テンプテーション・カーニバル
鳥居ぴぴき
テンプテーション
1
何かに似ている。そうだ。サナギから出てきたばかりの蝶が羽を乾かしているあの姿だ。
その家は平屋で、青色の屋根が綺麗で、庭は芝生がきれいに揃っていて、風が吹くと小さな風見鶏が揺れる。
その庭で、あのお姉さんはいつも大きな白い布を干している。布は空気をいっぱいに含んで膨らむ。風が止むと、萎んでしまう。
お姉さんは、ブラウンのメッシュが入った肩まであるロングの髪をかき上げてから、その布を背に椅子に座る。机に向かって。
そこには必ず、果物とペットボトルが置いてあって、多分、フルーツジュースを作って飲んでいた。
ここからだと微かにしか聞こえないけど、有名なクラシックが流れている。
——これは、私が見つけた憧れのワンシーン。
学校の帰り道、坂を登ると右手側にあるのが青い屋根の家。
あのお姉さんの姿を見ているのは、多分私だけだと思う。
早退を繰り返してる私くらいしか、平日の昼間にこの道を通らないから。
私はその日、学校を辞めることに決めた。とても暑い日だった。
たった半年の高校生活。親からは「本人の意思を尊重する」というありがたい言葉を頂戴して、それ以上の干渉はしてこなかった。
わかってたけどね。やっぱり聞く意味なんてなかったじゃん。
先生に辞めると伝えると、当然止められた。「高校くらい卒業しとかないと」って散々と。
めんどくさい。その先の話は知っている。どうせ想像の範囲内の、聞いたことがある話をされる。だから、後日親を交えてと言って部屋を出た。
学校を辞めると決めた。大きな決断だと思うけど、明確な理由があるわけじゃなかった。
壮絶ないじめが起きるほどちゃんと通ってないし。
お金を払って学校に通うよりも、その時間を稼ぐことに使った方がましだと思った。
決して楽な選択じゃないと分かりながらも、私は退学を選んだ。
だけど、私は甘い。なんせ、気持ちがウキウキしている。無限の選択肢があるような気になってる。
浮かれ気分の私は、選んだ道の先に、あの憧れのワンシーンがあるように思ってしまった。
帰り道、スーパーで果物を選んだ。マスカット。どれくらい使うのか分からなくて、とりあえず二つ。
店員が制服姿の私をみてから、あたりを見渡している。
まだ学校がある時間だし、私を疑っているんだろう。面倒なことになる前に買い物を済ました。
道を戻り、坂道にやってきた。
私は一体何を考えてるんだろう。あのお姉さんに何を期待してるんだろう。
インターホンを押す勇気はない。そう思いながら、いつも見ているより体を出して、青い屋根の家を見た。
声をかけてもらえるなんて思ってない。けど、もし、そんなことがあったら。
マスカットを買ったのだって、そういうことじゃん。もし、お邪魔できるのなら、これくらいのお土産がないとって。
いつものように家を眺めるけど、出てこない。考えてみれば、いつもより二時間も来るのが早かった。
あと二時間待つことを考えると、急に緊張してくる。ていうか、私めちゃくちゃやばいやつじゃない?
ストーカーの始まりじゃん。やば。
虚しくなってきた私はマスカットを一つ口に含む。皮の渋みが出尽くすまで噛んだ。浮かれてた自分を思い出す。最後に残るのは、こんな渋い気持ちか。
やっぱり帰ろうと向きを変えた。
その先に、いた。
涼しそうだなと思った。私にだけ火の精霊が意地悪をしているんだと思った。
涼しい顔をして、涼しい服装をしている。真っ白いワンピースはドレスみたいだ。
同じく真っ白な日傘は、誰に気を使うこともせず、力の限り太陽の光を反射している。
髪の毛は後ろで団子にしてある。前髪は長めで空気のように軽い。
お姉さんの動作一つ一つに神話的な意味合いがあるように感じた。
この瞬間は、私の憧れのワンシーンだ。
「ふふ。どうしたのかしら。お嬢さん」
声が聞こえた。どこからだろうと周りを見てみるけど、当然、目の前のあの方の場所から出ていると決まりきっていて、ただその声の美しさに、私と同じ人間から出てるとは気が付かなかったわけで。
てか、そもそもあの方と私が同じ人間と思うことすらおこがましいか。
「は、はひ」
「あ、やっぱ可愛い声してる」
え、今やっぱって言った?
私がおろおろとしていると、お姉さんがどんどん近づいてくる。お顔の質感がどんどん鮮明になってきて、私は少し下を向いてしまう。
だけど、この瞬間を見逃すのはあまりにももったいなくて、目だけはしっかりをお姉さんを見続けた。
お姉さんは、自分が持ってるリズムを崩さず歩いてくる。
私はアリス症候群になってしまった気がした。どれくらいの距離があるのか、遠近感の消失している。透明感。空気遠近法?
うっすらと顔に汗をかいてるのが見えるくらいの距離まで来て、もう耐えられなくなった。
「ごめんなさい! いつもここから勝手に見てました」
お姉さんは一瞬目を開いた。けどすぐに元どおり。
「ふふ。私も見てたよ」
今度は私が目を見開いてしまう。
「え、え! どこから?」
「ウチからに決まってるでしょ。深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。って」
「どういう意味ですか?」
「見てると思ったら見られてるってこと」
「っはい」
声が裏返ってしまう。いつの間にかお姉さんの顔を真っ正面に見ていた。きれいだ。だけど、こんなに見ていても物足りない。
見てるのにもっと見ていたい。自分の強欲さに呆れた。
沈黙になっていた。そのことに気がついていた。お姉さんはその沈黙を楽しんでいるのか、ニコニコと笑っている。
そして急に目を細めて、少し私に顔を近づけて、考えてることを全て読み取られるんじゃないかと焦る。
「あなた、私の家に来たいんでしょ」
「わっ、心が読めるんですか?」
「んなわけないでしょ。鎌をかけたの。じゃ、おいで」
坂道をリズムを崩さずに降っていく。後ろ姿を見た。やっぱスタイルいいな。
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