スーパーヒーローシンドローム
湯屋街 茶漬
第1話 発症
世界を救わなければいけないことに気付いた。
気付いた?
気付いた。
「何だ
黒板に向かって光源氏が誰と仲良くしただのという話をやたら難しい言葉で説明していたおっさんが、面倒くさそうに音を発していた。
彼の言うことが全面的に正しい。
古典の授業中は古典の勉強をしなければならないのだ。
すみませんとか何とか、ぼそぼそと謝りながら座っておくことにする。
周囲からはクスクスと、何やら季節の虫の鳴き声が響いてくる。
何とも自然とは素晴らしいものであるが、僕は虫があまり好きではなかった。
「何やってんの、物部~?」
というのはこの
からかいを孕んだ彼女の声色は耳をくすぐり脳を震わすわけであるが、その振動エネルギーを表情筋などに出力することは僕の社会的信用のためにも絶対にできない。
免振ゴムの重要性がわかる。古典の授業さまさまだ。
「なんでもねぇよ。伸びだ伸び」
「相変わらずだな物部は」
免振ゴムの重要性がわかる。適当に脳内で光源氏を拝んでおく。
柔らかい笑い声に引っ張りまわされてしまう自分の意識には腹が立たないでもないが、さっきの一瞬に僕は何を考えていたんだったかだとか、板書はどこまで写していたかだとか、そんなものはすっかりどうでもよくなってしまった。
こういう時間は嫌いではない。大自然に囲まれながら、隣には正体不明の幸福ホルモン源が怪電波を振りまいているのだ。
セロトニンだかテストステロンだかが湧き出るばかりである。
オキシトシンであると信じたい。
湧き出る泉の女神の力を得た僕の指はペンを伴い、わずかに遅れた板書を漏らさないようにノートを走りまわった。
たまに定規に乗り換え、ノートの区画分けを行うことも欠かさない。
板書の写しや本文からの引用は大きい区画に誘導し、おっさんが零した豆知識や定期テストのヒントらしき者共は小さい区画に追い込む。
こうすることで、必要事項と特記事項やトリビアとを有機的に絡めつつ整理できる。今は亡き父から受け継いだ、秘伝の筆記法である。
何年も板書を飼いならしてきた僕の両手の仕事ぶりには感嘆するしかない。
あとは文字の乳を搾って木の器に出し、黒パンと一緒にヨロレイヒーとやれば最高のアルプス人生である。
文字の乳とは何だ。
教室のドアが開いた。
教室の、黒板側のドアである。僕の席からは少し距離があるが、位置が良いのでドアの向こうは十分に見渡せる。
ドアを開いたのは副担任という生物のようだった。平時は職員室に生息し、担任の休暇と修学旅行と卒業アルバムでのみその姿を見せると専らの噂である。
珍獣フクタンニンは授業を中断させた事に対する謝罪もそこそこに教室に入ってくると、黒板前の初老男性に何やら深刻そうな顔で耳打ちし、また急いで教室を出て走っていった。
電気通信が無かった時代の情報伝達速度を肌で感じる日が来るとは思わなかった。歴史の授業はこういうところで役に立つのだ。
古典教諭がこちらを向き、江戸時代と同じスピードで連絡事項を話し始めた。
「内務省から通達があったそうです。本校生徒の中に
途端に教室がざわめきだした。
気持ちはわかる。悪人因子を持つ人間は学校に通うことはできないはずである。
いつ変異して暴走するかわからない。その高い運動能力と頑丈な身体を違法行為に使うと言われ、発見次第隔離することが法律で決まっているとかなんとか。
抵抗する場合はヒーローによる『退治』も起こりうる。
それが学生に紛れているというのだ。
紛れている事、身近に存在する事それ自体が危険というのは勿論あるが、このどよめき具合はおそらく別の理由だろう。
わざわざ戸籍を偽造し、県内でも難易度の高い入学試験をクリアして学生になるその行為には何らかの強い意志があることは想像に
目的不明、かつ明確な意思を持つ犯罪者が身近にいることに皆思い至り、それぞれがそれぞれの仕草で不安を表明していた。
教室のざわめきの分だけ微かに間をおいて、我らが担任が続けた。
「ただいま県のヒーローが急いで駆けつけてくださっていますので、全校生徒は席から動かず待機してください」
隣の教室が爆発した。
厳密には、爆発したようであった。
