灼け落ちるそのときに
そうして息を吐いたときには別人の顔つきで、声を潜めてレアスの耳元に尋ねた。
「ロジエやエビヌはどうなった? 被害は?」
「どちらも無事です。怪我人はいますが、王太子たちが引き上げたので破壊された建物などの再建が始まっています。しかし人々の暮らしは厳しくなりそうです。やつらは街の備蓄食料を強奪していったらしく、今年の豊作を願うばかりだと話しているのを聞きました」
実はその被害はロジエ周辺に限らない、とレアスは苦々しい口ぶりで教えてくれた。どうやらマリスたちは王都への帰還の道中、立ち寄った街や村から奪うように物資の放出を要求したことがわかったのだという。ただでさえ不作なのだ。ひどくなればただ季節が変わるだけで大都市でも餓死者が出てしまう。
「ロジエは翼公のお膝元。例年より不作でも王都周辺よりはましなのだとしたら、王侯貴族からだけでなく周辺の住民とも食料を巡った諍いが起きるんじゃないかしら」
「それはご安心ください。正当な権利者から要請があってロジエもエビヌもあるじ様の庇護下に入りましたので、非常事態時には限りますが介入することが可能です」
「要請? 誰から?」
「『正当な権利者』です。これ以上はお許しください。内密にとのご命令ですから」
街の長か、ロジエの管理者である神殿島辺りだろうか。それなら秘密する意味がないが、伏せなければならない理由はその『権利者』の安全確保が大きいといったところかもしれないと深く考えなかった。
「一族の皆様、特に翼公の行動には常に制約が付きまといます。翼公の力は基本的に自己防衛と己の身内に対してのみ発揮されますが、その力を圏域内の調停で利用するには条件があります。正当な権利者からの魔力の均衡維持の要請、希少な魔力を保持する者の保護などがそれに当たります」
均衡維持と小難しい言い回しをしているが、つまり無為に魔力を消費し、力の流れを滞らせる状況を正すという意味だ。現実に当てはめるとそんな状況に最も陥りやすいのは国の乱れや流血を伴う争いと言える。
「けれどそれこそ、誰が正当な権利者か判断する必要があると思うのだけれど?」
「その通りです。要請を受けるとただちに調査を行い、翼公の介入が妥当か判断します。調査員についてはこちらもいまは伏せさせてください。けれどご心配なく、少なくない者が調査を行っております」
つまりこういうことだ。
ロジエならびにエビヌの『正当な権利者』から要請があった。理由は魔力の均衡保持、すなわち魔力の流れの停滞を生む国の乱れを正すため。
これを受けて大勢の配下が調査を行い、妥当性が認められたため、ロジエとエビヌは翼公の庇護下に入った。期間に限りはあるが庇護に入った地域一帯での略奪や暴力は認められない。たとえ国内の出来事であろうと国主である王も王太子も手を出せないのだ。
「ではロジエはもう大丈夫なのね」
「はい。それからコーディリア様の知人のヨハン少年は現在治療中で、順調に回復しているのでご安心ください。いつの間にかお名前や素性が知られていて、ロジエやエビヌの人々は青姫を恩人だと言っていました」
ヨハン、と傷だらけだった少年の無事に、張り詰めていた糸が一本、安堵に緩む。
間違いなく勢力図の盤面が塗り変わりつつあった。例えるなら赤から青へ、静かに推し進められる進撃ではあるが、もう一方が黙っているとは思えない。
「王宮側の動きはわかる?」
するとレアスの太い尾が含みを持たせるようにふうっと左右に揺れた。
「そのことなのですが。――現在、国王と王太子は密かに反目状態にあります」
え、と思わず声が出た。
コーディリアの記憶ではマリスと国王は親子らしい関係性であったように思う。親密すぎず、しかし権力を有する立場上少なくともマリスは父王を都合よく利用していたし、国王はマリスを贔屓して甘やかしていた、血の繋がりに由来する身贔屓だ。マリスは父王には逆らわなかったし自由にさせられていて、息子の非道な行いを知りながら国王は長くそれを黙認し、ときには問題が燃え広がる前に揉み消していた。
だというのにいま対立関係にあるとは、もしかしなくてもしばらくマリスの顔を見ていないのはそれ絡みか。
「原因は翼公です。国王と王太子はそれぞれ翼公に対して異なる考えを持っていたのですが、ここにきてその隔たりが問題として浮上したようです。政権交代も間近かと言われています」
「弑逆か。マリスなら企んでも不思議ではないわね。成功する確率が高いとは言えないけれど」
「失敗する確率が高いわけでもないというのが国内の有力者の見立てのようです。どちらにつくべきかと派閥が割れています」
コーディリアは込み上げた嘲笑でくっと喉を鳴らした。ついに宮廷内にも穏やかならざる騒動の足音が聞こえてきたのだ。それはやがて押し寄せる軍靴のようにこの国の滅亡を知らせるに違いない。
「だとしたら第三勢力として翼公を擁立する、絶好の機会ね」
宮廷内の勢力ははっきり二分されてはいないだろう。国王派、王太子派、優勢な方につきたい日和見派に、巻き込まれたくない中庸派。他国に通じて国を乗っ取ろうとするなど先鋭派もいるはずだ。
そこに翼公が現れたなら、恐らく様々な少数派が支持に回る。魔力を持つ王侯貴族の圧倒的権威に見え辛くなっているが、黙って従うしかない声なき少数派は魔力持ちの者の総数を圧倒的に上回るのだ。
(国が終わる。きっともうすぐ、そう遠くないうちに)
コーディリアが生まれたとき、父母は泣いたという。青い瞳を持つ魔力持ちの娘は王族との婚姻を強制され、国に未来を奪われる運命だった。
その国がじきになくなるのだとすればコーディリアは本当にすべてから解き放たれるのだ。徒労で無駄にした日々、婚約しながら見向きされず虐げられた時間も、逃亡し潜伏しながら必ず邪魔をすると決めて朝と夜を数え、力を持つ者の義務として人々を助けることも、何もかも手放していい。
でもまだ、そのときではない。
コーディリアはレアスを見た。翼公の羽子を通じて、彼に託すために。
「もし王宮側を相手取るならいまから言う人物に接触してみてちょうだい。以前は父の味方をしてくれていた貴族や商人たちよ。この一年で考えが変わっていなければ義がある側に味方してくれるはずだから」
エルジュヴィタ伯爵家や伯爵領が危うくも平穏な状況で居続けられたのはそうした密かな味方の援助があったからだ。ただ伯爵家の面々が消息不明となった現在、同じように力を貸してくれるとは限らない。それでも頼りになる人々の名を挙げていくと、レアスはしっかりと記憶して頷いた。
「貴重な情報、ありがとうございます。役立たせていただきます」
「何か知っておきたいことがあるなら言って。古い情報ではあると思うけれどわかる範囲で答えるから」
するとレアスは少し考え、王宮内部の造りやおおよその警備配置、王都の兵力について質問してきた。かつて自分がいた頃は、と前置きして説明する。
「もしかして、戦闘を想定している?」
「ご心配なく、戦力差がありすぎて始まりすらしません」
失笑するのも無理はなかった。たとえ兵士や魔法を使う者たちが配備されていたとしても、従者を連れた青い髪と瞳の人物に手出しなんてできないだろう。そのくらいアルグフェオスには高貴さに伴う圧倒的な存在感がある。
ただ攻撃手段を持つ人員の把握はしたいということだったので知っている限りの情報を開示する。無用な争いも負傷者も、少ない方がずっといい。
「他に何かできることはある?」
「いまのところは」と言ったレアスは言葉を切り、少し笑った。
「何かできることと仰いましたね。ではコーディリア様。あるじ様に、助けを求めてくださいませんか?」
名と素性を明かし、「助けてほしい」と言ったなら。
