勿忘草
鯖缶/東雲ひかさ
第1話
「徒然なりい、徒然なりい、徒然な日々ぃ」
妙なメロディに乗せて彼女は歌った。
もはや口癖とも言えるその歌を聞くたび、彼女は満ち足りることはないのではないだろうかと密かに思った。
○
僕に関して語ることなどは多くない。
ただ、彼女に恋をしたしがない男子高校生二年生だと念頭に置いてもらえていれば間違いはないだろう。
恋とは言うものの、的確に僕の心境を表現するならば恋のようなものと言った方がニュアンスが近い。
恋はもっと甘酸っぱくて、ほろ苦いものだと聞いていたのだが僕のはどうやら少し違ったようだ。
そこら辺の核心は、恋のようなものしかしたことのない僕にはやや説明しがたい。
○
僕はスポーツとは無縁の生活を送っていたのだが入学に際してあらゆる物事に対する謂われのないヤル気がふつふつと湧いて出ていた。
そうして「そうだ。運動をせねば」と決起した。
僕は学校から配られた新入生のしおりを広げ、運動部一覧を眺めた。
僕は野球部に入ることに決めた。
ルールの理解すら危うかったがそれは他の部も同じであったし、それならばスポーツのジャンルに置いても、高校の部活に置いても、花形と言っていい野球部にするのが無難だと思った。
そうして僕は入部間もなく、未曾有のへなちょこぶりを衆目に晒し、即ベンチ入り。その上、ベンチで傷をなめ合っている者にも慰み者にされ、精神を壊しかかった。
しかし僕はなけなしの根拠希薄な新入生パワーでどうにかこうにかアイツらを見返してやろうと当時では存在しなかった野球部のマネージャー業を買ってでた、というより勝手に始めた。
「何故野球部で」と思うだろうがそれは野球部内で僕の地位を確立できれば僕を蔑ろにしたベンチの奴らはジェラシーを感じざるを得ないと思ったからだ。
全ては僕の暗い思惑だった。
マネージャーと聞けば雑用係を思い浮かべるだろう。
それで地位が確立できるのかと疑問に思われるだろう。実際、僕もそう思った。
だから僕は有り余るように見えてその実、まるでないに等しい高校生でいられる時間を費やし、選手育成に着手した。
「高校生が何を」と鼻で笑う方も居られると思われるだろう。
しかし僕は適材適所、水を得た魚、餅は餅屋と言わんばかりに八面六臂の活躍を果たした。
それも部の戦績という目に見えた成果をたった一年足らずで叩き出して。
ここでどのような方法や手段をとったのかを言及するのは控えさせて頂きたい。それを語っては敵方に塩を送る結果となってしまう。
戦績の詳しくを語るのも身元が割れるのが怖いので控えさせて頂く。
かくして僕は選手らの信頼と、ベンチの奴らの妬み嫉みを湛えた視線と、マネージャー業の文書的存在、そして圧倒的部活内での地位を勝ち取った。
そしてその翌年の春、彼女がマネージャー業が新設されたと知って入学、入部してきた。
「女子たるもの、野球部のマネージャーを経験しないでなんたるか。そんな思いで入部しました」
妙なステレオタイプ風の自己紹介をした彼女は部員からも他の新入部員からもある意味一目置かれた。
僕も一目置いた。そしてあまり関わりたくないと思った。
しかし彼女はマネージャーとしてここにいて僕はその業務の先輩である。
関わらないわけにはいかなかった。
これが彼女との出会いだった。
○
彼女のことを少し語ろうと思う。
容姿は揃えた短髪と小柄な体格に少し少年を感じさせる。
ただ、ひとたび女子として認識すれば掛け値なくかわいいと言える風貌だ。
これは今だから言えるのであり、恋的盲目の産物かもしれない。今初めて恋の甘酸っぱさを感じたかもしれない。
話を戻して彼女の性格についてだが、好奇心旺盛であり、やや変人だ。
それの具体的なことは追々わかるだろう。
だがその変なやつらしい行動が少し愛おしく感じたりもする。……また甘酸っぱさらしきものを感じた。
○
意外にもその年にマネージャー希望で部に入ってきた者は彼女以外にいなかった。そして部初めての女子部員だった。それ故、強制的に彼女は紅一点になった。
マネージャーは僕と彼女しかいないので、やたらと二人きりの仕事や時間があった。
部員たちの視線が痛々しいのは気のせいだったのか。
いや気のせいではあるまい。
そんな視線を向けられていたのもあるが、僕にも人並みの男子高校生らしい女子への憧憬の念や一歩引いて見ていたいというこわごわした気持ちもあって始めはぎこちなく彼女とコミュニケーションしていた。
しかし女子と主語を大きくとったものの意外と慣れるものでぎこちなさは徐々になくなり、仲もそれなりになり、一ヶ月もしないうちに心の余裕ができてきた。
しかしそれもつかの間、その心の余裕に別のものが入り込んできた。それは彼女の危うさだった。
彼女は何かと元気ではあるのだが時折、風船がしぼむように、むしろオーバーフローして割れてしまったが如く元気をなくすときがあり、そんな日は部員内に伝播した陰鬱な空気が漂い、手の施しようがなくなった。無論、僕もその魔の手からは逃れられるはずもなく鬱屈としている。
しかし彼女は翌日になると何事もなかったように溌剌と部に顔を出す。
部員の中には他人から押しつけられた陰鬱な気持ちを引きずっている者もいるというのに。
そして彼女は薄ら笑いを浮かべていることがよくあった。奇妙だと思いつつも「どうかした」と理解を試みる。しかし決まって「いえ、別に。先輩にはあまり関係ないので」と返され、負わなくてもよかったはずの深手を負う。
それは他の部員も同じだった。
そしていつしか「紅一点、無策に触れるべからず」と禁欲の訓戒のようなものが部内で流布されるようになった。
そしてまたもや彼女は一目置かれることとなった。
○
それから日は過ぎ、七月も終わる頃、夏休み目前である。
とはいうものの我々野球部は某大会の予選を突破し、夏休み返上で大会の本戦に臨むことになっている。
忙しいのはむしろこれからである。
本日は休日だが部活はある。身支度を整え、僕は学校グラウンドに出向いた。
外に出ると日は照っているものの風は吹いて夏にしては涼しかった。
「徒然なりい、徒然なりい、徒然な日々ぃ」
学校に着くと彼女の間の抜けた歌が聞こえた。
グラウンド横の水道でバケツに水を汲んでいるようだった。
「おはよう」
「遅いですよ。重役出勤ですか」
彼女は水の音で声がかき消えないよう張り上げて僕に皮肉を言った。
「僕は定時出勤だ。それよりそっちが早く来ている方が珍しい。何かあったのか」
僕は論点をすり替えるように皮肉り返した。
「暇だったんで来たんですけど、結局暇でした」
水を止めて彼女は言った。
彼女はよく暇だ、暇だと言う。
日常にいいようもない不満を抱いていて、それを何も為さずに愚痴っている、わけではない。
暇に反応して沸き立つ好奇心で様々な趣味を手広くやっていて、マネージャー業もその暇つぶしの一環とのことだ。
しかしながらその天性の飽き性で大体長続きしない。
マネージャー業も「あんまり面白くなかった」と言っていたので何故続けるのかと訊いたら「部活だって学業です。学業を疎かにしてはいけません。学徒、勤勉であれです」と何か線引きがあるようだった。
「水を汲んでどうするんだ」
僕は彼女がいつも通り何かをしでかそうと準備ををしているのではないかと思った。
初めてしでかした事件で彼女はライン引きを使って校庭にナスカの地上絵を模したであろう猫の絵を描いた。
悠久のアニメでこんなことがあったような気がする。
幸い、校長が猫好きで事なきを得た。
他にも丸まるドリアンを持ってきて「食べましょう」と言った次の瞬間にはドリアンは切り開かれ、ロッカールームは阿鼻叫喚のさながら地獄。あるものが嘔吐し、それにつられ続くように他の者も嘔吐。
果てには殆どが嘔吐しており、その日は散会となった。
嘔吐の発端が誰かは最早わかりかねるが、その嚆矢は彼女ではないかと言うのが専らの通説だ。
そんなんなので我々は彼女の一挙手一投足に警戒を怠らず、具に監視することを余儀なくされていた。
誰が誰をマネジメントしているのかまるでわからない。
これらも彼女の危うさのひとつだった。
しかしそれがマスコットのようで皆から好かれているのも事実だ。
「先輩、シツレイな事を考えておりますね」
「何を失敬な」
僕は何食わぬ顔で応戦した。
「部長が自主練で足痛めちゃって。それを冷やす水ですよ。あ、捻挫とかじゃないですからそこはダイジョブです」
彼女はそう言って重そうにバケツを持ち上げた。
「僕が持っていくから保健室から氷貰ってきてくれ」
僕はバケツに手を掛けた。彼女はすぐ手を離して僕は少し体勢を崩した。
「当然ですね」
彼女はそう毅然と言ってすぐニッと笑って「冗談です。ありがとうございます」そう言って保健室の方へ駆けていった。
僕はグラウンドのベンチにいた部長のもとへバケツを持っていって程なく氷を持って彼女が戻ってきた。
高いところから氷をバケツに投下するものだから水がバチャバチャ飛び散った。
彼女はそれを嬉々として見て薄ら笑っている。
部長はそれで濡れてしまって彼女を叱った。
○
カツカツカツと何かが僕の部屋の窓に当たっている。
その音で僕は目が醒めた。ベッドの傍らに置かれたデジタル時計を薄めで物憂いに見ると丑三つ時であった。
未だ窓の外で音が鳴っている。何も考えられない起き抜けの頭は無視を決め込むようだ。
そうしているとカツカツカツというのが止まり、止まったかと思うと俄にドンと窓を殴られたような音が鳴って僕は強制的に覚醒状態に導かれた。
覚醒した頭は嫌でも理解をし始め、この状況に恐怖を覚えた。僕はおずおずと起き上がった。窓の外に何があるというのか。窓の外はカーテンのせいで見えない。
僕は腹を決め、窓に近付きカーテンに手を掛ける。
そして思い切り開けきった。窓のすぐ前に腕を組んで脹れ面した、おそらく寝間着であろう彼女がいた。
ぼんやり見える顔が少し不気味だった。
こんな深夜に彼女が何故ここにいる。それにここは二階だ。僕はこれが夢だと推測した。
そう思うと何だか馬鹿らしくなった。
彼女は人差し指をこちらに向け、窓を開けろと催促する。僕は窓をすごすご開けた。
「何で無視するんですか」
「夜中なんだから寝てるに決まってるだろ」
僕は馬鹿らしくも真面目に幻影であろう彼女の応対をした。
少し窓の外を顎を突き出すように覗いてみると彼女はやはり浮いていた。
尚夢の感が強まった。
「まぁ、いいです」
彼女はそう言ってくるりと服を見せびらかすみたいに回って「見てください。私、空飛んでます」とにこやかに言った。
「僕の家を何故知ってる」と言いかけて夢だから当然かと納得して黙った。空を飛んでいるのを受け入れているのだからもう何も疑問に思うまい。
「何しに来た」
僕は夢の住人として役割を全うするため彼女に訊いた。
「夜間飛行のお誘いですよ。ほら、宵闇に繰り出しましょう」
彼女は掌を僕の方に差しだし掴むよう促す。掴むとグイと引っ張られて身体が浮き上がる。僕の身体も浮力を持ったようだった。
そのまま窓の外に連れ去られる際に僕は窓枠に肩を強かに打った。
悶えている間にぐんぐん夜の空に浮きあがっていく。
眼下に夜の住宅街が広がっていく。電柱に取り付けられた電灯が点々と光っている。
空気が日中の晴れやかさの尾を引き、澄んでいる気がする。
「見てください。あの家、まだ起きてるんですかねぇ」
彼女の指差す方を見ると夜中だというのに明かりが煌々と点いた家があった。
「そんなの僕たちが言えた事じゃないだろう」
僕は肩を擦りながら言った。
彼女は「そうですね」とクスッと笑って言った。
視線の奥に燦然と輝やいている一帯があった。あの辺りは繁華街だったはずだ。
その飛び地のように孤立した明るさが逆に夜の雰囲気を濃くしている。
「どこに行くんだ?」
だいぶ高いところまで来て上昇は止まった。縦に関しての感覚に乏しいので正確ではないが多分百メートルくらいは悠々あるだろう。
「眼下に人工の光を望むのも趣深いですが少し別の方面に向かいましょう」
そう彼女が言うとすーっと横軸の移動が始まった。
速度は自転車よりずっと早い。多分、自動車よりも。
彼女は目の前を悠然と飛び、僕は片言に後ろを飛んだ。
引っ張られる手と肩が浮力が足りないのか少し痛い。しかし手を離したら落ちるのではないかと怖いし、手をつなぎ直そうというのも気恥ずかしく言い出せなかった。
「こんなに早く動くと風が吹いて少し肌寒いな」
僕は気を紛らわすように雑談した。
「そうですねぇ。夏とはいえ夜中ですから何か羽織ってくればよかったです。あ、高いところにいるのも関係あるかもですね」
「そうかもな」
思ったより拡張性のない話題をふっかけたのを悔いた。
「何だかとても清々しいです。こーゆー時は歌いたくなります」
突然彼女が言った。
「またあの歌か」
「いえいえ、今は徒然なんてかけらも思ってませんからあの歌ではないですよ。……もしかして徒然の意味をお知りでないとか」
彼女はことさらに僕の方に振り向いて言った。
その顔は無邪気で、本当に楽しそうだった。
「意味くらい知ってる」
僕は吐き捨てるように言った。言い草に機嫌を損ねたわけではない。
その後光が差していてもおかしくない屈託のない笑顔で見つめられて照れて少し狼狽してしまった。
彼女はフフフと淑やかに笑った。そしてその雰囲気を吹き飛ばすように歌い始めた。
歌詞はなく鼻歌のメロディだけだった。ゴキゲンなナンバーといった感じだ。
繁華街も過ぎ、住宅街も流れ見えなくなった。
人工物もなくなり県境にある山脈の方に来ているようで今はよく見えないがきっと青々としているであろう森林が広がるばかりだ。
「ここら辺で丁度いいですかね」
そう言って彼女は不意に立ち止まった、というか飛び止まった。
どうしたと声をかける間もなく翻った。僕も手で繋がっているので同じく翻る。
ロマンチックなことを書くのは少し恥ずかしい。
前口上の恋のようなものというのはどこにいったとも思われるだろう。男女の夜の逢瀬というだけでも相当であるのに。
しかし待たれよ。これは夢だ。ロマンチックなどを嫌悪していてもそれに相対するように腹の奥底ではやはり憧れがあり、その深層心理が夢に働きかけたのだ。
だから僕は悪くない。
翻ってすぐ、眼前いっぱいに広がっていたのは満天の星というやつだった。
「わぁ、すごい……」
隣で彼女は感嘆の声を漏らしていた。彼女が漏らしていなければ僕が漏らしていただろう。
現代人の殆どはこの星空を見たことがないのだろうと思う。
人工的のあらゆるから隔絶された山あいで、雲ひとつない空。そして我々は少しだけ空に近い。
そこで見える星空はいつもより広く、星が多い気がした。
人工灯もなく、新月らしいので乏しい光の星も見えているのだろう。
月並みな表現だが手を伸ばせば届きそうだった。
実際、自然と僕の掌は燦然とした星空に吸い込まれて空を仰いでいた。これなら繁華街の電気の輝きなど足下にも及ばないだろう。
「夏の大三角は二十時頃が一番見えるんですけど、この時間じゃ微妙ですかね」
彼女が星空から半ば引き剥がすように言った。
「どれがどの星とかわかるのか」
僕は全くわからないので感心した。星の名前もアンタレスくらいしか知らないしどれがそれかもわからない。
「いえ、全くわかりません。付け焼きの知識です」
彼女は朗らかに言った。感心を返せと彼女の方を見た。
精一杯光を取り込もうとしている僕の夜目は星空に照らされた彼女のこれ以上ないような笑顔を捉えた。
正直、星空よりそっちの方が目に焼き付いている。
○
日の光が痛々しく瞼を貫通して僕を叩き起こす。目覚めると身体が痛かった。特に肩が。それに寝不足の感が否めなかった。
重々しく身体を起こす。何があったのかと思い返す。
夢のことが鮮明に思い起こされた。あれは夢だ。現実に干渉するはずがない。
これは肩を重点的に全身寝違えただけだと思いつつも僕は窓を確認する。
三日月錠はかかっていなかった。というかそもそもカーテンが開いているのもおかしい。
僕は必死に自分が納得できる説明を思案した。
そして自分は夢遊病でそれが夢に干渉したのだと考えた。
それなら辛うじて筋は通る。しかしながら夢を鮮明に覚えているのは何故か。
そういえば文系の人間は夢をよく覚えているという。僕はあからさまな理系だ。
自分が納得できる説明は思いつかなかった。
頭にあれは夢ではなかった、なんてものが一瞬よぎったがそれには内容があまりにアレだ。現実感がなさすぎる。
かと言って説明ができない。
僕は一縷の望みを以て月齢カレンダーを検索し、昨夜の月の満ち欠けを確認した。
残念ながらと言うべきか、新月であった。
○
憂鬱な月曜日がより憂鬱になりながら僕はのそのそ登校した。
人が元気のないときや不機嫌な時は大体眠い時だ。スピッツも言っていた。
なので今日を乗りこなすため授業中は船を漕いだ。
鬱屈をまわりに振り撒く前に教師の信頼をかなぐり捨て眠気の清算を行うのは英断と言えよう。
これは彼女を反面教師にしての事だった。
そんなふうに過ごしていたらすぐに放課になり部活の時間がやってきた。
僕は脳味噌の膿が全て搾り出たように清涼な気分でいた。
居眠りもとい昼寝というのは何故こんなにも心理的健康にいいのか。
かのクリスティアーノ・ロナウドは分割睡眠というのを実践しているようだし、いつかの幼稚園生の記憶にある“おひるねたいむ”なんてのを高校でも時間割にねじ込めば生徒のパフォーマンスは上がるはずだ。
そんなことをのほほんと考えて部活に向かうとグラウンドの簡易なダッグアウトに薄ら笑いを浮かべる彼女が座っていた。
彼女を見て昨夜の奇妙奇天烈な夢をじわじわ思い出した。昼寝の夢見心地の余韻ですっかり忘れていた。
肩もまた痛みだした。ついさっきまで痛みなど毛ほどもなかったのに。人間案外バグだらけである。
僕はひとつ席を空けて彼女の横に座った。
「何かあったのか」
僕は鋭利な言葉のナイフで切りつけられるとわかっていても訊いてしまった。彼女の薄ら笑いが昨夜の夢で見た、夢だと思いたいもので見た彼女の笑顔とかけ離れていて訊かざるを得なかった。
「先輩には関係、なくはないですけど関係ないです」
身構えたものの何だか煮え切らない返答が返ってきた。
「何だ、面白い夢でも見たか」
よくよく考えてみれば昨夜の出来事が夢であっても夢でなくとも、問題はあまりないことに気づいた。いささか眠気と肩の痛みを翌日に引きずる程度の事だ。
それにあの事象は僕の脳の現実受け入れ体勢のキャパシティを遙かに凌駕していた。だから僕はそもそもあれを夢だと自己処理するつもりだった。
しかし彼女の煮え切らない返答を聞いてまさかと思ってしまうのは人間として、自然の摂理として至極当然のことだ。
だから鎌をかけてみることにした。
まさかと思っても自分の話は決してしない。
もしあれが夢だったとするなら、それは自己完結の話なるので軽々しく一蹴されて終わる。
もし夢じゃないなら好奇心旺盛な彼女ほうからその話題をまずふってくるはずだ。
そして第一に他人の夢の話ほどこの世でくだらない話はない。僕にそれをやってのけるほどの胆力はなかった。
「んー夢といえば夢ですけどねぇ。微妙なんですよねぇ。それより勘が冴えてますね、先輩」
彼女は少し驚いた表情をしたと思ったらすぐいつも通り飄々と話し出した。
「まぁな。今日はよく寝たからな」
「寝て冴えるのは頭です。先輩は鈍いです」
彼女も僕も何か言いかけて押し黙った。
そうして水を打ったような沈黙が辺りに充満した。
僕は内心、心の木々が根っこごと吹き飛びそうなくらいざわざわしていた。
僕に昨夜の説明を求められたならば彼女の二度目の煮え切らない返答とほぼ同じになると思ったからだ。
多分、沈黙も「先輩、まさか覚えてるんですか」と「昨日のこんな夢を見てな」互いにこんな台詞を言おうとして、馬鹿らしくなって押し黙るしかなくなったためのものだろう。
彼女の腹の中は僕の推察だが、少なくとも僕はそうだった。
○
うまく眠れなかった。そしてムリヤリ寝てすぐ目が覚めた。それもこれも昼間の居眠りが原因だった。
天井を意味なく見つめるのをやめ、時計を見ると夜中の二時だった。