轟音と振動から僅かに遅れて、教室の窓から、隣の教室の窓から吹き出る煙と飛び散るガラスを目視したのだ。
『・・・・・・・こちらは職員室です。原因不明の爆発音を確認しました。全生徒は訓練通り、速やかに避難を開始してください。これは訓練ではありません。繰り返します。・・・・・・・・』
電気通信の重要性がわかる。古典の授業さまさまである。
あとは光源氏の休日の趣味さえわかれば古典の授業として完璧なのだが、僕は多くは求めない主義であった。
月に一回の避難訓練の賜物か、どこからともなく発生した人間の波に自分もその身を任せる。これがいわゆる渓流下りである。
大自然とは凄まじいもので、県内でそこそこに高学力の人間を集めた学校の廊下で濁流が発生しても、約1000足の学校指定サンダルが床と擦れる音しか鳴らないものらしい。
火事の煙は廊下の天井から順に充満していくそうだが、ドロドロとした摩擦音は腰から下で滞留している。妙に耳が暇をしていた。
だからこそだろう、僕の耳はわずかな違和感を的確に発見してしまった。
美作の足音が無い。
美作の足音、つまり一足の学校指定サンダルが床面に弾かれる、心地良くリズミカルな無音が、廊下のどこを探しても聞こえてこないのだ。
彼女とは隣の席同士、日頃の避難訓練でもお互いの隣を歩いていた。
運動場に辿り着くまでの数分の間、彼女と他愛の無い会話を楽しんだものである。
その素晴らしい旅路のお供に楽しんでいた無音が無い。
教室を出るまではいつものように隣り合っていたはずであった。
「おい物部ェ! どこ行く!」
「忘れ物です」
僕は川の流れに逆らって歩き出した。担任に丁寧な返事を返すことも忘れない。
わからない。
何かわからないが歩かなければいけない。
世界を救わなければいけない。
意味が分からない。
正体不明の衝動に突き動かされている。
気付かぬ間に走り出していた。
「・・・・いない」
教室にはすぐについた。
だがやはり彼女はいない。
僕の教室は最上階北側の一番端にある。
教室と、廊下端の非常階段との間には先ほど爆発があった無人の教室を挟むのみで、隠れる場所はない。
ここから階段までは一本道だし、もしそこで流れから抜け出したなら、校舎南側のもう一つの階段からしか階を移動できないはずだ。
各階とも教室の配置は同様で、人の流れは校舎の北側に集中している。
彼女が意図的に独りになったとするなら、彼女が南側のどこかの階にいると考えられるのではないだろうか。
では何故突然独りになった?
あまりにも前触れがない。
いや、前触れのようなものはあり過ぎるくらいあった。
短時間に立て続けに起こった異常な物事は確かにあったのだ。
だが彼女とそれらが繋がらない。
四階、三階と南側階段を下り、そのたびに廊下を見渡す。
南側廊下に面している教室は特殊教室ばかりなので、基本的にすべて施錠されていると思われる。いるとすれば廊下だ。
「どこだ美作・・・」
古典の授業中に起こった物事と彼女が繋がらない。正確には繋がってほしくない。
そこが繋がってしまうのは困るのだ。
世界を救わなければいけない。
さっきからこの謎の衝動は何だ。
世界なんてどうでもいい。
僕は今すぐ、美作と話がしたい。
爆発のタイミングが良すぎただとか、担任は相変わらず黒板の方しか見ないだとか、そういう別段意味のない話題で笑いあいたいのだ。
二階から一階に降りる階段に差し掛かったあたりで、下から何か話し声が聞こえてきた。
ヒーローだ。と確信した。
僕はその場で体勢を低くし、足音を立てないようにゆっくりと階段を降り始めた。
下からの会話に耳を澄ます。
「今すぐに投降しろ。 負傷者が出ていない今のうちなら、拘束のみで済むぞ」
この声は地元放送局のテレビ番組で聞いたことがある。
県直属のヒーローは既に到着していたのか。
「早すぎる…」
教室に副担任が来たのがほんの5分前かそこらである。
消防車でも通報から15分はかかるのだ。
学校に通達があった時点で既にヒーローは動き出していたか、
「もしくは…、」
ヒーローは既に学校に到着していた可能性もある。憶測の域を出ないが。
だがなんの為に?
