夢はいつか終わるもの

 魔力に包み込まれたコーディリアは風に巻き込まれ、瞬きもしないうちに聞き覚えのある鳥たちの声がする緑深い谷の城に戻ってきていた。

「おかえりなさいませ、あるじ様。コーディリア様」

「ただいま、アエル。留守中、何か変わったことはあったかい?」

「都に使いに出ておられた方々が戻られました。ご報告のためにお時間をちょうだいしたいそうです」

「わかった。すぐに行くから執務室に来るよう伝えてくれ。それから料理番に、コーディリアのための食事の買い出しをするよう頼んでおいてほしい。しばらくは出来合いのものを用意して構わないとも伝えてくれるかな」

「かしこまりました」

「そのうち料理を覚えようとすると思うんだが、やる気があるなら修行に出しても構わないから考えておくようにとも」

「はい、申し伝えておきます。……あの、あるじ様? お伺いしてもよろしいでしょうか。先ほどから何故コーディリア様を抱いたままでいらっしゃるのでしょう?」

「え? ……あ」

「…………」

 舞踏を踊るときのように密着していたコーディリアは、微笑みの仮面を被って完全に思考を止めていた。

(考えるのはだめ。考えるのはだめ。考えるのはだめ。絶対に考えちゃいけない!)

「すまない、つい」

「必要だったからでしょう? わかっているから大丈夫よ」

 礼儀正しく離れながら微笑むと、つい、と伸びた指先がコーディリアの被り布を引いた。

「私としては、気にしてくれた方がいいんだけれど」

 どきりと鳴る心臓に、笑みを浮かべた唇の端がわずかに震えた。

「そういう冗談は好きではないの」

 思いがけず冷たい声が出た。縮まろうとする距離に怯えて咄嗟に作った壁のせいだ。

 だがそれにアルグフェオスは何も言わなかった。「気になることがあったらいつでも、どんなことでも知らせてほしい」と小さな笑みの気配を残して去っていく。あえて関係性の変化について問題を宙に浮かせたのだとわかり、コーディリアは唇を結んで瞑目した。

「コーディリア様、コーディリア様。あるじ様とのお出掛けはいかがでしたか? もしかして何かいいことがありましたか?」

 アエルにも二人の様子が変わったのが感じられたのだろう。わくわくとした声音に上手く反応できる自信がなく、コーディリアは力なく微笑んだ。

「美味しいものを色々ご馳走になったわ。お腹もいっぱいになったし、中庭に行って仕事をしようと思うのだけれど、構わないかしら?」

 もちろんです中庭までと先導してくれたアエルには一人にしてほしいと頼んで離れてもらった。邪険にしたにも関わらず離れたところで控えていると言ってくれた彼女に申し訳なさを感じながらも、乱れた心のままはしたなく地面に座り込み石の木に背を預ける。

 さわ、と小さな風が吹く。

 けれど石の木には緑の音を奏でる葉は一枚も繁っていない。

(葉がついていればその陰に身を隠して安心することができたかもしれないわね)

 ぼんやりした意識が周りのものたちに溶け込んでいく。そうしてそれらが内側に持つ魔力の流れにほんの少しだけ手を加えて、石の木に細く穏やかな流れを作った。

 以前は手探りだったものが、何故かいまはこんなにも容易に扱える。魔力が強くなったわけでないのならすぐ近くにあるものたちの力を感じ取っているからなのだろう。

(全身が温かい。痛むところや重いところもない。まったく別の身体のよう)

 療養するように言われて少しばかり退屈していたくらいだったが、こうしているとずっと自分が不調を抱えていたとわかる。目が覚めたときの憂鬱な気分や食欲のなさはウルスラとグウェンとの共同生活で感じなくなりつつあったけれど、目隠しをしていなくとも視界は常に陰り、全身は冷え、頭はどこか鈍く重く、身体のどこかが疲れていたり怠かったり痛んだりしていたのだ。

 あの頃を地べたを這いつくばっていたと表現するなら、いまは空を飛んでいるよう。

(ずっとこのままでいられたら)

 アルグフェオスにはそれを望まれている、と思う。

 彼は礼儀正しく穏やかな性格の持ち主で、まとも過ぎるほどまともな人だ。見ず知らずのコーディリアを療養させるのには裏があるのだろうけれど、それにも増して与えられているものが多すぎた。清潔な衣服、寝床、食事。魔力の使い方まで教えられて、たとえ裏切られたとしても憎むのは難しい。そのくらいには心を許してしまっている。

 アルグフェオスはいま何をしているのだろう。使いが戻ってきたとアエルは言っていたから仲間と会っているのだろうか。その使いとやらはきっと交渉役だろう。王都で要人と面会していたに違いない。

(マリス殿下は)

 とめどなく、けれど意味もなく浮かぶものたちはコーディリアが少しずつ眠りに引き込まれているせいだ。

(私のことは)

 心地よい安らぎに身を浸す、すぐそこに暗い影がひたひたと打ち寄せている。影は問う。コーディリアの声で。

『お前に許される安寧があると思うのか?』

(アルグフェオス。…………アルグス)

 真の親愛を込めてそう呼べる日は、けれど。

 そう思ったとき、意識が浮いた。縛められていたものから解き放たれた、そんな感覚にぼんやりとしていると不意に周囲のものがはっきり見えることに気が付く。

 青い空。青々とした下生え。白い石の木。その幹に背を預けているコーディリア。

(……え、私!?)

