閑話4 雪空のおとしもの(7)

「……あるじよ」


 か細い呟きでしたが、不思議と空間を貫く響きがありました。その場にいた全員が口を止め、脱力する少女から語られる言葉に息を潜めました。


「我が主よ、どうぞ、私を天にお返し下さい」


 目蓋まぶたを焼くほどの閃光が生まれたと思ったら、局地的な嵐でも発生したみたいな強い衝撃が皆を襲いました。

 突っ立っていたヴィタは家の壁に叩き付けられ、空気の圧がおさまるのを待つことしかできません。


 遠くで誰かが痛みに呻く声が聞こえたものの、妹の無事を確かめようにも目を開けることさえ不可能だったのです。


「……う、く」


 ようやく風が去り、辺りが静かになった頃、彼は思いきって目を開いてみました。すでに光も失せ、さやさやと庭の周囲で木々が揺れている音がするのみです。


「おにい、ちゃん」


 か細い呼び声にはっとして見回すと、葉を鳴らす木の根本にうずくまる影を見つけました。

 走り寄って抱き起こすと、妹も風に打たれて負った傷痕が背中に赤く残っていますが、その他には怪我もなく、意識もはっきりしているようでした。


「あいつら、どこに行ったんだ?」


 人さらい達のことです。占い師をかたった女と、手下らしき男が二人。大人の体重ではそれほど飛ばされはしないだろうに、彼らの姿はどこにも見当たりません。


「ねぇ、ヴィーラは?」


 兄の腕からいだした少女が、立ち上がって振り返ります。答えられずにいると、泣きはらした赤い目のまま、覚束無い足取りで歩き回って探し始めました。


「……」


 ヴィタにはなんとなく解っていました。あの絶望的な瞬間に垣間見た、ヴィーラが浮かべた決意に満ちた表情と口調から。

 今こうして自分達が無事でいられることも、脅威きょういが去ったのも、きっと彼女のおかげであり、そして。


『私を天にお返し下さい』


 その日、ディーの部屋から聞こえてくる泣き声は、一晩中続きました。



 木こりの兄妹の前に突然現れた天使が、唐突さに消えてしまってから数ヶ月。

 二人の口数は目に見えて減り、やっと暖かくなってきた外の世界とは逆に、家には寒々しい空気が流れていました。


「……」


 当初はわんわんと泣き、謝罪の言葉を何度も何度も絞り出していたディーは、カーテンを閉め切った部屋にこもってうつろに日々をやり過ごしています。


 ヴィタはそんな妹にかける言葉が見付からないまま、ドアに視線を投げては仕事に出掛ける毎日が続きました。

 はぁと溜め息を吐き出し、一時だけ息を詰めて斧を振り下ろす。規則正しいその音も心の穴を擦り抜けるみたいにむなしさを際立たせました。


「……」


 妹への怒りはすぐに去り、代わりに胸を占めたのは自分のふがいなさに対する怒りでした。


 守れなかった。そして、今も守れずにいる。闇に沈んだディーの瞳を目の当たりにすると、手にしている斧で己を切り裂いてしまいたい衝動に駆られました。


 時間が解決してくれるでしょうか。両親を失ったあとになぐさめてくれた「時」が、今度も心にあいた穴を薄ぼんやりしたものへと変えてくれるでしょうか。


 そんな想いにとらわれ、不確かなものに頼って何もせずにいる自分が更に腹立たしくて、苦々しく唇を噛んだ瞬間――何かが耳を掠めました。


「……!」


 はっとして顔を上げ、首を振り回すようにして辺りをうかがい、視界の内に現れたものに目を疑いました。


「ディー!!」


 もうずっと長い間家から出るどころか、部屋からさえほとんど足を向けなかった妹が、凄まじい勢いで走っていました。

 せてしまった体を叱咤し、何かに焦っているような様は、尋常のこととも思えません。


「お兄ちゃん!」


 呼ぶ声に顔を向けたディーが叫びます。泣き疲れて掠れてしまっていましたが、久しぶりに聞く妹の力強い声でした。


「ヴィーラがっ、ヴィーラが呼んだの! 行かなきゃ!」


『ヴィタさん』


 夏に移り始めた風が、懐かしい響きを運んできました。ヴィタは自分で顔色が変わるのを感じ、大切な仕事道具も放り出して妹に続きました。

 あそこだと直感が示したのは、彼女と初めて出会った場所です。どこか抜けた天使が誤って落ちてしまった、あの頃はまだ雪深かった林の中です。


 記憶の場所へと全力で走りました。けれど、肩で息をしながらようやく辿り着いたそこは、春の日差しを受けて伸びた雑草があるばかりです。

 探し求めた微笑みはどこにもありません。


「ヴィーラ、どこ!? ねぇ、来たよ! もう絶対に手放さないから、罰だって何だって受けるから、だから、お願いだよ……!」


 最後の方は土で汚れるのも鋭い葉で切れるのも構わず、髪を振り乱して崩れ落ちました。

 たった一度の、けれど少女にはあまりに重い罪を許されたくて、でも許しを与えられる唯一の相手はいなくて、泣く事しかできません。


 空耳だったのでしょうか。思い続け過ぎて、幻聴でも聞こえたと?

 ヴィタは、目の前で狂ったように雑草を引きちぎっている妹を見て、激しい怒りがわきあがってくるのを感じました。


「神様なんて嘘っぱちだ! 俺達をこんなにして……天使が『いる』っていくら言っても、俺は認めない! 絶対認めないからな!!」


 子どものように地団駄じだんだを踏みながら、天に向かって吠えます。叫び終わったあとも、しばらく空を睨み付けていました。

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