
「……そろそろじゃな」
固い声で告げたトレンスキーの横で、不意に白山羊がむくりと立ち上がった。その視線が平地の先に向く。
「何か、近づいてくるのだ」
大きく耳を揺らす白山羊の側で、立ち上がったトレンスキーも鋭く周囲を見渡した。
「敵か?」
「いや、違うのだ。これは……」
白山羊は戸惑った様子だった。やがて、トレンスキーもその姿を認めて大きく目を見開いた。
薄明に照らし出された大地の先に、こちらに向かって駆けてくる姿が見えた。日に焼けた肌に、帽子を乗せた短い黒髪。黒の術師装束を身につけた小柄な姿は──。
「……アンティ?」
トレンスキーはぽかんとその名を呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます