婚儀
紅葉の季節が終わるころ、いよいよその日を迎えた。資盛はさきごろ右近衛権中将に任じられ、順調に出世街道を歩いている。
いっけん平穏に思える都ではあるが、昨年の夏に、法皇の第三皇子が平家打倒の兵を挙げるという事件があった。
それ自体はすぐさま鎮圧されたものの、呼応するように東国や北陸での叛乱が相次いでいる。そのため、朝廷では平家を主力とした追討使をたびたび派遣していた。
しかし、所詮は遠国での出来事である。都では常と変わらぬ暮らしが営まれており、持明院の姫と資盛の結婚も、滞りなく進められた。
すっかり日も暮れた戌刻ごろ、松明を掲げた前駈や従者たちを伴った資盛が持明院第を訪れた。にわかに
これまでに交わした恋文は、どれも心憎いまでに気の利いた素晴らしいものだった。薄様や、それを結びつける折り枝はもちろんのこと、和歌を書き添える墨の濃淡さえも考え抜かれているかのような
はたして自分は、その心遣いに正しく応えることができていただろうか──いまさらながら、落ちつかない気持ちになってしまう。
それに、夫となる資盛には異母兄がいて、その人は大変な美貌で有名だった。
姫の女房たちなどは、もしやこの持明院第にも、その美貌の公達が姿を見せることもあるやもしれぬと、夢のような話で色めき立ったくらいだ。
母は違えども、資盛の顔立ちにも、その美貌の兄の面影くらいはあるかもしれない。ただでさえ、平家の公達は華やかな装いを好むと聞く。凡庸な容姿の自分では、地味でつまらない女だと思われてしまうのではないだろうか。
持明院の姫は際限なく浮かぶ不安を抱えたまま、寝殿の帳台で待つ資盛のもとへ向かった。
すでに灯芯を短く切られた高燈台の炎はごく小さく、帳台の中までは明かりが届いていない。これではお互いの顔も、はっきりとは見えないかもしれない──そう思うと、姫は心をいくらか落ちつかせた。
ふたりへ
(どうなさったのかしら……?)
資盛は烏帽子を右へ左へと傾けながら、鼻の頭を指先でちょんちょんと触っては、その指先を確認している。
なにをしているのかと聞きたいけれど、こういう場面で女から声をかけるのは憚られる。それに母からも、姫は声を出さずに目を閉じていれば、万事それで良しと言われた。
しかし、とうとう資盛が手の甲でごしごしと豪快に鼻をこすりだすと、姫は堪えきれずに問いかけてしまった。
「あの……中将さま、どうされたのですか」
「ん、ああ。鼻がね、黒いんだよ。ほら、見てごらん」
にゅっと顔を突きだされ、驚いた姫はとっさに衾を目もとまで引き上げた。それから、おそるおそる目を凝らしてみると、薄闇の中でも資盛の小ぶりな鼻先だけが黒く汚れているのがわかった。
「松明の煤かなぁ。張りきってたくさん用意したものだから……姫、申しわけないけど、煤を拭いてくれないかな。自分ではよく見えなくてね」
困ったように言う資盛の申し出に、姫は戸惑いながらも上体を起こした。小袖姿を見られることがどうにも恥ずかしく、つい伏し目がちになってしまう。
下をむいたまま、手にした懐紙を鼻先あたりへ伸ばして撫でていると、ふいに資盛が懐紙を取り上げ、もう一方の空いた手で姫の背中を抱き寄せた。
「姫、そんなに下ばかり見ていては、きちんと拭き取れているかわからないでしょう。お顔を上げてごらんなさい」
資盛は、ごく穏やかな声で耳もとに囁きかけてくる。
「あ、の……はい……」
息が詰まったように胸が苦しく感じて、姫はぎこちなく返事をした。
生まれてこの方、姫の身近に存在する異性は、五十路の父しかいなかった。それだけに、いま、自分の背中に回された太い腕の逞しさや、耳の奥で心地よく響く若々しい声に、姫は新鮮な驚きを感じていた。
そして、まさにその男性の腕の中にいるのだと思うと、持明院の姫は頭がぼうっとして、呼吸さえも忘れてしまいそうだった。
「あなたはこれから、わたしの妻になるのですよ。それとも、内心ではわたしを疎ましく思っておいでなのかな?」
少し身体を離した資盛に顔をのぞき込まれ、姫は肩をすぼめたまま首を小刻みに左右に振った。
絡み合う視線をどうすればいいのかわからず、姫が息を詰めていると、資盛はふっと目を細めて自分の鼻先で姫の鼻をちょんとつついた。
びくりとして思わず目を閉じてしまった姫の頬を、資盛が両手で包みこむ。
「──おや、これは困った。あなたにも、煤がついてしまったね。これでは、可愛らしいお顔が台無しだ」
やや芝居がかった言葉とともに、資盛の指が姫の鼻先を撫でたかと思うや、あたたかな唇が押しつけられた。資盛は餌をついばむ鳥のように、姫の鼻先や固く閉じた目蓋、紅葉のように赤く染まった頬や耳もとへ軽く口づけてゆく。
(中将さま……)
母の言いつけとおりに目を閉じ、声をもらすまいと身体を固くしていても、小袖にすべり込んだ資盛の指先が肌に触れるごとに小さく肩が震え、吐息が漏れてしまう。
やにわに資盛は姫を抱きしめると、その絹にも劣らぬやわらかな髪へ愛しげに指を通した。
「ずるいな。会ったばかりだというのに、あなたが可愛いくてたまらない」
熱を帯びたその声は、しかし姫の耳には届いていなかった。
ふわふわと身体が浮いているようで、庭を流れる遣り水の音や、過ぎ去った秋を惜しむ虫の声ばかりがうるさいほどに耳につく。
(わたしは……わたしは、中将さまの妻になりたい)
びりびりと雷鳴に打たれたかのように、身体の芯を貫く強い思いが姫の胸に湧きだした。抑えようもなく心にあふれ出る感情のまま、資盛の指の熱さだけを頼りに、姫はその身をゆだねた。
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