エピソード1

夏の繁華街。

賑やかな音と声。

鳴り止まないクラクション。

煌びやかに光り輝くネオン。

空の主役が、太陽から月に変わっても途切れることのない人の波。

仕事帰りの人、キャッチ、ホスト、学生、ガラの悪そうな人、外国人……。

目につくのは、楽しそうな笑顔ばかり……。

ゲームセンターの入り口にある数段の階段。

そこの隅が、私の唯一の居場所だ。

別に何かをする訳でも誰かを待っている訳でもない。

ただ、ここに座っているだけ。


私は、腕に付けている時計に目を落とす。

時計の針は20時過ぎを指している。

私は、顔に張り付いた髪を指でかきあげた。

バッグから、タバコの箱を取り出すと、1本咥えて火を点けた。

その小さな炎ですら、顔を燃やしてしまうほどに熱く感じる。

大きく息を吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出す。

口の中に冷たい感覚が広がっていく。


『何してんの?』

声がした方に視線を上げると、見たことのない男が横に立っていた。

……誰?

……あぁ、ナンパか……。

……ウザい。

シカトしよう。

私はひたすらシカトする事を決めた。

『ねぇ、ねぇ。1人?待ち合わせ?暇なら一緒に遊ぼうよ。』

男は何が楽しいのかハイテンションで話掛けてくる。

『ここに一人でいてもつまらないでしょ?』

……本当にウザい。

『いくつ?可愛いね。目とかすっげぇ大きいし。』

ナンパ男の口は、止まる事なく動き続けている。

ここにいれば、こんな事は日常茶飯事。

声を掛けられるのは別に珍しい事じゃない。

私は、男をシカトしつつ、行き交う人の波に視線を移した。


……あっ……あの人だ……。

いつも、この時間にここを通る人。

人混みの中にいてもいても目立つ高い身長。

アッシュブラウンのサラサラな髪。

綺麗に整った顔。

ファッション雑誌から飛び出してきたような服装。

今風の格好なのにどこか品がある。

さり気なく着けられているシルバーのアクセサリー。

そして、何よりも気になったのはその人の瞳だった。

長めの前髪の隙間から覗く力強くて自信に満ち溢れているように見える瞳。

……私とは、正反対の瞳……。

私は、その人を見掛ける度にいつもそう思っていた。


相変わらず、私の隣ではナンパ男がどうでもいい事をまくし立てている。

私は、小さく溜め息を吐きながら、人の波の中にいるその人を見つめていた。

前を向いていたその人がふと私の方に視線を向けた。

ぶつかるように視線が絡み合った。

その瞬間、私は身体が痺れたような感覚に包まれた。

ほんの数秒の出来事の筈なのに、長い時間のように感じる。

視線を逸らすことが出来ずに固まったままその人を見つめていると数人の若い男の子達がその人に近付いていくのが見えた。

お世辞にも真面目そうとは言えない男の子達。

夜の繁華街でよく目にする人種。

一言で表現するなら“ガラの悪そうな人達”。

あの人に男の子達が声を掛けた。

ガラの悪そうな男の子達は、その人に向かって頭を下げていた。

それはまるで目上の人に挨拶をしているようにも見えた。

……知り合いなんだ……。

私は、1人で納得した。


『それじゃあ、行こうか。』

すっかり存在を忘れていた、ナンパ男が突然、私の腕を掴んできた。

驚いた私は、慌てて視線を上げた。

ナンパ男は、ニヤニヤと厭らしく笑いながら、私を立たせようと掴んだ手に力を入れて引っ張ってくる。

「ちょっ……やだ……離して……」

『なんで?行こうよ、奢るからさ。』

男は、腕を放すどころか力を強くする。

「痛っ!!……放して!!」

ナンパ男の指が私の腕に深く食い込む。

私は痛みの所為で顔を上げる事が出来なかった。


「おい」

ナンパ男の後ろから低い声がした。

その瞬間、腕を掴む力が弱くなった。

その隙に私は腕に絡みつく指を振り払った。

『あ?』

腕を掴んでいたナンパ男は、邪魔をされた事に怒りを浮かべた表情で後ろを振り返った。

咄嗟に私は、声がした方に視線を向けた。

……そして、固まった。

そこにいたのは、さっきまで人の波の中にいて、私が眺めていた人だった。


……このままじゃ、この人に迷惑が掛かってしまう。

そう思った私は、慌てて立ち上がった。

ナンパ男を止めないと!!