不意にカツカツカツと窓をつつく音が鳴る。
僕はベッドから起き上がり、何の疑念もなくカーテンを開いた。そこには案の定彼女が居た。無論、窓の外に浮いていた。
何というか全てがあまりに予想通りで拍子抜けの体だ。
安っぽいメロドラマを見ていると頭の中にこれまた安っぽい先の展開が自然と浮かんでくる。
所謂ベタだ。この頭の中に打ち立てた超えるべき数々のベタの壁をメロドラマはまんま真正面からぶつかって次々薙ぎ倒す。悪い期待そのままを演じて。
そういうときの空しさがここにはあった。
僕はことさら面倒そうに窓を開けた。
「こんばんは。いえ、お早うございますですかね、先輩にしてみては」
クルクル空中で回転しながら彼女は言うので所々声のボリュームが小さく聞こえた。
「何なんだこれは」
「これとは」
「この状況だ」
僕は向き直った彼女にたまらず訊いた。
一度目は夢だと、夢を見ている最中も醒めた後も飲み込めた。
しかしこうもおかしな夢を続けて見て、それも意識のある明晰夢というやつだ。彼女に訊いてわかるとは思わなかったが訊かざるを得なかった。
何も現実で訊いているわけではないから馬鹿らしさもない。僕は開き直っていた。
「さぁ。私飛んでますし夢じゃないんですかね」
彼女は言い捨てるように言ってまた両手を頭の上で合わせてクルクル駒のように回り始めた。
そうしてビタッと格好つけるように止まって「まぁ、わかりませんけど」と彼女は言った。
「そんなんでいいのか」
僕は自分にも言うように言った。
「いいんですよ、夢なんですから。もしかして先輩これが現実だと思ってます? そんなわけないじゃないですか。だって空飛んでるし、第一先輩の家を私知りませんもん」
彼女は矢継ぎ早に話した。僕は図星を突かれたのと、少し彼女のリアリストな部分に驚いた。
いや、リアリストであるから非現実を割り切って適応できるのかもしれない。
彼女は僕の前に手を差し出した。僕はそれに自然と手が伸びていた。
フライトはすぐ近場で終わり、煌々と輝く繁華街の中心、一番高いビルの屋上の縁に並んで座った。コンクリートの冷たさが染みるし、風も吹いていてやはり少し肌寒い。
見えるビルの底にはまだ人がちらほらといる。見ていてもあまり楽しくはない。
「いやはや、星もいいですけどこう下界を見下ろすのも俗っぽくて中々おつですね。あの際どいネオンは如何わしいお店でしょうか」
彼女は嬉々と下を指さして言った。
僕は無視をした。上を見ても星が見えない。
「何物思いに耽ってるんですか」
不機嫌そうに彼女は言う。
「いや、やはりこの状況は何なのかと思ってな」
「夢ですってば、これは」
「それでも覚えているのは不思議だ」
彼女は少し考える素振りして「じゃあ覚えてても忘れたことにしてくださいよ。私も今日やりずらかったです」と足をパタパタさせながら言った。
「やっぱり覚えてたのか」
「何のことやら」
彼女の中では既に忘れたことになっているらしい。
「それに人の夢と書いて儚いと読むわけですから、夢というのは忘れるのが美徳なんですよ。いやぁ詩的な何かが浮かんできそうです」
「何か浮かんだか」
「先輩に言っても良さがわからないだろうからなぁ」
「はいはい」
浮かばなかったようで、それなのに僕は貶された。それだから適当に流した。
「先輩、今日は何だか素っ気ないです」
「そんなことないだろ」
しおらしく言うので何かフォローしなくてはと言葉を探す。
「いいこと思いつきました。先輩、準備はいいですか」
そんな僕を横目に彼女は勝手に元気になり、僕の手を掴んだ。
「レッツ、ゴー」
彼女はひと思いに屋上から落ちた。当然僕も落ちる。
手を繋いだスカイダイビングの感じだ。
「いぇーいぃ」
彼女は絶叫マシンにのっているかのように叫ぶ。
僕はと言えば声など出ない。声帯が尻込みして屋上の縁でブルブルしているに違いない。
頭の中で色々なことが巡る。お父さんお母さん、母方のおじいちゃんおばあちゃん、父方のおじいちゃんおばあちゃん。今までありがとう。妹よ、プリンを食べて申し訳なかった。
ああ何故なんだ。親族にお礼をし終わった途端、くだらない記憶しか巡らない。走馬灯は生き残る術を経験から導き出すものなんじゃないのか。それとも僕の浅い人生では到底生き残る術は見つけられないのか。
どんどん光が強くなる。視界もどんどん狭くなる。アスファルトだって近くなる。
時間が引き延ばされる。そんな時間の中、僕は彼女のほうを見る。
彼女の前髪が霜柱のように風で逆立っている。額が意外と広かった。
彼女は目を閉じて、口を大きく開けて、笑っていた。
○
程なくして夏休みに入った。しかし野球部は大会があるので最終調整に追われ忙しい。
僕は毎日学校に向かい選手らのサポートをしている。
勿論、彼女とも会うがやはりお互い、忘れたふりをしているようだった。と言ってもあからさまにぎこちないなんてことはなく、普通だった。
普通に彼女は薄ら笑いを浮かべ、それに突っ込み、とりとめもないやりとりをする。
