踏み躙られる誇り

 だからコーディリアはレイラを呼び止める必要があった。東屋にいた彼女は、それまでの甘ったるい雰囲気が嘘のように、至極つまらなさそうな顔で残された菓子を摘んでいる。

 白い指先についた、焼き菓子にまぶされていた粉砂糖を舐め取った彼女は見下ろすコーディリアににまっと笑った。

「何か?」

「オードリン男爵令嬢、あなたからも殿下に申し上げてください。ご自身の責務を果たされるようにと」

「どうして私が?」

 春の宵に鳴く猫のように笑う彼女に、コーディリアは内心唇を噛むと、努めて感情を殺して言った。

「マリス殿下の寵愛を受けているのは、あなたよ。私の言葉は聞き流してもあなたの言うことなら聞く耳を持つでしょう」

「あら、お認めになるの? 婚約者のご自分ではなく、私が、マリス様に愛されていると?」

「……ええ」とコーディリアが短い肯定を返すと、レイラは艶やかな唇を痛快そうにくっと持ち上げて笑い出した。発作のような笑声はしばらく止む気配がなく、耳を塞ぎたい衝動と戦いながらじっと殊勝にレイラの言葉を待つ。

「そうね、そうね! 妙なる美しさと青の瞳を持っていてもお小言ばかりの婚約者ではなく、微笑み寄り添う私を愛してくださっているわ!」

 高らかに勝利を宣言する赤い唇が弧を描く。

「でも、いやぁよ。殿下に物申すなんて。諫死なんてまっぴらだわ」

 少しでも抗議しようものなら首が飛ぶ、意見するなら死を覚悟しなければならない。そんなのは嫌だとレイラは風で飛ばすようにひらひらと手を振って、愕然とするコーディリアとすれ違って東屋を出て行く。

「待って、待ってちょうだい! 嫌だなんて、そんな。あなたは殿下やこの国の状況に対して何とも思わないの? このまま殿下が即位すればいずれ傀儡に、あるいは暴君となって自国の民や他国を脅かすかもしれない。いまならそれを食い止められるかもしれないのよ!」

「おめでたい人ね」

 追いすがるコーディリアの白い手を打ち据えて、レイラは凶悪な笑みとともに言葉を叩きつける。

「本当に、おめでたい。この国で最も魔力を持っていると言われているから? 自分ならこの国の未来を救えると思うのね。マリス殿下を善き王として導けると、人を変えられる、人は変われると本気で信じているのね」

 レイラの目は憐れみと怒りに燃えていた。ほとんど魔力を持たないはずなのに、鮮やかで凶暴な目の輝きは魔法の刃のようにコーディリアを狙う。

「綺麗事を言って実現し得ない未来を語るより、自らの手を汚してみたらいかが? そうすれば本当に国の未来を憂いていると信じて差し上げてもよくってよ。まあ、あなたには無理でしょうけれど」

「オードリン男爵令嬢」

 震える声は低く、レイラはびくりと背筋を正し、正してしまう圧を感じた己を恥じるように唇を噛んだ。

 彼女の言い分は、わかるつもりだ。けれどコーディリアは正式な王太子の婚約者、片や公然の恋人という立場で、見えないところで聞き耳を立てている仕官たちの前で言いたい放題させるわけにはいかなかった。

「私の努力が足りないのは、認めます。けれども侮辱されて黙っているにはわきまえない発言が多すぎる」

 ただでさえ羨望と嫉妬を集める青い瞳を持つ魔力持ちなのだ。次期王妃という立場をこのように利用したくはないけれど、いまここで侮られては、王妃になったとしても他の者たちは好き放題することだろう。

 ただレイラの言葉は耳の奥にこだまして、コーディリアの心にひっきりなしに傷を付けた。

(『綺麗事を言って実現しない未来を語る』……私はしていることは無駄でしかないのだろうか?)

 いずれマリスが即位し、その隣にコーディリアが並び立つのを想像するとき。目の前が真っ暗に塗りつぶされるような気がするのだ。そこにたどり着けばもう何も見えずどこにも行けず、一つとして光たりうるものがない、そんな予感が。

「――きゃああああっ!」

 思考に沈むコーディリアは、面を伏せてきつく唇を噛み締めていたレイラが滾らせた憎悪を迸らせたことに気が付かなかった。我に返ったとき、彼女は悲鳴を上げて地面に倒れ込んでいた。