私は立ち上がり、ナンパ男の腕に手を伸ばそうとした瞬間……。

『れ……蓮さん……お……お疲れ様です……。』

ナンパ男が一歩後ろに下がった。

……えっ?

さっきまで、怒りの表情を浮かべていたはずのナンパ男が真っ青になっている。

……?

……状況が掴めない……。

私はその場で呆然と2人を見つめていた。

「何してんだ?いやがってんだろーが」

低く威圧的な声と鋭く冷たい視線。

『い……いや……あの……すみません!!』

「早く行け」

『……あっ……はい。失礼します!』

ナンパ男は、その人に向かって深々と頭を下げると慌てた様子で走り出した。

私は、人の波に身を隠すかのように走り去って行くナンパ男の背中を唖然と見つめていた。


……だけど……。

すぐに、腕に走る痛みに我に返った。

掴まれていた手首には指の跡が赤く残っていた。

手で触れると微かに熱を持っている。

「大丈夫か?」

“蓮さん”と呼ばれていた人が、私の顔を覗き込んだ。

「……はい」

腕を押さえたまま私は答えた。

蓮さんは、腕を押さえている私の手を大きなその手で包み込み、ゆっくりと熱を持っている手首から離した。

私の手首を見た蓮さんは、眉間に皺を寄せて舌打ちをした。「腫れてんな」

そう言って辺りを見渡した。

「ちょっと、ここに座って待ってろ」

私は、小さく頷いてその場に腰を下ろした。

それを確認してから、蓮さんはどこかに歩いて行ってしまった。


……。

一体、どこに行ったんだろう?

……てか、あの人はなんなんだろう?

なんでナンパ男は、あんなに怯えていたんだろう?

蓮さんって何者?

……まぁ、私には関係ないけど……。

……っていうか『待ってろ。』って言われたけど……。

もしかして、ここに戻って来たりする?

戻ってきたら、助けて貰ったお礼を言った方がいいよね?

……。

……お礼……。

なんて言おう?

最近、人と会話なんてしてないからなぁ……。

……なんか、緊張する……。

私は緊張感に大きな溜息を吐いた。


◆◆◆◆◆


しばらくすると、蓮さんが缶ジュースを手に戻ってきた。

階段に座る私の前にしゃがみ込んだ蓮さんが私の手首に缶ジュースを充てた。

冷たい感覚が疼くような痛みと熱を奪ってくれる。

「……ありがとうごさいます」

私は、缶を自分の指で支えた。

とてつもなく緊張していた割にはすんなりと言葉が出てきた。

小さな声でお礼を言った私に蓮さんは優しい笑みを浮かべてくれた。


それから、蓮さんはその場を立ち去ろうともせず私の隣に腰を下ろした。

人の波を見つめる私の耳に音が届いてくる。

何かをポケットから取り出す音。

金属の音。

石の擦れるような音。

ゆっくりと煙を吐き出す音。

そして、タバコの香りが私を包み込んだ。


私は、何も話さない。

蓮さんも、何も話さない。

ただ、私の隣に座ってタバコを吸いながら、行き交う人を眺めているだけ。


その、主張し過ぎない存在感が私には心地良かった。


◆◆◆◆◆


どのくらい、時間が経ったんだろう?

私は、腕時計に視線を落とした。

……もう、1時間近く経ってる……。

腕時計から蓮さんに視線を移した。

いつもは、遠くから見ている人が、隣に座っているのが不思議だった。

「大丈夫か?痛ぇのか?」

私の視線に気付いたらしい蓮さんがやっと口を開いた。

「大丈夫です」

蓮さんは指に挟んでいたタバコを地面に落とすと靴の裏で揉み消した。

その足元には、結構な量のタバコの吸い殻が転がっていた。「……なぁ」

「はい?」

「お前、いつもここに座ってるよな?」

「えっ!?どうして知ってるんですか?」

驚きを隠せず動揺する私を見て蓮さんは優しい笑みを零した。

「俺がここを通るとき、いつもいるなって思ってた」

……私がいつもここにいる事を知っていたんだ……。

「いつも、ここで何してるんだ?」

「……別に、ただいるだけ……」

「そうか」

蓮さんは優しい笑みを絶やさない。

「名前は?」

「美桜【みお】」

「みお?漢字は?」

「……美しい桜……」

「はっ?」

蓮さんは驚いた声を出した。

「なに?」

「……いや……」

驚いた表情から感心したような表情に変わった蓮さんが小さな声で呟いた。

「……あいつ、すげぇーな」

「……?」

あいつ?

誰?