――いつかと同じ。本来の身分を明かしたいまでも、想像の彼は変わらない。きっと手を差し伸べてくれるだろう。わかったと微笑んで、大丈夫だと手を取って安全な場所に連れて行ってくれる。神鳥のごとき大きな青い翼でコーディリアを包み込んでくれる。
だからこそ首を振った。
「それはできない。これは私が始めたことで、私が終わらせなくてはならないことだから」
「その『終わり』とは何ですか? 王太子の殺害、それともご自身の処刑でしょうか」
純粋な疑問。だからこそ安易な答えは許されない。
マリスを殺すこと。その成功や失敗に関わらず己の責任を取って死ぬこと。どちらも『終わり』に当てはまる。けれどそれだけではないと翼の欠片を与えられた羽子に、その向こうにいる人のために言葉を探した。
「……ここから逃げたとき、私の時間や思いを踏みつけたマリスに報いを受けさせようと思っていた。何かを為そうとするとき必ず邪魔をする。愚かな振る舞いで大勢を傷付けるなら必ず止める。いまロジエとエビヌを蹂躙し、弑逆を企てて国を乱そうとしているのなら、私は自らに誓ったようにあの男を止める。それができて初めて、私はやっと一度『終わ』れるんだと思う」
まずマリスの身勝手な行動を阻み、邪魔を成し遂げる。復讐を果たす。
それがコーディリアが『始めたこと』の『終わり』だ。
「マリスの命を奪うことも自分の処刑も、その後の話。けれど自分のしたことの報いは受けるつもりよ」
「ではあるじ様の手助けがあれば目的の達成が速やかに可能になると申し上げれば、どうです?」
コーディリアは苦笑した。
「『じゃあお願い』なんて言うと思う?」
レアスは耳を倒して項垂れた。
「失礼いたしました。愚問でした」
「いいのよ。そう言いたくなる気持ちはわかるわ。……彼が歯痒い思いをしているのも、わかっているつもり」
何度も手を差し伸べ、その度に必要ないと跳ね除けられる。けれど決定的に別れを告げることはしない。本当のことを明かすつもりはないくせに本心は感じ取れてしまう。もし逆の立場ならコーディリアはひどく苛立つし、相手を怒らせるのを承知で強硬手段に出てしまいそうだ。彼が行動を制限される翼公でなければとっくにそうしていただろう。
最後に零した余計な呟きをしっかり聞き取ったレアスが期待に顔を輝かせたが「忘れて」と手を振った。
「あなたはこれからどうするの?」
「先ほどいただいた情報の裏取りも含め、あるじ様のご命令を果たしに行きます。ですのでコーディリア様、大変申し訳ないのですが、一晩部屋の隅をお借りできませんか?」
「突然いなくなっていると侍女やここにいる者たちが不審がるものね。構わないわ。隅とは言わず寝台を使ってちょうだい」
「恐縮です。ですがご配慮は無用です。長椅子に寝かせたとなるとあるじ様だけでなくアエルにも泣かれてしまいます」
レアスの馬鹿ぁあ! と涙を浮かべてながら片割れに掴みかかる少女を思い浮かべ、コーディリアは噴き出した。
早々に明かりを消し、寝支度をして寝台に横になる。この間レアスは慎ましく壁の方を向いてコーディリアの私様を視界に入れないようにしていた。
就寝するとき、コーディリアが最も気を付けているのは無意識下で魔法を使わないようにすることだ。廃城での訓練のせいか周囲の魔力の流れに接続しやすくなったらしく、気になることがあるとそれを確かめようと魔力を伝って遠くの出来事を知ろうとしてしまう。あまり遠方は不可能だが、旧伯爵家の建物がどうなっているかくらいは見に行けてしまうだろう。
これが青い瞳を持つ者の本来の才能なのだと思う。制御できないくらいに万能に近い力だ。早々に専門家に見出されて制御できるようにならなければ危険なものでしかない。
(それを最期にどう使うか)
そのときこそがコーディリアの『終わり』の合図なのだと、胸に秘めて、目を閉じた。
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