逃げたい作家と、拗ねた少女は島の夜にて笑う
つづり
第1話 ああ、許してくれ、探さないでくれ
ぷつんと、糸の切れる音がした。心の糸が切れるときは、本当にプツンという音がするのだと、ゾッとした。それまでパソコンに向かって執筆作業に勤しんだり、メールに返信をしたり、いつも通りの日常生活だった。しかしプツンと心の糸が切れたら、もうだめだった。
いつも通りの生活は全て崩れ去っていた。
郵便物を取りにいくのも面倒くさい、外にも出たくない、食事のことなんて考えたくない、シャワーを浴びることも義務に感じる。心の悲鳴は体の行動に直結する。まともに生きるのが嫌になる。私はどうやって、いままで生活してきたのだというのだろう。
作家、村田朔太郎の危機は、サイレントキラーのようにやって来た。
電話の音が鳴った。あ、って声が出て恐ろしい気持ちになる、急に連絡を取れなくなったことに心配した編集の館林かもしれないと思うと、申し訳無さで布団をかぶってしまう。
「企画書が通りましたので、月の下のカフェ道楽の続編をすすめましょう……村田先生の癒し系のお話は本当に評判が良くて……SNSでも、高評価のようですよ」
朗らかに褒める館林の姿を思い浮かべるだけで、うっと喉の奥が詰まる。自分でも悪いところだと思う、商業作家が自作品に嫌悪感を持ちすぎてはいけないと。たとえ思ってないことを書いていたとしても、それが売れれば正義なのだ。実際、自分の作品は大ヒットとまではいかないが、安定した部数を稼いでいる。ホームラン作家ではないが、安打は打ち続けられる作家。
生活だってお陰で苦しくない……だが、私はいつまでも嘘に慣れられない。最高の嘘で、人を楽しませることこそが、大事なのだ。しかし……自分でも呆れ果てるほど、私はとても考え込んでしまう性格だった。
自分に嘘を付きたくないと思う。物語は自分の中から、様々な要素を加えられて、生み出されたものだ。全てが嘘でも、欠片でも本当が入っていると、思う。特にテーマに関しては。欲望であれ、思想であれ、打算であれ、己の心が一分でも混じっている。だが私の書くものはなんだ、苦しむ人々が奇跡のような優しさや施しで救われるものばかりだ、それが私の理想……ということになる。
だが私は知っている、奇跡なんぞ起きないから奇跡なんだ。物語で奇跡に出会ったとして、現実は地獄であることは変わらない。地獄が終わらないという虚しさと、物語を起因とした、現実的根拠のない希望は、最終的に心を恐ろしく冷え冷えさせる。虚構だから許されるかもしれない。しかし私は、希望に見せかけたようなものを、読者に読ませていると感じ続けた、それがずっと苦痛だった。
「ああ……ここにいたら、いつか、館林さんが押しかけてくるかもしれない」
ただでさえ心配性な彼女のことだ。連絡をまめに返している自分が、返信に十二時間以上かけていることに違和感を覚えていてもおかしくない。そして作家は色んな意味でウィークポイントが多い。何か起きたと考えてもおかしくなかった。
スマホからは宣伝の通知が届いたり、外からは子供の騒がしい声が聞こえる。夏休みの時期に入り、人々がせわしなく動き出す。
窓の締め切った部屋で、クーラーをつけっぱなし。布団から出るのは、必要最低のことだけ。社会から隔絶しようとしている、しかし音が、私と社会をつなげようとする。お前はどうしたって、逃げられないさ……知り合いだってその気になれば、お前の部屋をドンドンと叩いて、入り込むことだってできる……。
ぷつん、ぷつん……私は思わず、髪の毛を二本、三本抜いていた。わずかな痛みが現実に引き戻す。
私のことを放っておいてくれ……。
住んでいる場所が悪いのだろうか、そんな願いも叶えられないような気がした。情報が縦横無尽に踊り倒していると思うくらい、ここはうるさい。
「知ってます? 村田先生、今田舎の島に行くツアーがあって、そこ観光地とかじゃなんですよ。泊まる施設しかなくて、なんていうか、ボーとする場所をもとめた人たちが集まっていくところっていうか、なんかすごいですよね」
館林が世間話の一つで言ったことが急に頭の中によぎった。特段人の話を全て覚えている……というわけでもないが、そんな余暇の過ごし方もあるかと、なんとなく記憶していた。
そうだ、現実が辛いのならば……一度離れてみるのもいいのでは。
それは人によって「逃げる」ことだと分かっていた。そして逃げることを、私は極力避けていた。安直に逃げれば、戻ってこれなくなることを、身にしみるほど分かっていた。だがどうやら、私は想像以上に参っていたらしい、逃げるという選択だと思っていても、その誘惑が心をつかんではなさない。
私は電池の切れかけたスマホを充電器に接続する。充電し始めたスマホを確認すると、館林が言っていた、ツアーを調べ始めた。
もし、許されるのならば……今日の夜にでも、私は逃げたかった。ああ、館林さん、許してくれ、そして探さないでくれ。
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