学生として潜伏しているという
それとも何か別の目的で学校に来ていてこの騒動に巻き込まれたのか?
それだと内務省からの通達内容に矛盾が生じる。まさか内務省が動きを把握していないヒーローがいるわけもあるまい。
「何か言ったらどうだ! 身分詐称なんて狡いマネする
既に変身しているらしい悪人の声は未だ聞こえてこない。
ヒーローも対応に困っているのだろう、声を荒げて相手を煽るような話し方になっていた。
その時だ。
「それ以上近づくな。私はこの場から逃げたいだけだ。誰にも危害は加えていないし加えない」
時が止まった。
いや、止まったのは僕だけだが。
ヒーローと対峙している悪人が発したのであろうその声は、僕にとってはあまりにも聞き馴染みがありすぎた。
教室で、廊下で、運動場で、体育館で、幾度となく僕の耳をくすぐり脳を震わせたあの声だ。
彼女が僕をからかったり、僕と笑ったりする時に、惜しげもなくその口から漏らしたあの声だ。
「私を見逃せ、ヒーロー。私は誰にも危害を加えるつもりはない」
「見逃してどうなる? また懲りずに学校に潜り込むのか、第5地区にでも逃げ込むのか知らんが、どちらにせよ俺や一般市民になんの特も無いな」
ヒーローは取り合わない。
確かにそうだ、言い分は理解できる。
身分詐称は勿論、学校施設への不法侵入はかなりの重罪だったはずだ。既に今の時点で、悪人としての推定危険度がかなりの評価値になっているのは想像に難くない。
「お前も知っているだろう。我々ヒーローは内務省の命によってヒーロー活動をする限り、各自の判断で悪人を処刑する事が許可されているんだぞ。 大人しく投降しろ」
僕も知っている。というか、公民の教科書で言及されていないだけで日本国民の誰もが薄々知っている。
たまにテレビやネットで放送されるヒーロー活動は、必ずヒーローが悪人を追い詰めた所で画面が切り替わる。
その後のニュースでは、悪人は逮捕でも射殺でもなく『退治』されたと伝えられる。
「死にたくなければ今のうちに投降しろ! 更生施設送りにしてやる!」
同じ声の主が、昨日のローカル番組で司会にいじられて爽やかに照れていた顔を思い出した。
線の細いシルエットと中性的な童顔で女性人気が高いのだとか。昨日の番組も、お昼の主婦向け情報バラエティーだったはずだ。
わかっていたはずだが、こうして実際に現場を見るとどうにも印象が変わってしまう。
(・・・考えてみれば当たり前の話なのにな)
僕はようやっと階段の踊り場まで降りてきた。
階段の手摺は柵タイプではなくコンクリートの壁タイプなので身を隠す事ができる。音さえ立てなければ気取られる事はないと高を括ってみることにする。
ふう。と、僕は息を静かに吐きながら、手摺の壁に寄りかかって座った。
さて、ここからどうするか。
何も考えていなかった。
まずは下の状況をより正確に把握せねば。
世界を救わねば。
別に何の経験もないのだが、身を屈めて、さながらスパイ物のアクション映画のように一階の階段前に視線をやった。
今しがた印象的に印象が変わったヒーローは階段前に陣取って、廊下の端の方に向かって色々叫んでいる。その方向にはトイレと壁くらいしかない。
悪人はトイレ前に陣取っているらしい。
・・・・何故そんな逃げ場の無い所に?
