四精術師と帰還の詠

上杉きくの

フィリエル領アレットにて

第1話

 薄暗い山道に馬蹄ばていの音が響き渡る。


 初夏の茂みの中にうっすらと残る、人の歩みが絶えて久しい道。風雨にさらされてもなお踏み固められた地面だけが、かつてトーヴァの峠を越えるために多くの旅人が歩んできた過去を伝えている。


 そんな道の上を駆けるのは一頭の白馬だった。

 荒れた足場にも突き出た枝葉にもその脚は落ちることがない。木々のすき間から照らされた馬体はしなやかで、山道を行くには不釣り合いな美しさだ。

 白馬の背には色あせた革の鞍が置かれ、しがみつくように一人の人間が乗っていた。薄手の外套がいとうを目深に被り、手綱を握ってはいるものの白馬に指示を与える様子はない。


「──っ!」


 不意に白馬が大きく跳んだ。

 右手の茂みから獣が飛び出してきたのだ。鞍上あんじょうの人間が着地の衝撃に耐えながら小さくうめく。

「多いな、まだ増えるか……!」

 その口からこぼれた言葉はクウェン公用語。やや低く、芯の通った声は若い女のものだった。


 女が外套のフードに手をかける。

 灰茶の布を下ろすと、隠れていた金色の髪があらわになった。鋭く背後を振り返った瞳は冬の晴天のような澄んだ薄青色をしている。

 女の視線の先、白馬が駆けてきた道には何匹かの獣の影が見えた。先ほど茂みから現れたものと同じ外見で、獲物を狙う猟犬のように低く唸りながら白馬を追ってきている。


 女は前方へ視線を戻すと声を上げた。

「ラウエル、数はっ!?」

「八体、全てキツネモドキなのだ」

 すぐに平坦な男の声が答えた。馬上の女はそれを聞き、やや思案するように軽く目を細める。


 白馬の脚が一段落ちた。

「……次に開けた場所に出たら彼らを”かえす”。良いか、ラウエル?」

「心得たのだ」

 ラウエル、と呼ばれた男の返答は簡潔だった。女はあぶみから足を離すと、白馬にぴたりと身を寄せながら進む先を見つめた。


 やがて、道を覆っていた木々が途切れた。

 薄暗い木陰から日だまりの中へと飛びこんだ瞬間、白馬の姿が消えた。手綱を握ったままの女は勢いよく前方へと放り出される。

 予期していたのだろう、女は衝撃を受け流しながら地面に転がり体勢を整えた。音を立てて辺りに落ちる鞍や荷物に目を向けることもなく、その視線は獣たちが迫る茂みの方へと向いていた。


「追手が増えた、気をつけるのだ」

 女の頭上から鋭い羽ばたきと共に、先ほどの声が響いた。

「右手から三、左から一。全部で十二体になったのだ」

 聞いた女の表情がやや強ばった。

 薄青色の瞳が迷うように揺れる。


 十二体。予想以上に多い。まだ退路はあるし、一度退くべきか?


「……いや」

 女はちらりと外套に隠れた右腕に目を落とすと、大きく息を吸って前方を見すえ直した。

「このまま行く! お主は周囲を見とってくれ!」

 叫ぶと同時に女は外套をはぎ取った。

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