朱莉

 息子二人は立派に成長して、都会に出て行った。義理父が脳鬱血で倒れ、それからは剛が一人で切り盛りしてたけど、最後はちゃんと店を畳んだ。年齢は五十五歳だった。

 店を畳んだ理由は、歳もあるけど、私にアルツハイマーの症状が現れていることが一番の原因だ。

 確かに、私は多くのことを忘れてしまった。いや、記憶の片隅には残っているような感じがするけど、それの取り出し方が分からなくなってしまった。

 昔のことはよく思い出せない。新しいことはそもそも認識できてない。見たはずなのに、見ていない。聞いたはずなのに聞いていない。

 剛が居ないと生活ができない。それが私に突きつけられていた事実だった。

 そのことを思うと、私の頭にはなぜかウツボカズラが思い浮かんでひどく嫌な感じがした。

 剛は辛抱強く私の面倒を見てくれた。けど、私は優しくされる度に、なぜだか頭の中にウツボカズラが浮かび、溶けていく昆虫のその様が浮かんだ。手離しで剛の愛情を受け入れられないことが残念だった。


 剛はある時ぱったりと倒れた。義理父と同じ脳鬱血だった。そのまま帰らぬ人となった。


 気がつくと、私は長男の家で暮らしていた。よくよく考えてみると、確かにそう決まった感じがした。


 葬式があったような気もした。写真を見せられた時にだけそのことを鮮明に思い出し、泣いた。


 私は長男に連れられて外に出ていた。景色は、どこかで見たことがあるような気がした。



 葉

 充に、田辺のことを話した。なぜなのだろう。もしかしたら、俺はまだこの時には凉夏と充が関係を元通りにしてくれると思っていたのかもしれない。

「田辺は、凉夏を殺せなかったって言ってた」

 なあ、充はどうして凉夏から逃げたんだ?

 充は相変わらずほとんど無表情だった。

「彼女は、植物のようにじっと誘うんだ。その子も僕と同じように誘われ、僕と同じように逃げたんだ」


 きっと、充も田辺と同じように、死にたい凉夏を殺してあげようとしたのだろう。けど、殺すことなんてできなかった。当然だろう。充がそんなことをできる筈がない。

 俺は凉夏がひどく憎く思えてきた。充がかわいそうだった。全てを壊したくなった。けど、俺は翌日も凉夏を監視したのだ。それからは、林が辞めたせいで俺の休みもまたなくなり、充と会う機会もほとんどなくなった。

 凉夏の家に、今度は女子高生が誘われた。充が言ってた通り、植物のようにじっと待って獲物を待つ。それは俺に食虫植物を想像させた。

 白い布を庭一杯に広げるその姿が、まるで違って見えた。その純白は嘘の色だ。じっとそこで美しさを保ち、餌が迷い込むのを待ち続けている。そして、私を殺してと誘うのだろう。

 その女子高生も案の定、その誘惑に負けてしまった。

 俺は、田辺の時の教訓を生かして女子高生をなんとか引き離そうとしたけど、結局ギリギリのところまで話は進んでしまった。

 しかし、凉夏に殺してと頼まれた三人目のあの娘はなんとか逃げ出した。


 長い時が流れた。充と俺と凉夏は同じ日々を、同じように過ごした。

 ある日、凉夏が庭で転んで立ち上がらなくなった。俺は間髪入れずに駆け出し、凉夏を助けた。

 腕の中の彼女は、無垢な少女のようだった。

 テンプテーション。



 凉夏

 充さんが居なくなった後、私はやっと私自身が壊れていることに気がつきました。それは、とある高校生を自殺に追い込んだ時にです。

 衝撃でした。田辺くんが自殺したと聞いた時に恍惚としてしまったからです。

 田辺くんの人生を全て手に入れたような感じがしました。私を好きで好きで仕方がなかった彼に、殺してとお願いして、彼はそれを出来なかったのです。だから、嘘つきと罵りました。しかし、それで死んでしまうとは思いませんでしたが、思えば彼はまだ未熟な高校生。私も妊娠した時に充さんに同じことを言われれば自殺していたのかもしれません。

 女子高生が私の家にやってきた時には、幻覚に近い症状が現れていました。深夜、充さんが帰ってきたような感じがしたのです。

 そして、私はナイフを持って充さんの元に向かいました。昆虫を飼っているあの部屋に。

 その時の私は、充さんに殺してもらいたかったのかもしれません。


 ずっと充さんは帰ってきませんでした。ただ、あの人だけです。充さんの差し金らしき人だけが私と外の世界を繋いでいます。

 だんだん、私は年老いて来るのが分かってきました。目尻のあたりにシワが出来たりしました。しかし、いつか帰ってくる充さんのために、私はマッサージや化粧水を欠かしません。

 庭でいつものように、充さんが帰ってきた時のためのシーツを干していると、足を挫いてしまいました。そのまま転び、私は差し金に介抱されたのです。


 車椅子の生活が始まりました。差し金の男、五十嵐葉は私の家で私の介護をしました。

 お互いが嘘をついています。葉は私をうまく騙したと思っていますし、私は騙されたフリをしています。

 最初の頃は、もしかしたら葉は充と全く関係がない人なのかもしれないと思いました。しかし、だんだんと分かってきました。やはり、彼は充の差し金なのだと。

 彼は遠回しに充のことを聞こうとしましたし、昆虫の部屋に籠ることもありましたし、やけに私に対して警戒心もありましたし、なにより、あの英雄ボロネーズをよく好んで聴いていましたし。

 私たちは心を開くことなく、暮らしました。


 それからすぐに、充が死んだと報告がありました。自殺でした。充は死後の準備をしてから死に至ったようです。葬儀はどこかで簡単に済まされたようでした。

 葉は泣きました。そして、全てを話したのです。その時、私は生まれて一番の喜びを得ました。


 充は本当のことを話すことなく死んでいったのでした。葉は、充が自らのサディズムによって、私を殺そうとした事実を知らないのでした。彼の中で、充は私の自傷癖に悩まされた不運な男だったのです。

 充は、私とのことを誰にも話せず、そうしてきっと、私が車椅子の生活になった時点で私に対する罪の意識が限界を迎えて死に至ったのでしょう。彼には夜行性の残虐嗜好が住んでいたのです。充さんが生涯で私にしか見せなかったサディスティックな姿。昼間の充さんはその罪悪感に耐えられなかったのです。

 充は私のために死にました。私が彼を食べ尽くしたのです。そして、私に生きる意味はなくなりました。

 カーニバルス。

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