陰風と光風
「この世界のあまねく魔力は神鳥のもたらしたものだ。風のように水のように、ときには大波や嵐のごとく巡り、生きとし生けるものを包む。一方でこれを堰き止め、汚し、必要以上に消費されることによって流れが滞ることがある。戦や、災害、病、人心の荒廃。犠牲、流血。命の営みが続く限り避けようのない悲哀や憎悪の数々」
歴史書を辿る己を思い浮かべたコーディリアの目蓋の裏に血飛沫が飛んだ気がした。国史は流れた血で怨嗟の声を綴っているのではないかと思った、そのときと同じ鮮やかで禍々しい赤だ。
巧みな語り手はその話ぶりでそこにいない存在をくっきりと浮かび上がらせるものだと、宮廷で数多の詩人や語り部を見てきたコーディリアは知っている。そしてアントラエルの語り口はそれらを突き放すような、温度のない、しかしこれ以上なく話し手にふさわしいものだった。誰かに何かを話して教えることを当たり前にしているように堂々としている。
「そうした魔力の乱れを調整する者を『翼公』という」
赤く汚れた視界が清廉な癒やしの青に変わる。
「翼公は『そこに在る』だけで魔力に秩序を与えることができる。選ばれる者は一族の中でも強い力の持ち主だが、当然神鳥には遠く及ばない。そこでいくつか存在する魔力拠点を中心にした圏域にそれぞれ置かれることで魔力の循環の安定を保つようになった。これを欠くとどうなるか、想像ができるだろう?」
コーディリアは深く頷いた。これまで翼公について度々耳にしてきたのだからそう難しくはない。
翼公とはすなわち浄化能力を有する大きな水車なのだ。流れる魔力を受け止め、浄化して新しい流れを作る。神鳥のようにいかなくとも世にあまねく行き渡るように。
その水車を失い、流れが倦んで汚れをため込んだ沼がアルヴァ王国だ。
「いまになって荒廃が目に見えるようになったのには理由があるのですか?」
「『目に見えるようになった』というのは適切ではない。悪化し続けていたものに気が付かなかっただけだ。ごくわずかな変化が積み重なり、ある瞬間、それが決定的に以前とは比べ物にならないほど悪くなっていると知った、それだけのこと。あの版図における万物が減少した魔力を補っていたが、それがついに底を突きつつあるんだろう。植物の生育に回せるだけの魔力がないと考えられる。早急に翼公を置くべきところだが……」
アントラエルはそこで言葉を切った。
「アルグス。それについて何か問題があるのか? お前の領域(・・)の話だろう」
(…………?)
発言に含みがあった気がしたが、息を吐いたアルグフェオスが話し始めてそちらに気を取られる。
「アルヴァ王国側との交渉が長引いているだけだ。じきに終わる」
「揉めているのか」
「話し合いが進まないだけだよ」
(それを揉めているというのではないのかしら……)
やれやれとでも言いたげなアルグフェオスはどうやら疲れているらしい。
(話し合いってつまり、王宮に行ったの? 王に謁見した?)
あの王族と交渉ごとをするのはさぞ疲弊するだろうと心当たりがあるだけに同情できてしまう。同時に、ある懸念が過ぎるがいまは努めて頭の隅に追いやった。
「アルグフェオス。交渉は、そんなに難しいの?」
感情を表に出さないようにしながら尋ねると、どこか宥めるような答えが返ってきた。
「交渉といっても大きな話ではないんだよ。翼公が着任するとき圏域内の人々に挨拶する慣例があって、『援助を期待して戦を仕掛けたのに翼公が助けてくれない』などという的外れな非難を避けるために、内政不干渉や掟の説明も兼ねて国主たちと顔合わせを行うだけのことだから」
「翼公がいたとしてもその版図内にある国の支援を当然のように行うわけではない。介入するのはあくまで制約に即した範囲で、私情での行動は決して許されない翼。公は一種の象徴だ。神鳥の恩恵がそこにあるという証のようなもの」
どこまでも穏当であろうとするアルグフェオスの物言いを掻き乱す台詞だと思ったとき、コーディリアは予感めいたものを覚えて身を震わせた。
(……いま、すごく……嫌な……)
先の翼公を知っているのか、彼の言葉にコーディリアもロジエを思い浮かべた。制約において内政不干渉が原則を破った前翼公。助けを求めてしまった領主家と民たち。
――王と政が変わらないままなら、また同じ悲劇が繰り返されるのではないか?
「たとえ承諾を得られずとも翼公は人の法には縛られない。攻撃されたなら制約に基づいて正当防衛が認められる。最終的にはルジェーラを治めることになるから、何も心配することはないんだ」
優しい声音は、どうしてだろう。ますますコーディリアの不安を煽る。
「けれど王国側は着任が遅れるようなことをしているのよね。このままでは人々の心はますます王家から離れていくだけなのに、何故? もしかして何か企んでいるんじゃないかしら?」
「だからこそ、だ。翼公が解決しては困るんだろうさ」
コーディリアの疑問にアントラエルがあっさり回答をくれる。
「これまで手の打ちようがなかった問題を着任したばかりの翼公が解決した、では国主の面子が丸潰れだ。その上アルヴァ王国は魔力の有無と貴賎の価値観が密接な関係にあるのだから、翼公の存在は都合が悪いだけだろう」
思わず言葉を失った。呆気に取られて口を開けたのも束の間、ぎりりと唇を噛み締めてしまう。
ここに至っても王侯貴族は魔力を持つという特権にみっともなくしがみついて大勢を苦しめている。
「ということは、長引く原因があるわけだ。さては見返りを求めてきたか? 強欲な。それとも命知らず、と笑うところか」
アントラエルは嘲るような笑みを吐く。
答えがない、それが答えだった。
コーディリアはアルグフェオスの袖を引いた。正確には掴み寄せて握り締めた。
「王家は何を言ってきたの? それにどんな返事をしたの」
恐らく彼には先ほどからコーディリアの言動が奇異に映っていると思う。城で穏やかに静養し、久しぶりの外出を楽しんでいたかと思ったら、何かに駆り立てられるように問いばかりを口にする。
(王宮に行った? 謁見した? 交渉の席には誰がいたの?)
