第3話

 女が取り出したのは小さなガラス玉だった。ちょうど親指と人差し指をつなげた程の大きさで、透かせば緑と青空を映し出した奥にきらきらとした光の粒が輝いているのが見える。


 女はガラス玉を宙に放った。

 緩やかな放物線を辿ったそれは、地面に当たると薄殻うすからが割れるように表面から砕け散る。その瞬間、何十という鈴を鳴らしたような清冽せいれつな音が辺りに響いて広がった。

 不快ではないが、背筋がぴりりと伸びるような畏怖を感じさせる音。誰もが動きを止めずにはいられない空気がその場に満ちた。

 からすの羽ばたきはもう聞こえない。

 雷の衝撃からめつつあったキツネモドキたちも、息の止まるような静けさの中に縫い留められていた。


 女が唇を開いた。


『──くもたっと四色ししょく四晶ししょう

 世界せかいひらきし十六じゅうろく

 力秘ちからひめたる深淵しんえん

 御座みざましま光王こうおう大前おおまえ

 つつしたてまつりてもうさく

 光明こうみょうよりづり

 いまとおおもまよ

 声無こえなこえとどたま

 その門扉もんぴれる非礼ひれい

 ひろ御心みこころもとに、ゆるされたまえ──』


 雪解けの川のように、途切れることのない女の声が静まり返った空間に染み渡ってゆく。


 深く厳かな抑揚で紡がれるトフカ語。それを唱える女の周辺の空気は次第に揺らめき、日の光とは違うわずかな燐光りんこうが徐々に漂いはじめた。食い入るように女を見つめていたキツネモドキたちの中から、口々に小さな声が上がる。


 トフカ語を唱え終えた女が閉ざしていた目を開いた。

 薄青色の瞳が、ゆっくりとキツネモドキたちの姿を映し出す。


『……帰りたいのだろう?』

 トフカ語で囁くその表情は先ほどまでの女とは異なって見えた。

 発する声音は何一つ変わらないはずなのに、まるで別人のような気配をまといながら女はキツネモドキたちに言った。

『道は拓いた、君たちは──”還れる”』


 女は地面に膝をつくと、穏やかな表情で両腕を広げてみせる。慈愛の笑みで小さく頷くと、それを見たキツネモドキたちは次々に女の側に駆け寄っていった。

 女の抱擁ほうようを受けるようにその胸に飛び込むと、灰色の体は女に届くより前に宙に溶けるようにふわりと姿を消した。

 十二体のキツネモドキたち全てが、元いた場所へ、元ある形へと”還って”ゆく。


 後に残ったのは穏やかな青空の下、深紅の装束の女と雷に打たれて焦げついた大地だけだった。

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