大会を目前に中々緊迫した部での憩いになっていた。
そして一週間少し経ち、大会を明日に控えた時分になった。
移動は会場が近いので当日だ。
そんな時、僕がロッカールームで合法のプロテインを調合していたときのことである。背面の扉が突如開いた。振り向くと部長がいた。
「お疲れ様です」
「ん、ああ」
部長は無愛想に、いや実際に疲れているように答えた。
「何かあったんですか」
僕は思わず訊いた。
「いやな、ヤツの来襲にかちあってな」
部長は長椅子に座って言った。
部長の鬱々たる様子を見てヤツというのが誰かは察しがついた。彼女だろう。メランコリーな空気を辺りに芬々とさせた彼女だ。部長は彼女にあてられたのだろう。
「それは災難、というか他の皆は大丈夫でしたか。大会前日に」
僕は隣に余裕を持って座り少し狼狽えて訊いた。彼女にあてられ、気分の落ちたまま明日を迎える選手がいるとなれば、何か策を講じる必要がある。
「ああ、問題ない。あいつと同じクラスの一年から報告を受けてな。グラウンドに来る前に俺から出向いて家に帰るよう言った。申し訳ないがな」
「でもかちあったって」
「向かおうとしてグラウンドの前で会ったんだよ。気構えてはいたが、ああも不意に来られるとな。うん、少し気が滅入る」
部長は少しはにかみながら言った。
そして僕はプロテインを手渡して雑談を始めた。雑談とはいえ明日はどうとか割と真面目な話だ。
部長とは言い方に棘があるがビジネスパートナーみたいな関係で、したくても互いに身の上話みたいな胸を張って雑談と言える話ができないような関係だった。仲が悪いわけではないのに不思議だ。
僕は沈んだ部長をしっとりと鼓舞するように雑談していた。その様子を鑑みるにやはり雑談という言葉は相応しくない。
「なぁ、ヤツと何かあったのか」
「ヤツって彼女ですか」
「ん、ああ」
そんなことを思っていると突然、雑談らしい様相を部長は見せた。いや、いつもと違う部長を見せた。
「何も、ないですけど」
あれから夢の中で毎日ではないがいくらか会ったので嘘になる。しかし忘れたことになっているのでその点では僕は誠実で律儀である。僕は少し迷いながら返答した。
「なんでですか」
「いや、お前はあいつと仲がいいからな。ひょっとしたらってな」
「まさか」
僕は少し驚いた。部長からそんなに仲がよく見られていたとは。
僕の返答を訊いて少し安心したような、少し困ったような顔をした。
「……明日から、精一杯頑張ろう」
自分に言い聞かせているように部長の呟きは聞こえた。
○
バタバタと揺れるカーテンの音で目が醒めた。窓は閉まっていたはずなのだが。渋々目を開く。
やはり靡くカーテンが見える。
立ち上がろうかとして枕元の人影に気づいた。吃驚して意識がはっきりした。
「だ、誰だ」
僕は身体を跳ね起こし、寝起きの渇いた喉でムリヤリ声を出す。
「先輩、お早うございます」
陰々滅々たるその声には聞き覚えがあった。気分が沈みきっているときの彼女だ。
「ダメじゃないですか。窓の鍵はきちんと閉めなきゃ」
顔はよく見えないがそのぽつぽつという語り口調からどんな暗い顔をしているか容易に想像がついた。
以前話したように彼女は時折このように酷く落ち込む。原因不明だ。
そして不思議なことに表情、話し方、雰囲気などは暗黒そのものであるのに、その他の言動は至って平生通りでそれが不気味だ。
「そ、そうだな」
僕は目の前の暗黒物質に狼狽しながら辛うじて答えた。
「散歩をしましょう。先輩」
その他は至って平生ではあるので彼女はいつも通り手を差し出してきた。
何となくその様相から僕は悪魔の誘いを受けたように感じられた。
○
僕らは近くの河川敷に向かった。途中まで飛んでいたが歩こうと言うので地面を歩いた。その間に会話はなかった。
電柱の街灯に照らされ見えた彼女の顔は暗かった。
街灯が前髪の影を落とし、髪がそのまま伸びて目を隠しているように見えた。彼女の辺りに暗黒の帳が降りている。そんなことが連想された。
川は幅の広い下流で河川敷も広かった。草が生い茂ることもなく、かと言ってコンクリートでというわけでもなく、人の手で自然が管理された過ごしやすい河川敷だ。
僕達は短い草の生えた堤防に腰掛けた。半月なのだが雲がないので辺りは中々明るい。目の前の川面では銀紙を流したかのように瀬がチラチラ光っている。対岸側の奥の方の空はぼんやり明るく、フライトの記憶を辿るとその方向に繁華街があるのが思い出された。
無言でいるのも限界がきて僕は何か話そうとしたら「私、夢を見たんです」と脈絡なく彼女が呟いた。
「夢で夢の話をするのか」
何か話そうとした勢いそのままに思ったことが僕の口から飛びでた。
「そうですね、少し馬鹿らしいですね」
彼女は手元の草を毟りながら言った。
毟った草は放擲されたものの如何せん飛ばず、座る彼女の足下にひらひら舞い落ちた。草がサンダルに入ったようで、こしょばゆそうにそれを取り除いていた。
「どんな夢を見たんだ?」