コーディリアの内側で渦巻く焦燥は同じ疑問ばかりを叫んでいた。
(あなたはマリス殿下に会った? 私(元婚約者)のことは知っているの?)
袖を掴んで握る手に温かい指先が触れた。
「コーディリア。君は何を心配しているんだ?」
「……それは」
あの人たちは残酷で、自分勝手で、目的のためなら善良な人間も悪党も踏み付けにできるから。
けれど後が続かなかった。それを言ってしまえばコーディリアは何者なのかという話になってしまう。
ただあの傲慢な者どもに彼が嬲られているかもしれないと思うと全身が震えが走る。心のざわめきが収まらない。開いて、結局閉じた唇を噛むコーディリアに、アルグフェオスの穏やかさは苦痛に感じられる。苛立たされてもそのように受け流しているのだろうと、かつての自分のことまで思い出されてしまう。
「翼公の着任が難航しているのは確かだが、彼らは決して私たちに手出しできない。どんなに見返りを求めたところで差し出せるものもないし、不当な要求を飲む必要もなければ協力することもない。君が恐れることは起こらないから、安心していい」
触れていた手はいつの間にかコーディリアのそれを包み込んでいる。
信じたいと思うと同時に、そんなに甘くはないのだと傷付いた過去の自分が言う。彼らの愚かさを、それ以上に正直なほど己の感情の制御が効かないことを、アルグフェオスのような良識の持ち主は絶対に理解できまい。
特にマリスは彼の対極に位置するような人物なのだ。感情的で、思い通りにならなければ破壊し、壊したことをも忘れてしまう。
「……交渉に赴くことがあるのなら、どうか、マリス王太子殿下には気を付けて」
一人きり神鳥の像の前に跪いて祈るように囁いた。手助けできないのなら、せめて。
切実な思いをアルグフェオスがどう受け取ったのか確かめることはできなかった。
「そうしているとまるでつがいのようだな」
からかうような、しかし真剣味を帯びたアントラエルの指摘が二人の間の空気を強張らせる。
「どうして睨むんだ?」と面白げに笑っているのはきっとアルグフェオスがそういう顔をしているせいなのだろう。
「傷付いたところを拾って介抱し、こんなところまで連れてきてともに出歩いている。以前のお前なら絶対にしなかった行動だ。それだけコーディリア嬢に思い入れるものがあるからだろう?」
「アントラエル……」
「コーディリア嬢。アルグフェオスは、どんなに色取り取りの花が咲いていようと見向きもせず、つがいになりたいという誘いの言葉にも決して頷かず、誰一人として側に寄せ付けなかった男だ。だがあなたは唯一の例外らしい。誇っていいぞ」
「え、あ……あの……」
からかわれているのはわかっているけれど、勝手に頬が赤く染まっていく。
(そういう気持ちがあるわけではなく、そう見えるだけ。だって彼はこんなに困っている)
介助してもらっている姿すら厭わしいのではないかと思って、腕に置いていた手を離したとき、思いがけない力で引き寄せられて押さえつけるように元の位置に置かれた。
「アルグ、」
「離れないでほしい。――いまだけは」
ここにいてくれという懇願だった。
献身すら感じられる台詞をどう受け取ればよかったのか、わからないまま、コーディリアは引き寄せられるままに元の位置に手を戻し、それでは何か足りない気がして、そっと指先に力を込めた。握るまでとはいかない、けれど離れるつもりはない、そうわかるように。
(目の、奥が……熱い……)
大きく膨らんだ柔らかな熱は、包帯をしていなければこぼれ落ちてしまっていたかもしれなかった。
「妬けるな」
「そうだろうとも。見せつけているんだから」
挑戦的に言い返されたアントラエルは一瞬言葉を失ったかと思うと「っは!」と大笑いを始めた。
「ははは! そうか、見せつけられているのなら仕方がないな! ははははは!」
「コーディリア、彼に他に聞いておきたいことはあるかい?」
突然の応酬に不意打たれていたコーディリアは耳のすぐそばで問われて、吹き飛びかけていた思考を力尽くで引き戻さなければならなかった。
「ええと、聞きたいことは聞いた、と、思うわ」
「ならよかった。もし何かあれば私に聞いてくれればいい。大抵の疑問は解消できると思う」
視界を覆うほど顔のすぐ近くで穏やかな微笑みを向けられているとわかり、赤面しそうになる。側から見れば密着しているように見えるのではないかと心配になった。
「じゃあ私たちはこれで失礼するよ。それから、協力を仰ぎたいことがあるから後日使いを送るのでよろしく頼む」
「承知した。こちらも報告があれば使いをやる。コーディリア嬢と仲良くな、ははは」
笑いの発作が収まらないアントラエルに「もちろんだ」と返すアルグフェオスは、すっかり彼の扱いに慣れてしまったようだった。一方意趣返しに強く引き寄せられたり繋いだ手に手を重ねられたりと触れ合いが密接になるコーディリアはたまったものではない。
平然と微笑むのは得意だが、これまでになく過多な接触に鼓動は速度を増していく。「しっかり掴まって」の言葉とともに腰を引き寄せられて、ぞくっと身が竦むのは仕方のないことだった。
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