軋んで、ひび割れて

 ――それから二日ほどが経過した。

 差し入れられる食事の回数と身体の感覚から判断したコーディリアの手足は、その頃には石の床の冷たさを痺れとしか感じなくなっていた。

 罪人の塔は貴人の虜囚が収監される場所だ。他国から輿入れした妃などが入れられてきた歴史もあるのでそうひどくはないだろうと思っていたが、甘かった。

 腐食して崩れかけた寝台と異臭のする寝具、傾いた衝立と、塔の内側は目を背けたくなるほど荒れていた。地下に水源があるのか夜は震えるほど寒く、擦り切れた絨毯を巻きつけて眠らなければならないくらいだ。

 そこに普段食べている贅沢で繊細な味付けの献立がひとまとめに運び込まれてくると滑稽でしかない。

 食事に毒が入っていてもおかしくはなかったが、精神力を削られている上に体力まで失えば命を落としかねないと、恐れを堪えて食べ物を口に運んだ。幸いにも不調はなく、毒殺はまだ行われる予定がないようだ。

(私はこれからどうなるのかしら……処刑はされない、とは思うけれど)

 レイラがこの塔にいる雰囲気はないのでマリスの近くに保護されているのだろう。歴然とした待遇差にひび割れた唇を噛むと血の味を感じた。

(あれが虚言だと理解できないはずがないのに……)

 寵愛されるレイラと婚約者であるコーディリアの対立は宮廷人にとって日頃から格好の話題だった。いま宮廷にはコーディリアがついに我慢の限界を迎えたと揶揄する者がいるだろうし、レイラが大きな声で被害者であることを主張する状況に、二人の未来の明暗が分かれたのだとしたり顔をする者もいるはずだ。

 けれども結局はマリスや国王が下す判断にすべてがかかっている。

 ちりちりと火花めいた光を感じる目を閉じ、両親の無事を祈っていたときだった。

 扉の向こうの足音を聞いてコーディリアは身なりを整えて居住まいを正した。これまでになかった複数人の、物々しい気配だった。

(ついに来たのね)

 かくして呼びかけもなく無造作に開かれた扉の先に、護衛やお付きを引き連れたマリスが立っていた。

「汚らしいところだ」

 婚約者を前にした第一声がそれか。

 心底落胆したコーディリアはそれでもすっくと立ち上がり、着たきりで汚れた破れたドレスのまま淑女の礼をした。

「わざわざのお越し、痛み入ります。殿下」

「十分に反省できたのなら出るがいい。そしてレイラに詫びろ。謝罪があれば許すと彼女は言っている」

 コーディリアは耳を疑い、微笑みを失ってマリスを凝視した。

「……反省? 謝罪?」

「これまでの行いを振り返って己の過ちを理解したはずだ。これからは心を入れ替えると誓え。そうすれば婚約を破棄しても王宮に住まいを与えてやる」

 衝撃を受ける婚約者を見てもいないような言葉が礫となってコーディリアを打つ。

 いずれマリスがやってきて、自分勝手な理屈でコーディリアを責めた上で渋々釈放するのだろうとは思っていた。悪いのはお前だと言われるだろう、コーディリアはいつものように悲しげに微笑んで謝罪の言葉を口にし、自らの感情を押し殺してすべて丸く収めるのだと、そのように。

 しかしいま身体の内側からふつふつと湧き起こる震えと熱が長らく封じ込めていたものを押し開こうとしている。

 何故こうも感情が波打つのか。劣悪な環境にいたせいか。よく眠れず疲れ果てているからか。ただこうして忌々しそうに紫の瞳を細めるマリスと相対しているだけで少しずつ、少しずつ少しずつ、何かがこぼれ落ちていく気がする。

「……何を、仰っているのか……わかりません……」

 ちっとマリスは舌打ちした。

「王太子の婚約者の立場を利用して弱者を虐げたのはお前だろう。そんな輩は未来の王妃にふさわしくない。婚約破棄以前に反省しレイラに謝罪するのが先だと言っている」

「婚約を、解消なさるのですか?」

 魔力持ちの継嗣を産むための婚約だったのだから、破談になるならコーディリアは不要ということか。

 マリスは冷たく言い放つ。

「お前を妃の座に据えるなど、許し難い」

(解放、される……?)

 長く伸ばした髪を切られることを警戒したり、新しい衣服を破かれたり装飾品を壊されることも、突然不機嫌になったり声を荒げられたり、物を投げつけられ、乱暴に扱われ、別の女性と睦み合っているのを見て名ばかりの婚約者であると思い知らなくていい、そういうことではないか。

「驕慢なお前に妃の位はふさわしくない。お前の役目は強い魔力を持った世継ぎを産むこと、生まれた子は俺とレイラの子として育ててやる」

 ひび割れる音がした。

 懸命に抱え込んでいたものが砕け散る音で何も聞こえなくなる。目の前に黒い帳が降り、コーディリアの世界は闇に包まれていく。

「それは……」

 血の気が引く。指先まで冷え切った身体は意識までも手放そうとしていたが、一欠片の矜持が立つことを強いている。

 妃でないコーディリアが産んだ世継ぎを、マリスとレイラが育てるというのなら、それは。

「それは、私に――子どもを産むだけの道具になれと仰っているのですか」

 マリスは笑う。泰然と微笑んでいたコーディリアがここにきて初めて動揺して言葉を失う様を、心底嬉しそうに嘲笑う。

「本来なら王宮から追い出すところだが、役目を残しておいてやることにしたんだ。感謝しろ。そして光栄に思え。命を長らえた上にその魔力をこの国の次代に受け継がせることができ、」

 その瞬間、青い光が爆発した。

 暗い牢獄に満ちた魔力は大嵐のごとく荒ぶり、塔の壁を打ち壊す。

 もうもうと土煙が上がるなか、コーディリアは痛む目を押さえ、手足に傷を作りながら崩れた瓦礫を這うように越える。激痛に震える身体を叱咤し、城に背を向けて、内側に響く声に純粋に従う。

 逃げろ。逃げろ。いますぐに。もう二度と囚われてなるものか。

「マリス殿下!? ご無事ですか!?」

「殿下! 返事をしてください、殿下!!」

「エルジュヴィタ伯爵令嬢はどこだ!?」

 マリスとコーディリアを探す声がしている。

 だがコーディリアはそれには一切応えずに魔力の宿る瞳で汚れた靴に魔法をかけると、一気に空へと飛び上がった。

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