美しい日々 ─ 平資盛の妻 ─

小枝芙苑

持明院の姫

 わたしはあまりにも無知で、そして、あまりにも愚かだった。

 でも、無知で愚かだったわたしを許してもらえるのなら、わたしはまた、あの方の妻になりたい。


◇ ◇ ◇


 持明院じみょういん家三代当主・藤原基家の邸宅である持明院第じみょういんだいへ、だれの目にも明らかな恋文が届いたのは、帝(安徳)の践祚によって、元号が治承から養和へと改元された秋のことだった。


 もう何度目かになるその恋文を、基家はうやうやしく中身をあらためた。そして、満足げにうなずくと、娘の起居する対屋へ足を向けた。


「姫や、姫。小松ノ少将どのからの文が届いたぞ。御使者にはあちらでお待ちいただいている。そろそろ、姫から返事を差しあげてもいい頃合いだろう」


 ずっと女房たちに任せていた恋文の返事を、いよいよ自筆で返すように言われた姫は戸惑った。


「はい……あの、母上にご相談申し上げたいのですが」

「ああ、そうだな。もちろん構わない。その方が、うん、いいだろう」


 奥歯に物が挟まったような口ぶりで了承した父へ、それでも持明院の姫はほっとしたように、口もとへわずかな笑みを浮かべた。


 裳着を済ませたばかりの姫の笑顔はあどけなく、そろえた指先に形よく並ぶ桜貝のような爪も、いかにもつぶらで愛らしい。

 そのうえ、ふっくらと張りのある白い肌と、なめらかに流れる黒く豊かな髪は、姫の健やかな若さと、はつらつとした美しさを感じさせた。


 まだまだ子どもだと思っていた姫に、婿となる平家の公達から恋文が届くまでになったいま、基家は順調な娘の成長に目を細めて言った。


「なに、案じることはない。少将どのは、きっと姫をお気に召してくださる」

「……はい」

「ただし、少将どのは武門でありながら詩歌管弦にも通じておいでだ。その妻となるからには、姫もこれまで以上に稽古を欠かさぬようにしなさい」

「はい、父上」


 従順に、そして素直に返事をした持明院の姫は、父が去り、乳母が姫の母へ助けを求めに行くのを見届けると、おそるおそる恋文へ手を伸ばした。

 これまでは、自分へ宛てられた恋文だと思うだけで気恥ずかしく、とても見ることができずにいた。けれど、いつまでもそうしているわけにもいかない。


 心を決めて、えいっと文へ目を通した姫の口から、感嘆のため息がもれた。


「まあ、なんてご立派な……わたしにはとても、こんなには書けないわ」


 しっかりと力強いけれど、流れるように美しい筆の運び。それは強さの中にもやさしさがあふれ出るようで、これから夫となる人の内面を垣間見た気がした。


 選び抜かれたであろう上質で洗練された薄様からは、やはり品の良い薫物の香りが漂ってくる。その華やかで甘い香りは、結婚という未知の世界に対して身構えていた姫の心を、するりと溶かした。


「──小松ノ少将さま」


 ゆっくりと、夫となる人の呼び名を口にすると、不安でたまらなかった胸の奥がきゅっと疼き、さわやかな高揚感が全身を駆け抜けていった。


 しかしそれは、すぐに言い知れぬ緊張感へと姿を変えてゆく。


 小松ノ少将は法皇(後白河)の覚えもめでたい院近臣いんのきんしんで、姫の父・基家も同じく院近臣であることから決まった縁談だと聞いた。少将はそうの琴の名手で、そのうえ和歌にも長けており、自邸で歌会を催すこともあるという。


「わたしには、もったいない殿方だわ。もっと相応しい姫がいらっしゃるのではないかしら……わたしよりもずっと、少将さまにお似合いの方が……」


 しぼんだ気持ちを吐きだすように、姫は深いため息をついた。


 姫自身、手習いも、和歌も、筝も琵琶も、裁縫も、下手ではないけれど褒められたこともない。恋文の返事を母に相談していいかと聞いたとき、父の歯切れが悪かったのも、娘の不出来なことを思い出したせいだ。


(少将さまは、わたしに落胆なさるのではないかしら……。きっと宮中には、もっと気の利いた、美しくて教養のある方がたくさんいらしておいでなのだし)


 持明院の姫は、一度だけ童女として参入したことのある後宮で、そのきらびやかな世界に圧倒されたことを思い出した。


 姫の父方の従姉は、亡くなった上皇(高倉)の典侍として寵愛を受け、皇子をふたり儲けている。姫の両親は、そのうちのひとりの皇子の乳母を務めていた。

 もしかすると父は、娘の様子を見たうえで、そのまま従姉のもとで宮仕えをさせようと考えていたのかもしれない。


(でも、わたしがあまりにも物怖じしていたから……わたしが、父上のご期待に正しくお応えすることができなかったから……)


 情けないことだけれど、仰々しく着飾った大勢の女房たちに囲まれて萎縮していまい、従姉に親しく声をかけられてもなにも答えることができなかった。


 あの日を思いかえすたびに、自分には日の当たらないこの母屋もやの奥で、ただ時間ときが過ぎてゆくのを見送る人生がお似合いなのだと思っていた。


 それなのに──


「まさか、ほんとうに平家の公達をお迎えするなんて」


 つい、恨みがましい言葉が口をついて出てしまった。


 姫の母親は故・清盛入道の姪であり、つねづね婿には平家の公達が望ましいと公言していた。

 その言葉にしたがって選ばれた公達は、清盛入道の孫にあたる小松家の平資盛という青年だった。姫から見ると、親同士が従兄妹という関係になる。


 姫の母方の実家も、婿となる小松ノ少将こと資盛も、平家の本家よりも法皇との関係を重視している風があり、それも今回の縁談がするすると進んだ理由でもあった。


 資盛は権勢を誇る平家の公達で、しかも宮中の花形である近衛府の職務に就いている。そのように華やかな貴公子を婿に迎えるということが、自分にはあまりにも不似合いではないかと、姫は気おくれしていた。

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