僕はタイミングを見計らって訊いた。彼女は少し僕の顔を見て、対岸の向こう側を見るようにぼんやりし始めた。そして独りごちるように「私のせいで試合に負ける夢です」そう言った。
「それで、落ち込んでいるのか」
僕はまさかとは思ったが訊く他なかった。
「……わかりますか。私が落ち込んでるの」
彼女は少し驚いた顔をして言った。僕も負けじと驚いた顔をした。彼女の言動から察するに何で落ち込んでいるのか、それ以前に落ち込んでいるのがバレていないつもりだった感じだ。
「お見通しだ」
僕は魔が差して少し脅かすような言い方をした。
「それにしても拍子抜けな理由だった。悪いけどそう思ったよ」
そして僕は続けた。彼女は妙な顔を少しして話し始めた。
「他人が絡んで私の責任があるのは中学ではなかったんです。私のせいで部の皆がってびびっちゃったんですよ。先輩と違って私は感受性豊かなんです」
割と淑やかにやり返されて妙な顔の本意が知れた。落ち込んでいようが反骨精神満ち満ちているみたいだ。
「今日、昨日以外にも偶に落ち込んでいるけどそれも夢なのか」
僕は半ば無視して訊いた。「先輩、ずっと私のこと見てるんですか」と言ったのは適当に相槌して流した。
「あれは大体映画の余韻です。いい映画を見ると悲しんです」
「わざわざ悲しい映画を見て落ち込むのか」
「無粋極まりないですねぇ先輩は。確かに端から見れば只々落ち込んでるように見えます。しかしその内では純情や不純、友情やもはや形容しがたい感情の余韻が渦巻いていて、それを解釈して少しずつ飲み下しているのです」
饒舌に語り出したと思うと彼女は舌のエンストを起こした。急にギアを上げて話すからだ。「それで」と先を急がせぬ程度に促す。彼女は咳払いをした。
「それには多大な労力を割くのです。そしてそれが物凄く楽しいんです。……そういうのバレないように気を張っていたんですけど先輩にはバレちゃいました」
彼女は尻窄みで話した。僕は皆にもバレていると話すべきだったと後悔したが脅かした手前言えなかった。
「まあ今日のはそういうのとはちょっと違いましたけど」
彼女は呟いた。僕は当たり障りのない励ましをした。
「いつもみたいに、一日経ったら良くなりそうか」
「はい、一日経てばいい感じに消化できます。多分ですけど」
彼女は自信なさげに言った。
「大丈夫です。先輩と話して根拠のない元気が出ました。大会頑張りましょう」
彼女は力強く言った。笑顔は弱々しかった。
○
端的に言うと僕らは負けた。二回戦敗退だった。
これで受けた悔しさやこの後巻き起こる青春ドラマに関しては書かない。
本筋がぶれるのもあるし時間が足りない。
各々我々の快進撃を妄想してくれて構わない。
○
彼女といえば大会初日から元通りの通常運行で可もなく不可もなく元気だった。
彼女と話す暇はなかった、というより気力がなかった。事務的な話は勿論あるがおどけた雑談ができる雰囲気ではなかったし、僕のしたい話といえば忘れた夢の話だ。要するに別段話せることはなかった。
そう忙しさの中で気づくと少し寂しい気がした。
大会中、彼女の底なしに見える元気が好い加減に張り詰めた重々しい空気を解して皆を和ませた。
流石にここまできて彼女の危うさは炸裂しなかった。
何故か試合のスコアボードより彼女のことのほうが記憶に残っている。弱々しい笑顔が脳裏にこべりついていたからかもしれない。
試合に勝った時のあの笑顔。試合に負けた時のあの暗い顔。
僕はベッドの上に寝転がりそんなことを思い、思い返しながらごろごろしていた。やはり疲れていて帰ってきた日はすぐにベッドに滑り込み泥のように眠った。帰ってきてからの記憶は曖昧で眠っていたことだけに確証があり目覚めるともう昼頃だった。
ごろごろ思案に耽っていると十三時を回りそうだった。
僕は起き上がり遅めの昼食を食べた。
部活は一時休みになり、当然僕も休みだ。そうするとやることがないのに気づいた。僕は手持ち無沙汰で何かないかと学校に向かうことにした。
日が高く暑い。溶けながら、そして後悔しながら焼けるアスファルトを進んでいった。
グラウンドに着くと部長がいた。ダッグアウトに神妙な面持ちで座っている。
「こんにちは」
「ん、おお。どうした休みだろ」
「部長こそ」
部長は驚いて神妙な面持ちを崩した。それも束の間表情はこわばった。
「僕は暇で。部長は?」
僕は席をひとつ空けて隣に座った。
「ん、まあな」
遠くを見て上の空な部長は生返事をした。
どこかでその顔を見たことがあるような気がした。そうだ。二回戦の勝敗が決まったときだ。
ベンチでは応援の言葉を投げる者、物々しい顔付きで祈っている者、ただ勝利を願う思いが折り重なって熱気が立ち籠めていた。
そして九回裏。その熱気は雲散霧消した。
相手の逆転ホームラン。沸き立つ歓声。マウンドで崩れるピッチャー。あくまで紳士的にホームに帰るバッター。僕は簡単に現実から引き離されてしまった。茫然とする中、僕は現実の外からドラマチックだなぁと他人事のように思った。
