第53話

「本当ですか、師匠せんせい?」

 アンティが声を上げる。その隣でラウエルは静かに首をかしげた。


「昼間、サリエートは歌声以上の攻撃をしてくることがなかった。思えばあやつは、この季節に湖を凍りつかせるほどの冷気を絶えず放ち続けているのじゃ。いくら疲れ知らずで不死身の招来獣しょうらいじゅうとはいえ全く消耗してないはずはない。……どうじゃ?」


 トレンスキーからの視線を受けたラウエルは少し考えた後で言った。

「たしかに、そこまですれば多少他の機能が鈍くなっていても不思議ではないのだ」

「あやつがしておるのは籠城戦ろうじょうせんじゃ。そして、その要となるサリエートの声はワシとラウエルには効かないと分かった」

「つまり君は……」


 ラウエルの言葉の先を、盛大なため息と共にゲルディークが継いだ。

「他の招来獣ごと、いつも通り真正面から突破するつもりだろ。本当に向こう見ずだな」

「しかし、急がねばならん理由もあるのじゃ」

 トレンスキーは薄青色の目を細めた。

「今まであやつが拠点を変えなかったのは、害となる人間が全く訪れなかったからじゃ。それが今回、ワシらによって荒らされた。あやつがアーシャ湖を放棄する可能性だって大いにあり得る」


 今再びサリエートが動けばこの機会は失われる。移動した先がもし人の住む町や村の付近であれば、さらに被害が広がる可能性もある。

 覚悟を決めるように瞬くと、トレンスキーはラウエルに告げた。


「今夜中に移動し、明日の夜明けと共にサリエートへ奇襲を仕掛ける。……良いか、ラウエル?」

 ラウエルは表情を変えることもなく静かに頷く。

「君がそう決めたのなら、私はそれについてゆくのだ」

「おいおい、そんな簡単に……」

 言いかけたゲルディークに、ラウエルは軽く目を落として言った。

「君はどうせ動けない、ここで休んでいるといいのだ」

「何だと?」

 鳶色とびいろの左目がラウエルを睨む。ラウエルは淡々とした声で告げた。

「たとえ動けたとしても、サリエートの能力ちからの前で君は無力なのだ。また前後不覚に陥って、これらに傷を負わせることは君にとっても不本意なのだ?」


 ぴり、と張りつめた空気が辺りに漂う。アンティはおろおろと二人を見比べ、トレンスキーも戸惑った声を上げた。

「お、おおい、お主ら……」


「……そりゃ、そうだな」

 先に視線を逸らしたのは意外にもゲルディークの方だった。苦虫を噛み潰したような表情で小さく言う。

「悪かった。勝手についてきたのに、足引っ張って迷惑かけた」

 ラウエルは何も言わなかった。すぐにその姿を白山羊へ変えると、下草を踏みながら焚き火の側へと戻っていった。


「……その、ゲルディーク」

 白山羊の背中を見送ったトレンスキーは、視線を逸らしたままのゲルディークに小さく耳打ちした。

「今回は、ええと、相性が悪かったというだけの話じゃ。お主のおかげでサリエートについて知れることもあったのじゃし、あまり気を落とすな」

「気ぃ遣ってくれてどうも」

 ため息と共に言ったゲルディークは、ふと深紅の術師装束に腕を伸ばした。

「……トレンティ」

「ん、何じゃ?」

 顔を近づけたトレンスキーの襟元にゲルディークが手を回した。大きく引き寄せられて薄青色の瞳が大きく見開かれる。その耳元に、ゲルディークは短くエマンダ語で言った。


「──死ぬなよ、絶対」

 ぽかんとしたトレンスキーは困ったように笑った。

「今の貴殿きでんに言われるのは複雑だが、善処する」


 ゲルディークの腕をほどいたトレンスキーは後ろを振り返った。

「アンティ」

 すぐ側で気まずそうに二人の様子を見守っていたアンティも、改まったトレンスキーの声を聞いて固い面持ちになる。

「はい、師匠せんせい

「お主はここに残ってくれ」

「え?」

 アンティの目が大きく見開かれた。

「ゲルディークはしばらくここから動けぬ。万一の時のためについていてほしいのじゃ」

「でも、僕も……」

 反駁はんばくの言葉は小さく首を振って遮られた。ゲルディークは何も言わず、二人の会話に耳を傾けている。

「幸い昼間は何とかなったが、他の招来獣たちやサリエートの声がお主にどんな影響を及ぼすかも分からぬ。……頼む、どうか安全な場所で待っていてくれないか?」


 トレンスキーの表情は真剣だった。

 アンティはもの言いたげに唇を動かしたが、結局何も言うことなくうつむいた。

「……分かりました」

 トレンスキーの視線を受けながら、アンティは小さく頷いた。

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