「いい名前だな。何歳だ?」

「15」

「ふーん、15か……はぁ!?15!? 」

「うん」

「ちょっと待てよ……もしかして、中学生か?」

「そう、3年。学校にはあんまり行ってないけど」

「そ……そうか。中学生か」

「……」

「まぁ、若いと思ったけど……いや……それでも18ぐらいだと思ってた」

「……」

「こんな時間に……こんな所にいるし……いや……中学生がいてもいいのか?」

「……」

「……そんな事ねぇーか。ダメだよな?」

「……」


蓮さんは私に話し掛けていると言うよりも完全に独り言を呟いているようだった。

そんな、蓮さんを見ていると笑いが込み上げてきた。

私はそれを必死で飲み込んでタバコを取り出して火を点けた。

「中学生には見えねぇーよな?」

相変わらず、蓮さんは一人でブツブツと何かを呟いている。

……おもしろい人……。

そう思った瞬間、ハッと何かに気が付いた様に蓮さんが私に視線を向けた。

「……?」

「おい!タバコは吸うな」

「は?なんで?」

「『なんで?』って……お前はまだ中学生なんだろ?」

「うん、そうだけど、なんで中学生はタバコを吸っちゃダメなの?」

私は、蓮さんの言葉が不思議で仕方なかった。

「なんでって……法律で決まってるからか?」

「……蓮さん……なんで疑問形なの?」

「なんでだろうな?……まぁ、俺が法律の事を語っても説得力なんてねぇーな。……てか、なんで俺の名前を知ってんだ?」

「うん?さっきの人が“蓮さん”って呼んでた」

「あぁ、そうか」

納得したように頷いた蓮さんは私の指からタバコを奪い取った。

「……!?」

そして、まるで自分のタバコのように吸い始めた。

「……あの……」

「うん?」

「それ……私のタバコなんですけど」

「あぁ、知ってる」

『知ってる。』って言いながらも、平然と吸い続けている蓮さん。

……どうやら、奪い取ったタバコを返してはくれないらしい……。

「……蓮さんだってタバコ吸うじゃん」

「俺は、20歳を過ぎてるからいいんだよ」

楽しそうに笑っている蓮さん。

「何歳なの?」

「ん?23」

「ふーん」

……確かに、20歳を過ぎてる……。

私は、何も言い返せず口を閉ざした。


「お前、家に帰らなくていいのかよ?親が心配すんぞ」

「親はいないから」

私は人の波を見つめながら答えた。

「そうか」

「うん」

蓮さんはそれ以上、親の事を聞こうとはしなかった。

「学校は?」

「今は夏休み。普段から殆ど行ってないけど」

「夏休みか、羨ましい」

蓮さんが腕時計に視線を落とした。

「まだ、帰らないのか?」

「うん」

「そうか。もう、晩飯は食ったか?」

「ううん」

私は首を横に振った。

「腹、減らねぇーのか?」

「ん?そう言えばちょっと……」

「よし、飯でも食いに行くか?」

「……うん」

私は、自分の答えに驚いた。

今まで、ここにいて何度もいろんな人から食事に誘われたけど、一度も行った事なんてない。


私がここにいるのは、ナンパ待ちでも、友達を作るためでもない。

人と接する事が苦手な私が、蓮さんと話が出来た事さえ奇跡に近い。

でも、この人ともう少し一緒にいたいと思った。

そんな私にもう一人の私が危険信号を出している。

……ダメ……。

着いて行っちゃダメ。

人と関わっちゃダメ。

心を開いちゃダメ。

隣に座っていた蓮さんが立ち上がり歩き出した。

私は、頭の中に響く声を振り払うように立ち上がり、手に握っていたジュースの缶をバックの中に入れ歩き出した。


◆◆◆◆◆


たくさんの人が行き交う中、私は数歩先を歩く蓮さんの広い背中だけを見つめながら歩いていた。

『ねぇ、君可愛いね。ウチの店で働かない?』

スーツ姿の軽い感じの男が話掛けてきた。

……キャッチか……。

いつもと同じように私はシカトしようとした。

だけど、その男は痛みの引いたばかりの手首を掴んだ。

……今日は、よく腕を掴まれる日だな……。

私の口から溜め息が漏れた。

「その子、俺のツレなんだけど」

低い声と不機嫌そうな表情の蓮さん。

……ほら……。

蓮さんは、お腹が空いていてイライラしてるんだから……。

早くご飯が食べたいのにこんな所で足止めを食らったから、すっごく怒ってるじゃん。

