籠鳥

 それからどのくらい経ったのか、顔を上げると部屋は夕日で赤く染まっていた。

 しばらくぼうっとしていると、遠くで獣が吠える声がした。わん、わん、がう、と人馴れした甘えるような声色が珍しい。王侯貴族が狩猟の供をさせる犬は躾けられているとはいえ気位が高くて凶暴だ。伯爵家の屋敷にはそういう狩猟犬もいたけれど、幼い頃の遊び相手は厩番が飼っている老犬だった。いつの間にか厩舎に住み着いて、何度か追い払ったものの、馬と仲良くなってしまったから根負けして家族にしたのだと苦笑していたのを思い出す。

(ここまで戻ってきたせいね。昔のことが色々思い浮かぶ……屋敷はいまどうなっているんだろう?)

 追想に耽る間に日が沈む。薄暗がりの窓辺から消えゆく空の青をしばらく見送っていると、扉が叩かれる音がした。「失礼いたします」の声とともに先ほどの侍女が燭台を手に現れる。

「明かりをお持ちしま、っあぁ!?」

 ぎょっとするような大声を出した彼女の足元を黒い影がすり抜けてきた。コーディリアも思わず腰を浮かしたが、影は襲い掛かるどころか距離を取って行儀よく腰を落とす。小首を傾げる影の仕草がついコーディリアにも移った。

「……犬?」

 黒い体毛と淡い金色の瞳をした大きな犬だった。正三角形の耳に太く短い尾。賢そうな顔つきで、自分とそっくりに首を傾けているコーディリアを慕わしげに見上げてくる。もしかしなくてもさっきの鳴き声の主だろう。

「ああぁ! す、すみません! 申し訳ありません、いますぐ外に連れて行きますから!」

「そんなに慌てなくても大丈夫よ。不用意に手は出さないわ」

 慣れていそうでも、突然手を出せば吠えられて当然だし噛みつかれても文句は言えない。だからそっと腰を落として様子を窺う。

「どこから来たのかしら。誰かの飼い犬なの?」

「いえ、さっき迷い込んできたんです。妙に人懐っこいのでしばらく相手をしていたんですが、まさか付いてきているとは思わなくて……」

「そうだったの。毛並みもいいし飢えた様子もないから、野生ということはなさそうね」

 短い尾がぽてぽてと床を叩いていたが、燭台を置いた侍女が連れ出そうとした途端、すっくと立ち上がったかと思うと寝台の下に潜ってしまった。絶対に言うことを聞くつもりがない姿勢に、コーディリアは笑みを零し、青い顔の侍女に言う。

「仕方がないから今夜はここで預かるわ。出たくなったら吠えるでしょうから様子を見に来てちょうだい」

「かしこまりました。申し訳ありません……その、このことは……」

「迷い犬が勝手に入り込んで居座った。私が返そうとしなかった。そういうことにしましょう」

 大丈夫と引き受けると、侍女はほっとした顔で去っていく。だが直前、あっと何かを思い出して振り返った。

「お嬢様、庭師が感謝を申しておりました。あの薬草で作った湿布を早速使ってみたら、ずいぶん痛みが和らいだそうです。街の薬屋の高価なものなどより上等だと驚いておりました」

「そう、よかったわ。どうしようもなくなったら声をかけて。助けられることがあるかもしれないから」

 深々と頭を下げて退出する侍女に軽く手を振った。

 そうして一人になると、長いため息が漏れた。魔法を使ったとはいえただの薬草だ。なのにそれがよく効いただなんて、王都で出回っている薬が高額になっていることからも量や質が下がっていることが伺える。

 それだけではない。マリスが命じているであろう粗末な食事は食材そのものの味の劣化が著しいのだ。野菜の味気なさやぱさつき、苦味ともえぐみともつかない不味さに、コーディリアは思わず呻いてしまった。腕利きの料理人が饗宴料理を作ったして、それらを実食して賞賛した者の感性を疑ってしまうくらいだ。

 作物の不作、品質の低下となれば流通に大きな影響が出る。国内の人間が不味いと感じるものを国外でさばけるわけがない。王国も民もますます貧しく飢えていくだろう。

 薬の質が落ちれば治るものも治らない。そこにもし病が流行するようなこともあれば助かるはずの命は呆気なくこぼれ落ちていく。魔力の流れが滞るとこういう状況になるのだ。

「やっぱりさっさと殺しておくんだった……」

「穏当ではありませんね」

 ぎょっとして唯一の脱出経路足りえる窓に張り付く。

 燭台の火だけのささやかな灯りのほかは暗く沈んだ室内で、目だけを動かして侵入者を探る。

「……誰?」

 小さく尋ねると、闇の中から影が起き上がった、と思えば寝台の下に潜んでいた黒犬だ。三角の耳をぴくぴくと動かし、笑うように目を細めている。

「相手は、やはりあの王子ですか? あるじ様への対抗心といい、わずらわしいのは同意するところですが」

 今度こそコーディリアは愕然として喋り始めた犬を凝視した。その、低すぎない中性的な声には聞き覚えがある。

「……レアス、なの?」

「ご明察です。さすがコーディリア様、あまり驚いていらっしゃいませんね。しかし用心することに越したことはありません。声を落としてお話し致しましょう」

 いや十分驚いた。声もなく首を振るコーディリアの足元にやってきたレアスは、へっへと舌を出した愛らしい犬の顔でこちらを見上げる。コーディリアは深く息をしてひとまず腰を落ち着けたが、近くで見るレアスは若犬らしく溌剌とした愛くるしさがあり、両手で挟んで撫で回したい衝動が湧き起こる。

