第3話
かつて列車が通っていたという名残はほとんどが自然に飲み込まれ、一つの生態系と調和していた。地面に埋もれ、時折地表に顔を出した軌道もさび付き、枕木は完全に腐っていた。そんな線路を追っている内、最早人が残した痕跡などすべて無に帰しているのではないかと英二は思った。
時の隔たりは人の存在を消し去り、跡形もなく消し去ってしまっているのではないか。そんな不安と絶望は山奥へ進み、文明の息吹が消えかかっているのを見るにつけ、増々増大してくるようであった。
しかし、英二たちの眼前に、突如として現れたトンネルはここに人の往来があったことを証明してくれた。
尾根をくり貫いたと思わしきトンネルは見た目以上に長く、露出した天然の岩肌には蔦や苔がこびりつき、土と煤のにおいを蓄えた空気が洞内に滞留していた。
トンネルを抜けると、それまで植物の密集で圧迫されていた空間が突然開けた。木々は消え、整地された地面や切り株には意図的に人の手が入った跡があった。それは山と生活とを分ける物理的境界だった。
左手になだらかな丘陵を見て少しの勾配がある。丘陵には区分けするように石垣が積まれてあった。一面を低草木が覆っていたが、それは棚田の跡で間違いない。
線路は棚田を左手に斜面を登り、平坦になった場所でもう一本の線路と交差していた。
交差点には切り替えの分岐器があり、詰め所らしき小屋も見えた。
「ジャンクションだよ」
芳郎が久方ぶりに声を上げた。
「ここから伸びる登坂を昇った先が村だ。勾配の負荷を避けるためにここで、いったんスピードを落とし、方向転換をするんだよ」
英二は返答する。
「これはスイッチバックと呼ばれるものだ。君の言うジャンクションは一つの車線に別の車両が入ってくる、いわば合流点を指す言葉だ」
英二はそう返しながら、当時ここ昇り降りしていたであろう蒸気機関車の姿を思い浮かべた。
そのまま村まで行ってもよかったが、しばし休息し、数枚の写真を撮っている間に雨が降り始めた。雨は小粒であったかと思うと、ザァッという滝に変わり、2人は慌ててトンネルまで後退した。
入口まで吹き込んでくる雨を避け、二人はトンネルの中ほどで野営の設備を整えることになった。
芳郎は始終無言で、食事を終えると雨の降りしきる森をずっと見つめていた。
目を覚ました時、その眠りを妨げた原因がなんであったのか、英二には分からなかった。
寝返りを打ち、前を見据えると、遠くの方にぼんやりとした黄色い光が見えた。光は次第に輪郭を作り、音を伴った。
轟音と共に煙たい突風が吹き抜け、意識が覚醒する。
蒸気機関車がこちらへ向かってきている。それが脳の中で明文化されると、英二は飛び上がった。 取るものも取らず、傍で寝てあった芳郎を叩き起こし、彼は走った。
息切れと全身を包む疲労が、恐怖や切迫より先にやってきた。軌道に敷かれた枕木と砂利が足を竦ませようと絡みついてくる。
やっと外へ飛び出ると、束の間朝日の明るさに目がくらんだ。辺りを包んだ朝霧の向こうに紫色の空が広がっている。幻想的な夜明けであった。
英二は線路の脇へ倒れ、えづきながら呼吸する。
「な、なんなんだ、一体……」
怒りの含まれた言葉に英二は急いで振り返る。視線は芳郎ではなく、トンネルを見ていた。
「いや、汽車が、汽車がトンネルを………」
そういって指差したものの、トンネルからは列車はおろか、ネズミ一匹出てくる気配がなかった。
トンネルの中を覗き込んでも、汽車が吐き出した排煙もなく、野営もそのままになっていた。
「寝ぼけて、見間違えたんだろう……」
芳郎は怒りを押し殺した声で、ただそう呟いた。
つづく
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