だから、早く手を放してよ。

私の心の声が聞こえたのかキャッチ男が慌てたように手首から手を放した。

『れ……蓮さんの知り合いの方でしたか……すみません……失礼しました。』

キャッチ男は頭を下げ、足早に去って行った。

「……お前、よく声を掛けられるな」

「……ですね……」

蓮さんは苦笑しながら私の手を握った。

「……?」

そして、手を繋いだまま歩き出した。

その手の温もりに、私の鼓動が速さを増した。


◆◆◆◆◆


私達は近くにあるファミレスに入った。

店員さんに案内され、一番奥の窓際の席に座った。

店内はクーラーが効いていて涼しい。

その涼しさに一息吐いていると、差し出されるメニュー。「好きなのを食えよ」

「うん」


私はメニューを覗き込んで悩んでいた。

ご飯は食べたくないから、麺にしようかな。

パスタ。

うどん。

焼きそば。

……。

……うん、パスタだな。

ミートソース。

ナポリタン。

カルボナーラ。

クリーム。

和風。

……よし、カルボナーラにしようかな……

あっ!!グラタンとかは?

……別にこんな暑い日に食べなくてもいいか……。

……じゃあ、カルボ……やっぱりキノコの和風パスタにも惹かれる。

……でも、カルボナーラの上に載ってる半熟卵がものすごく美味しそうだし……。

よし、カルボナーラに決定。

なんとか決定した私はメニューを閉じて視線を上げた。

そこにはテーブルに頬杖をついて、私を見つめる優しい笑顔があった。

まっすぐに向けられる視線に恥ずかしくなって俯いてしまう。

「決まったか?」

「うん、カルボナーラ」

「それだけでいいのか?」

「うん」

蓮さんは、テーブルの端に置いてあったボタンで店員さんを呼ぶと注文をしてくれた。


店員さんが席を離れると、蓮さんは慣れた手付きでタバコを銜え、火を点けた。

私はその仕草をボンヤリと眺めていた。

「お前、ちゃんと飯食ってんのか?」

「へ?」

蓮さんがタバコを吸う姿に見とれていた私は、すっとぼけた声を出してしまった。

「『飯、ちゃんと食ってんのか?』って聞いたんだ」

私のとぼけた声がツボに嵌ってのか、蓮さんは笑いを堪えている。

「……あぁ、まぁ……ボチボチ……」

「ちゃんと食えよ。だからそんなに細ぇーんだよ」

「……はい」

なんだか叱られているような気がして、私は自分の膝に視線を落とした。

自分の膝を見つめていると、蓮さんに聞こうと思っていた事を思い出した。


「ねぇ、蓮さんって有名人なの?」

「あ?なんで?」

目を丸くしている蓮さん。

「だって、歩いてるとみんなが蓮さんに頭を下げたり挨拶をしたりしてたから……」


さっきのゲームセンターからこのファミレスまで歩いて10分位の距離なのに、蓮さんは何人もの人に挨拶されたり、頭を下げられたりしていた。

それに、さっきのナンパ男もキャッチ男も蓮さんの名前を知っていたし……。

「そんな事ねぇーよ。俺がいつもこの辺りをブラブラしてるからじゃねぇーか?」

蓮さんは笑っていた。。

「それより、お前いつも遅くまであそこにいるのか?」

「うん、まぁ……」

「なんで?家に帰りたくねぇーのか?」

「……っていうか、私、施設にいるから家は無いの」

「あ?」

蓮さんの顔に動揺が広がる。

「私、『親がいない。』って言ったでしょ?小学校に入学する少し前に親に捨てられたから、それからずっと施設にいるの」

「そうか、悪かった」

「なんで謝るの?」

「あんまり人に話したくねぇーだろ?」

「別にいいよ。本当の事だし」

「……そうか」

……一瞬、蓮さんの瞳が悲しそうに見えたのは、私の気のせいだったのかもしれない……。


店員さんが注文していた料理を運んできた。

「おいしそう。いただきます」

「たくさん食えよ。成長期なんだから」

悪戯っ子みたいな笑顔の蓮さん。

「もう、ガキ扱いしないで!」

拗ねる私を見て、蓮さんが楽しそうに笑った。


それから、私と蓮さんは他愛も無い話をしながら食事をした。

久しぶりに私は人と一緒に食事をした。

満腹感に幸せを感じながら、タバコを取り出して火を点けた。

「……ったく、お前、人の話、聞いてねぇーだろ?」

「……?」

何の話だっけ?