 まったくの第三者として自分を見ている異様な状態に狼狽られたのは数秒にも満たなかった。動揺したコーディリアは突然吹いた風にさらわれ、次の瞬間には辺りの景色が一変していたのだ。

「……こちらがその書状にございます」

 聞き覚えのない男性の声がするそこは、やはり見知らぬ部屋だった。異様なのはコーディリアのいる位置だ。明らかに天井よりも高いところに浮かんでいて、その場所を見下ろしている。

(これは夢? それとも魔法、なのかしら……?)

 紺碧と銀の内装が美しい部屋だ。落ち着いた濃紺の絨毯に、真鍮の色が落ち着きを与える家具たち、壁紙や彩りにところどころあしらわれた銀の箔が慎ましい輝きを放っている。

 そこにいる人間は三人。一人は執務机につき、背丈の大きく異なる二人がその前に立っている。背の高い人物がその「書状」とやらを机の上に滑るように差し出していた。

「目を通していただいても良いのですが、時間の無駄でしょう。非常に勝手な言い分ばかりを並べ立てています」

 心底嫌気が差したような物言いをする男性だが、その姿は判然としない。

(ぼやけて見える、というか、光っている?)

 全員がそうだった。光を放つせいなのか輪郭が曖昧で、顔かたちや服装の区別がつかず背丈や声で判断しなければならないようだ。

「特に、この部分。『翼公就任に際して』」

「『仲介者として神殿島所属の巫女を宮廷に常駐させることとする』? 一族に従う巫女を寄越せというのは大きく出たな」

(この声!)

 アルグフェオスだ、と机についている人影を注視する。失笑という感じで書類を読んでいる彼もまた、光に包まれて顔が見えない。がっかりしたが諦めきれず、少しでも光が和らいでくれないものかと目を凝らす。

「待遇はいいようだけれどね。宮廷においては女官相当の待遇、自室と手当が与えられて、帰省のための長期休暇も許可されるようだ」

「女官相当とは王侯貴族の目に留まる身分、国王なり王子なりが手をつけると宣言しているようなものです。アルヴァ王国の王族は魔力を持つ者と婚姻する義務があるようですから、特に王子は要注意でしょう」

「巫女をやるつもりはまったくないから注意は無意味だな」

 苦笑したアルグフェオスは書類を突き返すように押しやるが、目の前の男性はため息をついた。

「しかし妥協点を見つけねば、こちらの要望も受けられることはないでしょう。たかだか人間の王族とは異なり、一族の皆様は魔力を持つ者と添わねば子孫を残せぬ身。翼公のためには候補となりうる者を側付きにする必要がございます。そのためにはこの国の為政者との協力は必須です」

(翼公の側付きは、花嫁候補……!)

 神鳥の一族は魔力を持つ相手でなければ血を繋げないなんて初めて聞いた。

 側付きが大事なお役目だと言われていたのも当然だ。補佐や身の回りの世話をするだけでなく、結婚相手になれる可能性のある者が選ばれるのだから。

(アエルったら、どういうつもりで私がなればいいなんて言ったのか……)

「そのことだけれど、この人はどうかという心当たりがあるんだ」

 アルグフェオスが言って、思わず彼を注視した。

「ふさわしい方が、すでに?」

「ああ。美しい魔力を持つ女性だ。人柄も立ち居振る舞いも申し分ない」

「いったいいつお知り合いになられたのですか? そのように仰るのなら相応の身分の方であられましょう。いずこかの姫君でしょうか?」

「城に迷い込んできた子どもたちを助けた後、倒れていたところを見つけて保護したんだ。いまは城で療養している。身分は、どうだろう? 近くの集落に住む薬師の弟子だと聞いたけれど」

 他に助けられた者がいなければ、間違いなくコーディリアのことだった。

(……あなたはそういうつもりで、私に接していたの……)

 生身でない胸の奥深くが引き裂かれる痛みがあった。傷付く必要はないはずなのに何故苦しいのか、理由を悟ってコーディリアは顔を覆う。

 懲りずに同じことを繰り返しているなんて。愚かな私。どんなに請い願ったところで思いを返されない悲しみをもう忘れてしまったのか。

(アルグフェオス。私は)

 身体が浮き上がり、どこへともなくさらわれる。その直前、アルグフェオスがこちらを探すように頭上を仰いだ気がしたけれど、ふうっと静かな吐息とともに気付けばコーディリアは石の木に預けた身体に戻っていた。

 静かに我が身を抱え、面を伏せる。

 見ていたものは恐らく夢ではない。アルグフェオスの優しさの真意とコーディリア自身に芽生えた思いを自覚させる、残酷な現実。

(目が治ったら、すぐに出て行こう。本当の私は、翼公に関わることも、アルグフェオスの近くにいることもできない。彼らを巻き込まないように、私は私の目的を果たす。そうして彼らと関係のないところで生きていく)

 任された仕事を半ばで終えることになるのは申し訳ないけれど、自分の心を守るため、そしてアルグフェオスたちを煩わせないように静かに身を退くべきだと思った。穏やかで幸せな、夢のような日々は、奪われる前に終わらせなければならない。

(そのためにもいまは眠ろう。早く体力や魔力を回復させて、速やかに行動を開始するの)

 そう固く決意して、束の間の午睡と逃避を始める。 目が覚めたときには、向き合わねばならないものが少し近付いている。ずいぶんゆっくりしてしまったコーディリアがすべて悪いのだ。心の痛みも、諦めきれない思いの身動ぎに胸が騒ぐのも、すべて。

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