追い詰められたのか。
「それ以上近づくな! トイレに人質がいるぞ」
人質をとっていた。
何をしているんだお前は。
重めの罪を重ねるんじゃない。
「…二人いる。爆弾と一緒にな。それ以上近づけば二人共死ぬことになるぞ」
「「………」」
無茶苦茶だ。
誰にも危害を加えないんじゃなかったのか。
ヒーローも少し反応を迷ったらしく、僅かな沈黙が空間を満たす。
「…はははっ! 学生二人の拉致・監禁の上にヒーローを恐喝で公務執行妨害か! もう明日以降生きられるかわからんぞ」
「動くな。 殺したくない」
「誰をだ、人質をか? お前が巻き込んでおいて被害者ヅラしやがって。これだから犯罪体質者は嫌いだよ」
犯罪体質者。
少し上の世代がよく使う差別語だ。
テレビ局が放送禁止用語として指定してからはあまり聞かなくなった。
今まで何も思わなかったのに、なんて重く鋭い言葉の刃だろう。
何故迷いなくそんな言葉を人に向けられる。
何様なんだ。
ヒーロー様か。
「やっぱりお前はここで『退治』する。危険度はどうせA級だよ」
「止まれ。学生が死ぬぞ」
駄目だ、止まらない。
彼女は空気の掴み合いに敗れたのだ。
ヒーローが前に一歩踏み出した。
廊下の奥から一歩下がる音がした。
そこで距離を取るのは悪手だ。
人質爆殺がハッタリだと宣言しているようなものだ。
(どうした美作)
いつもの彼女らしくない。
もう完全にヒーローの空気に飲まれている。
冷静に、論理的に、僕の言葉の隙を見つけては揚げ足を取り、会話の主導権を自由自在に操る。そんな奴だった筈だ。
よほど焦っているのか。
僕はもう一度、手摺の壁に隠れながら凭れた。
さてどうしようか。
このままでは駄目だ。戦闘が始まってしまう。
彼女は強いのだろうか。強ければそれはよいことなのだろうか。
美作と話したい一心でここまで来てしまったが、果たしてその目標は達成できるのだろうか。
(彼女が話してくれるなら、の話だが)
ここまで来れば、あの空き教室の爆発も彼女がやったのだろう。
正体がバレた時、またはバレそうになった時にはすぐに逃げれるよう、ずっと準備していたのだ。
彼女はもう、学校に戻るつもりが無いのかもしれない。
通報や現行犯逮捕のリスクを背負ってまで僕と話してくれるのか、彼女が。
一般人の僕と、悪人の彼女が。
いや、
(ここで話せなければ、もう一生会うことも無いかもしれないのか)
そうだ。
話せるか話せるか以前の問題なのだ。
ここで彼女が逃げても捕まっても、いずれにせよ僕にはもう彼女と話す機会は訪れない。
ならば、来てしまったのなら、もうやり切った方が良い。
彼女を何とかして助けよう。
この状況を打開しよう。
そして彼女と話をしよう。
そう決めたら、頭の中の靄がスーッと晴れていく気がした。
「来るな」
美作の拒絶の声が聞える。
一歩。ヒーローが近づく音が聞える。
「止まれ」
二歩。
「来るなって言ってるだろ!!」
彼女の声が、叫びに変わった。
僕にはそれが助けを求める声に聞こえた。
僕は飛び出した。
踊り場に身を晒した。
「お疲れ様です!!!!!」
頭が真っ白になって、何やら叫んだ気がした。
そして僕は、
スーパーヒーローに変身した。
変身した??
変身した。
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