「ずいぶん可愛い変身ね。撫でたくなってしまうわ」

「ご勘弁ください。アエルにずるいと言われてしまいますし、あるじ様もいい気はしないでしょう」

 そう、と応じた声に落胆が混ざっているのが聞こえてしまったらしく、レアスはかすかに苦笑いしたようだ。

「この姿は先祖返りに由来するのです。以前カリトーが話していたことを覚えていらっしゃいますか? 神鳥の一族と番ったのは人間に限らなかったという」

「覚えているわ。あのときアエルは狼の血を引いていると言っていたわね」

 深く頷いて答えるとレアスは目を細めた。

「私たちは強い魔力のほかに遡った祖先と同じ狼に変身する能力を持っています。幼い頃は制御できず、化物として扱われたり暮らしていた場所から追い出されたりしましたが、運良くアレクオルニスにたどり着きいまに至ります。その節はご説明できず申し訳ありませんでした」

「いいえ。大変な秘密を明かしてくれてありがとう。このことは私の胸に秘めておくわね」

 助かります、と笑う大人びたレアスの顔が見えるようだった。アエルに比べて落ち着いた印象だったのは、幼少期からそうやって片割れを守ろうとしてきたからなのかもしれない。だから彼はコーディリアを冷静に観察していてこう言うのだった。

「本当に、落ち着いていらっしゃる。恨み言をぶつけられて然るべきだと思って来たのですが、こうなることを予期しておられたのですか?」

 コーディリアは薄い笑みを浮かべた。

「まさか。囚われの身になるのなら王族殺しの罪で牢獄にいる方がずっとましだったわ。あなたこそ、彼が私の邪魔をしたのを承知でここに来たんでしょう?」

「あるじ様が邪魔を? どういうことでしょう」

 こてりと愛らしく首を傾ける犬のレアスに、コーディリアはアルグフェオスからもらった指輪にマリスへの攻撃を妨げられたことを説明した。殺意を持って放つはずの魔法が途中で解かれてしまったこと、一方で今日までマリスの悪意からコーディリアを守ってきたことも。

 だがレアスは困惑したように反対側に首を倒して唸っている。

「確かにその指輪はあるじ様の持ち物ですがそんな力があるとは知りませんでした。コーディリア様の行動を予測しておられたのでしょう、恐らく御身をお守りする他に、別の力を込めてお渡ししたのだと思います。魔法を阻害されたのはマリス王太子への攻撃のときだけですか?」

「そのようよ。今日そこの庭の薬草に魔力を注いだけれど何も起こらなかったわ」

「ああ、なるほど……そういうことですか……」

 しばらく鼻先を床に向けていたレアスはそう呟き、しばらく何か考えている。

 コーディリアは窓の外の夜空を見上げ、自分なりにアルグフェオスの意図を想像してみたが、憎らしさが募るような理由しか思いつかない。胸の痛みは強く、なのに締め付ける甘さが悲しいくらいに切ない。

「ひどい人」

 低い物言いにレアスは大きく耳を動かして顔を上げた。

「恨み言ならあなたじゃなくて彼にぶつけたい。誰かを傷付けさせないようにするなんて、私が欲しいのはそんな優しさじゃなかった。私のしようとしていることに気付いていたなら力を貸してほしかった。それができないのなら黙って見ていてくれればよかったのよ」

 この言葉を聞く者がいる、そう思うと吐き出し始めた思いは止まらなくなった。

 形作っていた微笑みは震えて崩れ、いまにも泣きそうに歪む。

「なのにこの指輪は! 私の邪魔をするのに私を守ってくれるのよ。投げ捨てようと思って、何度もそうしようと窓を開けたけれど、できなかった。こんなどうしようもない話をあなたにしていることもそう。誰よりも私が、救い難くて愚かだわ」

「コーディリア様……」

 レアスは俯いて、ふうっと息を吐いた。

「あるじ様の真のお考えは、私にはわかりません。けれどそれはいつか必ず御身の助けとなるものだと断言できます。ですからどうか手放されませんよう」

「返却を請け負うつもりはあなたにはないのね」

 唇の端に笑みを浮かべて言うと、三角の耳がくしゃりと倒れた。「コーディリア様……」と途方に暮れた声が彼の片割れを想像させて、コーディリアは久しぶりに心から笑った。

「自分の手で返すわ。返せるときが来たなら、だけれど」

「来ます。必ず。あるじ様が風を吹かせます」

 期待は、しない。胸の内で呟いてコーディリアは微笑んだ。期待しないことに慣れていた、そんな自分に希望を抱ける穏やかな日々を教えてくれたのが彼だったけれど、この国で生まれたからにはそれを知れたこと自体が幸福だったのだから、もうこれ以上何も、望むまい。

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