「な、どうしたの!?」

 何が起こったのかわからないまま何かに襲われたらしい彼女に手を差し伸べるが、レイラは「ひぃっ」と怯えた顔をして這うように後退る。

「ご無事ですか!? いったい何が……?」

 悲鳴を聞きつけた兵士たちが駆けつけてきたが、レイラはコーディリアだけを見つめて譫言のように繰り返す。

「申し訳ありません、申し訳ありません! お許しください、どうか、どうかご慈悲を……!」

「オードリン男爵令嬢?」

 レイラの恐怖は紛れもなくコーディリアに向けられている。心当たりがなくて当惑していると、身体を捻じ込ませるようにして兵士が割って入り後ろへ下がらざるを得なくなった。

「エルジュヴィタ伯爵令嬢、いったい何があったのですか?」

「何が、と言っても、」私にも何が起こったのかわからないと答えようとしたところで、別の兵士に助け起こされているレイラがわあっと大きな声で泣き出した。

「わ、私がいけなかったんです! 不相応に殿下のお側にいるから……け、けれど誓って、コーディリア様の立場を脅かそうだなんて考えておりません! 信じてください! 私はただ、殿下を、殿下を……!」

「オードリン男爵令嬢? 先ほどからあなたは何を言っているの?」

 ごめんなさい、お許しください、とレイラは泣き喚くだけで質問に答えようとしない。

(何なの? これではまるで……)

 これではまるでコーディリアが彼女に危害を加えようとしたかのようだ。

 気付き、この先に起こりうる事態を想像したが、遅かった。

 次の瞬間コーディリアは兵士たちに囲まれて逃げ場を失っていた。

「事情をお聞きしたいので、ご同行願えますか?」

 私は何もしていないという言葉ほどこの国で意味のないものはない。

 足元に寄せる不穏の影に足をさらわれそうになりながら、それでも凛と顔を上げ「わかりました」と応じた。

 振り返らなくても、兵士に身を預けるレイラが勝ち誇った笑みを浮かべているとわかった。


 貴賓室に連行されたコーディリアはそこで何が起こったのか、ありのままを正直に語った。マリスが立ち去った後、レイラと話をしていたこと。軽い言い合いとなったが突然彼女が悲鳴を上げて泣き出したこと。誓って、手を上げたり魔法で攻撃したりなどしていないこと。

「だが何もしていなければあのように怯えることはないのではありませんか?」

 コーディリアの聞き取りを行う騎士団長は先にレイラのもとを訪れていたらしかった。ここでも明確に現れる待遇の差に気持ちが荒れるのを抑え込んで、静かに尋ねる。

「オードリン男爵令嬢はどのように説明したのですか?」

「身をわきまえないことをきつく叱責されたと言っていました。我慢の限界だったに違いない、身の危険を感じるほどの怒りだったので誰かが来てくれなければ取り返しのつかないことになっていたかもしれない、と」

「確かに、エルジュヴィタ伯爵令嬢から逃げようとしているように見えました」

 立ち会っている騎士は現場にいた一人で、レイラの怯えた様子が偽りでないことを証言する。

 あのとき、あの場所には誰もいなかった。マリスとレイラの密会のために人払いされており、離れている護衛の者もこちらの様子を見ない位置に控えていた。

 だから大声を聞いて駆けつけてきた兵士たちが知っているのは、コーディリアとレイラがいて、倒れ込んだレイラが青い顔で怯えてコーディリアに泣きながら許しを請うところだけ。

(詰み、だわ)

 はめられた。

 ここまで来て悟らないわけにはいかなかった。コーディリアの態度が腹に据えかねたのはレイラの方だ。咄嗟に被害者を装い、コーディリアを悋気に走った悪人に仕立て上げてくれた。

「私はオードリン男爵令嬢に危害を加えてはいません。彼女は事実をねじ曲げて自分が有利になる証言をしています」

「結論を出すのは捜査が終わってからです」

 取りつく島もなくコーディリアは退室するよう促され、左右を固める兵士たちによって王宮の外へと連れ出された。どんどん人気がなくなっていくのは、その先にあるのが立ち入りを禁じられた場所だからだ。

(罪人の塔……)

 暮れなずむ空に禍々しくそびえる黒い塔を見上げ、コーディリアは身震いした。

 塔の番人が鍵を開け、兵士たちがコーディリアを促す。

「どうぞ、お入りください」

「この塔の住民は罪人です。捜査も終わっていないというのに私を罪人として扱うのですか?」

「マリス殿下のご指示です」

 淡々と告げられたそれがすべてだった。

 これ以上の抵抗は無駄だと悟ったコーディリアは大人しく塔の囚人となることを受け入れた。

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