首を傾げていると蓮さんが私の手を指差した。

「タバコだよ」

「……」

……そう言えば、さっき『中学生だからタバコは吸うな。』って言われたんだった。

私は蓮さんに向かって微笑んでみた。

とりあえず、笑って誤魔化してみよう。

そう企んでみたけど……

「笑って誤魔化してんじゃねーよ」

……失敗した……。

「タバコばかり吸ってると背が伸びねぇーぞ」

失敗してテンションが落ちている所に爆弾発言まで落とされてしまった……。

「もう、うるさい!」

……確かに、私は身長が153㎝しかない。

私に身長の話はタブーなのに……。

落ちている私を見て蓮さんは爆笑していた。

本当ならムカつくはずなのに、蓮さんがあまりにも楽しそうに笑うから……。

私まで笑ってしまった。

笑い過ぎて目尻に浮かんだ涙を拭いながら、ふと思った。

こんなに笑うのは、どの位振りかな?

……そう言えば、私は声をだして笑ったことなんて無いかもしれない……。


「お前、笑ってた方が可愛いぞ」

……なんで、こんな事が自然に言えるんだろう……。

蓮さんの言葉に頬が熱くなった。

私はそんな自分に驚いていて完全に油断してしまっていた。「帰り送ろうか?」

「大丈夫。電車で帰るから」

私の言葉に蓮さんは安心したように笑みを浮かべた。

……しまった……。

言ってしまってから後悔した。

私はこの後、いつもの場所で始発が動くまで時間を潰そうと思っていた。

だけど、私が『電車で帰る。』と言えば、それは明日の始発ではなく、今日の最終だと思うのが普通だ。

次に蓮さんが言う言葉を私は分かっていた。

「じゃあ、駅まで送っていく」

……やっぱり……。

私の想像通りの言葉。

……断らないと……。

私は適当な断る理由を探した。

だけど、まっすぐに見つめる蓮さんの視線が私から冷静な思考力を奪っていく。

……だめだ、何も浮かばない。

私は、小さく溜め息を吐いた。

「……うん」

蓮さんが満足そうに笑った。


私が中学生だと知っている蓮さん。

私がいつもあの場所にいる事を知っているらしい蓮さん。

私が帰りたくない事を知っている蓮さん。

私がよく声を掛けられる事を知っている蓮さん。

私が、蓮さんと別れた後にあの場所に行こうと思っている事にも、気付いているはずだ。

蓮さんがファミレスの前で「はい、さようなら」って出来る人じゃない事は私も分かっている。


……どうやら、今日はあの場所には行けないらしい。

「そろそろ、終電の時間だ。出るぞ」

蓮さんが腕時計を見ながら言った。

私は頷くしか無かった。

伝票を手に取り席を立つ蓮さん。

私もバックを掴んで後を追うように席を立った。

レジの前で財布を出す蓮さんの隣に、私も財布を持って立つ。

そんな私に気付いた蓮さん。

「ガキが変な気を使ってんじゃねぇーよ」

そう言って私の分までお金を払ってくれた。


◆◆◆◆◆


「ごちそうさまでした」

ファミレスを出た私は蓮さんに頭を下げた。

「おう」

蓮さんはそう言って私に左手を差し出した。

「……?」

「また、声を掛けられるだろ?」

その言葉を聞いて、差し出された手の意味が分かった私は、蓮さんの手に自分の手を重ねた。

恐る恐る蓮さんの手を握った私。

そんな私の手を蓮さんの手がぎゅっと包み込んだ。


駅までは、歩いて5分くらい。

その間に私が声を掛けられる事は無かった。

でも、蓮さんは相変わらずいろんな人から声を掛けられていた。

時間が遅い所為かガラの悪い人が多かった。

その人達は、蓮さんと手を繋いでいる私を驚いたような表情で見ていた。

「ここで大丈夫か?」

「うん。蓮さん、ありがとう」

「あぁ、気を付けて帰れよ」

「うん」

「じゃあな」

蓮さんが私の手を放した。

温もりが離れた手から寂しさが広がっていく。


……もう少し……。


口から零れ落ちそうになった言葉を私は静かに飲み込んだ。蓮さんに背を向けて改札口に向かって歩き出す。

これから過ごさないといけない1人の時間を考えると、余計に足が重くなる。


「美桜」

蓮さんの声に足を止めた。

慌てて振り返るとそこには穏やかな笑みを浮かべた蓮さん。その笑顔に少しだけ気分が軽くなった。

「明日お前、ヒマ?」

「……?」

「ヒマならどこかに遊び行こうぜ」

「……うん!!」

その言葉をなぜかとても嬉しく感じた。

「明日13時にここで待ってる」

「うん、分かった」

私は蓮さんに手を振って駅に入った。

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