第一章:この太陽と共に①

 懐かしいにおいがした。


 故郷を思い出させる草むらの香りを微かに感じて、私は目を覚ました。


 私の銀色に滲む瞳をゆっくりと開き、そのあと身を起こした。


 冷たい夜風を肌に感じて、私はようやく今が夜中であることを把握した。


ここがどこかを知る手掛かりは無かったが、周囲の風景を写実的に説明することはできた。私のいる狭い草むらの周りを低木が囲んでいて、向こう側には広場と人工の樹林が見える。その先に見えるのはおそらくなんらかの建造物で、ここからでもその高さがよく分かる。


 私は“王徒軍魔術大隊長”としての、そして“王宮魔術師”の証である大きな帽子を被りなおして、かつての世界で愛用していたバッグを開いた。中にあるのは、約2万円が入った皮の財布と、救急用の経口補水銀。あとは目を隠すための眼帯。それ以外はおそらく…。


 大事なものがないことに気づいた。私の能力の制御装置である“魔術型戦闘杖”がない。あれは大隊長着任時に王宮から送られてきたオーダーメイドの戦闘杖で、私の水銀魔術を最高出力で扱うためのアイテムだ。戦闘杖は基本的に物理攻撃に用いる体術型戦闘杖もある。それぞれ性質別にⅠ型からⅧ型まで存在し、数字が上がるほど一度で扱える魔力量が増える。私のはⅥ型で、魔術型ながら近接戦も想定したものだ。無論なくても水銀魔術自体を使うことはできるが、それ以外の基本的な魔術含めて、性能は大きく落ちることになる。


 今の状況を整理する。私の境遇的には、異世界への転生という事象に巻き込まれていることになる。かつて神話の中で転生の概念に出会ったが、基本的には「神が人の身となって現世に降りる」ことか「物質的もしくは意識的な万物の流転」を意味することが多かった。人が人の身で他世界へ移動するという前例は、いまだ見たことがない。


 とりあえず、ここから移動しなければ。学生時代に緊急時のサバイバル方法を学んだが、此度に限って言えば、まずは経済的な心配をしなければならない。


 私が所持しているお金も、この世界で通用しなければただの金属塊だ。


 私はしばらく歩いた。夜中だからか人も少ない。遠目に見ていると、私の今の恰好はかなり目立つ。とりあえず帽子は透過魔術で消しておこう。この服は大隊の制服だが、これだけならそこまで目立つこともないはずだ。


 そこで私はあるものを見つけた。赤色の直方体、大きさは成人男性と同じくらいだろうか。全面はガラス張りで内部から発光を確認できる。内部には円筒形の小型の物体が並んでいる。


 ガラス壁の下側には透明な開け口(?)があり、右側には……おそらく、形状的に硬貨を入れる場所がある。10、50、100、500の硬貨だろうか。下に1000と5000、10000と書かれているが、形状は円ではなく長方形だ。この世界では、ある一定以降の硬貨は長方形なのだろうか。


 とりあえず私は、持っていた10円玉を1枚入れた。するとなんということか、その箱型の機械は音を立ててそれを受け入れた。それ以外には特に何も起こらない。


 しかし、私の世界の硬貨が通用するとは…。ということは、この世界における現行の硬貨と、私の世界の硬貨は「まったく同じ」もしくは「この機械が硬貨を識別する条件を満たしている」ということだ。実際の店舗等で使えるかどうかは分からないが。


だんだんこの円筒に興味が湧いてきた。私はガラス張りの中に、値段と思わしき表示があることに気づいて、お金を追加した。


 言語は全く分からないので商品名も内容成分も分からないが、私はアレルギーはないし大丈夫だろう。


「おい、そこのお嬢ちゃん。いいお財布持ってんじゃん」


 私は身構えた。というより先に驚くべきは、彼が話す言葉を理解できているということだ。これに関しては以前のあの“謎の男”との会話でも同じ現象が起こったのでありえなくはないが、不思議ではある。


 それより、夜間に声をかけてくる人間にろくな人間はいない。財布を見ているということなのだから、なおさらだ。


「ねえ、いくら入ってるの?」


 いや待て。暗くてよく見えていなかったが、後ろに何人か構えている。


まずい。戦闘になるかもしれない。


 もともと使うつもりはなかったが…そもそも目的も理由もはっきりしないまま来てしまったのだ。


 緊急用の水銀を使えば楽だ。流体摩擦を使えば、並の人間程度簡単に振り切れる。


 接近戦になっても、ある程度は戦えるが勝つ自信はない。


 逃げるのが得策。




 私が目をそらさないように後ずさりを始めたその時だった。




「そこで何してるのよ」




 女の子の声だった。


 こんな時間に?私と同じくらいの子が?


 彼女は暗闇の中から姿を現すと、私の前に立っていた男の脇腹に飛び蹴りを喰らわせた。


「あんたもこんな時間になにしてんの?」


「あんたもって…」


 少女は身軽そうなシャツを着て、それをお腹の辺りまで捲り上げて縛っていた。野球帽を被り、眼は虎のように鋭く、漂う雰囲気は獅子のように圧倒的だった。


「帰りな。ここはあんたたちみたいな“集まり”が来ていい場所じゃない」


「誰だお前?お友達か?」


「そんなわけないでしょ。他人よ。ただあんたの顔がムカついたから」


 そう言い終わる前に、鉄拳が飛んできた。


 幾回りも小柄な少女に拳は叩きつけられようとしていた。


 だが少女はその小回りの利く体で拳を避け、代わりに相手の顎を突き上げた。


「初々しいのよ、あんたたちの戦い方。出直してきなさい」


「ガキが…何を言って…!」


 後ろに構えていた複数人が飛びかかってきた。


 まずい。さすがにあの人数を捌ききれるはずがない。誰だってそうだ。




 私は経口補水銀を取り出した。




「“軌道(オービタル)”」






 何が起こっているのだろう。


 迫りくる筋骨隆々の青年たちの攻撃を容易くかいくぐり、ついに反撃した。


 何が起こっているか分からない。背後からの攻撃さえ反応できている。


 全方向を同時に監視していても、あんな芸当はできないだろう。


 その瞬間、私は彼女が同じ能力者であることに、ようやく気付いた。


 私がはじめて遭遇した、この世界の能力者だった。




 私は唖然として、持っていた水銀の容器を地面に落とした。








 この出会いこそが、私の異世界の旅の真の始まりとなったのは、今更言うまでもない。


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