遠くを見ていた。汗が伝って顎から雫が落ちた。ふと現実に戻った。部長を見るとこの場にはそぐわないような、だけれども真剣な顔付きをしていた。僕の隣の彼女のほうを見ると静かに悔しいような顔をしていた。そのほかの人はピッチャーを慰めていたり、思い思いに叫び身を寄せ合ったり、その場に見合った反応だった。
だから対比みたいになって部長と彼女の顔が印象に残っていたのか。僕は合点がいった。
「部長、悔しくありませんでしたか」
僕は訊いてはいけない質問をした。悔しいに決まっているのに。僕は謝ろうとした。
「悔しいけどやりきった感って言うのかな。お前も言うほど悔しくないだろ」
そんな間もなく部長は返答した。
「そう、ですね。去年は明らかな実力差でしたから悔しかったですけど、ああやられると悔しがる暇もなかった感じです」
僕は謝るのをやめて言った。
実際、あまり悔しさは感じていなかった。それよりも次に生かしたいと思っていた。というか一旦燃え尽きていた。
「……部長。やっぱり何かやり残したことがありましたか?」
僕は間抜けだ。部長はもう三年なのだから部活は取り敢えず引退だ。普通に進学すると聞いているし僕とはこの負けの意味が本質的に違うはずだ。
「ん、まぁそうだな。あると言えばある。それを今からやり終えようとしてた」
部長は立ち上がって言った。部長が見据える先を見てみるとさっきまでいなかった人が立っていた。
「まぁ、ちょっと待っててくれ」
そう言って駆けていった。待ち合わせだろうか。
相手のほうをまじまじ見て誰なのか窺った。多分あれは吹奏楽部の部長だ。
彼らは向かい合った。何か話している。そしてそれが何なのかすぐにわかった。
儀式だ。淡い、甘酸っぱい。
そして強ばりが消え、スッキリした顔になった部長が帰ってきた。
「俺はやりきったよ。恋を」
部長は苦笑いしながら、多分格好つけて言った。
○
ベッドに転がって天井を眺めていた。輾転反側して寝付けないでいた。頭が何かに覆われているようにぼんやりしている。
途切れ途切れ寝て醒めてを繰り返して真夜中二時になった。暑いからだろうか。そう思ってエアコンの温度を一度だけ下げて、またタイマーを遅らせた。
ぼんやり目を閉じてまた眠りの浅瀬でちゃぷちゃぷしようかと思ったその時、窓がカツカツ音を立てた。
僕は起き上がってカーテンを開いた。
「お早うございます」
ニカッと笑って彼女はそう言った。窓が閉まっていて聞こえなかったが多分そう言った。
○
僕らはいつかの河川敷に並んで座り込んでいた。
二人で対岸の先を見ていた。日中の熱気がまだ少し留まっているような気がする。
「一週間振りくらいか」
「そうですね」
彼女はじとーっとこちらを覚えていないはずでは、と見ていた。
「先輩は大会どうでしたか」
彼女が唐突に言った。
「そりゃあ悔しいは悔しいはけど正直、今は燃え尽きた感じでよくわからない。婆ちゃんが死んだときに似てる」
「それじゃ後から物凄く悔しくなりますね」
彼女は淡々と言った。何かを考えているようだった。
そうして僕が同じ質問をする前に彼女は話し出した。
「私、悔しかったです。マネージャーがつまんないとか言いましたけど負けるのはもっとつまんなかったです」
一見、悔しいと微塵も思わせない爽快な口振りで言った。
「私、頑張りたいと思ってます」
そう言って彼女は笑った。
「僕は少し心配してた。けど大丈夫そうだな」
「何の心配ですか」
「あんなに落ち込んでいたのに翌日から元気でいたら逆に心配になるだろ。空元気じゃなくてよかったよ」
僕は何気なく言った。そして何故かとても恥ずかしくなって外方を向いた。
やはり僕はおかしくなっている。部長に感化されてしまったのだ。
そうだ、だから女子と話すのに無闇にドギマギしているだけに決まっている。僕が悶々として寝付けなかったのも部長の勇姿の興奮冷めやらなかったからだ。それか日中の暑さに頭がやられてしまっただけだ。
「そんなんでへこたれませんよ。私」
僕はそう言う彼女の方を見た。
そうか、僕はこの笑顔に。
○
かくして僕は自分が恋のようなものをしているのに気づいた。
僕は夢の彼女に恋をした。だからといって現実の彼女にまでそれが適応されるのかは疑問だし夢の話だ。忘れている、ことになっている。
だから恋のようなものなのだ。
それに僕は部長のように正しく紳士的に恋をできていなかった。そう思い、部長に敬意を込めて恋のようなものと、そう解釈せざるを得ない。
○
いつかの夢の中。
しんしんと降る雪が先を行く彼女の頭にうっすら積もる。彼女は犬みたいにしてそれを振り払った。
彼女は振り返って急かす。ゆったりと近付いていく。
僕は改まって彼女を見つめた。不思議な顔をしている。
要するに僕はずるいことをしたのだ。
端から見れば純情の果ての言葉なんかに聞こえるかもしれない。けれどもこれは多分、独りよがりな邪道なのだ。
僕も彼女も何があったのか忘れているのだから。
勿忘草 鯖缶/東雲ひかさ @sabacann
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