落ちていた夏を拾ったら

あおきたもつ

第1話 八月五日

その夏は、夜空の下に落ちていた。


 八月五日


 サンダルを引っかけ家から出ると、夜の八時を回ったというのに昼間の残滓がくすぶっていた。夜風が運ぶ熱がじっとり肌にまとわりつき、時間を惜しんだ独りの蝉が、気を吐いてまだ鳴いている。

「やだ、アイス切れてる!」

風呂から上がり、真っ先に冷凍庫を開いた姉の悲鳴。

「ユキはまだお風呂入ってないよね?」

姉サクラのお願いという名の命令により、リビングで野球中継を観ていた相沢姉妹の弟ユキはコンビニまでアイスの調達に駆り出された。姉の命令というていになってしまったのは若干癪だが、実はユキ、この夜の散歩を気に入っている。いつの頃からだろう、すっかり自分の役割に定着してしまった毎年恒例のこの行事で、ユキは今年も夏がやってきたこと噛みしめる。高校一年生の夏はぼんやりしていたら陽炎のごとくすぐに消えてなくなりそうだ。

 街灯に導かれる羽虫のように自ずとヒトが集まるコンビニは、あろうことかサクラから指定された肝心のアイスの実を切らしていた。別のコンビニまではさらに五分ほど歩く。「遅い」と文句をつけられるか、「違う」と文句をつかられるか。そもそもお門違いの話なのだが、ユキは後者を選択し、アイスボックスの引き戸を引いた。

 姉の第二候補その他諸々を突っ込んだレジ袋をぶら下げて店から出ると、アイスたちは早速大玉の汗をかき始めた。早く帰ってやらないと――。しかし、早足もつかの間、ユキの足はピタリと止まった。行き道では見かけなかった光景にユキは目を奪われた。――女の子がいる。

 歩道の端で少女がうずくまっている。体育座りで顔をうずめているため判別できないが、髪の長さ、そして何よりワンピース姿なのだから性別は女に間違いないだろう。年齢はおそらくユキと同じ高校生くらい。行きで見かけなかったということは、ここでうずくまったのはつい先ほど。……家出か? 出で立ちからは想像しづらいが、『不良少女』と安直な単語がユキの脳裏にぽんと浮かぶ。熱帯夜が続く今なら風邪を引くこともないだろうしいざとなれば警察が補導するだろう。下手に関わらない方が無難――。そう判断しユキは再び歩き始めた。目の端で少女を捉えながらも知らぬ存ぜぬの態度で彼女の前を通り過ぎる十メートル、二十メートル、次の角を曲がれば相手からもユキは見えなくなる。ちらりと振り返ると、彼女はうずくまったまま微動だにしない。きっと家族と喧嘩でもしたのだろう。じきに家出にも飽きて仏頂面を土産に家に帰るよな、とユキが自身に言いかけたところで、壁に貼られていたポスターが目に入った。

『痴漢出没注意!』

 アイスどうしよう。独り言を呟いたときには、すでにユキは歩いてきた道を引き返していた。

「あのっ、大丈夫ですか?」

 少女のつむじをのぞき込むようにしてユキは小さく声をかけた。

「このあたり、痴漢が出るそうです。あっちのポスターでも注意を呼びかけていますし、このあたり、人通りも多い方じゃないし、男の俺ならともかく君みたいな女の子は本気で危ないですよ」

 無視されると決めてかかっていたが、意外にも相手からの反応はあった。ユキの呼びかけに応じた少女はピクリを身体を震わせ、おもむろに顔を上げた。目をぱちくりさせ、声をかけられたことが信じられないとでもいうように呆然とユキを見上げている。ひねくれた子だとばかり決めつけていたが、その瞳は澄んでいて、おとなしい印象の女の子だった。

 泣いていなかったことに少し安心したものの、ほっとけと冷たくあしらわれるか無視を決め込まれるとばかり想定していたユキにとってこの反応は困りものだった。とりあえず声をかけたことで自分の務めは果たしたとするつもりが、終わらせてもらえない空気がひしひしと伝わってくる。

「それじゃあ俺は行きますけど、本当に気をつけてくださいね」

 ユキが話を切り上げてその場から離脱しようとしかけたその時、少女は逃すまいと勢いよく立ち上がり、危うくユキの顎は彼女の頭にかちあげられるところだった。

「――――!」

「え?」

 ユキは自分の耳がおかしくなったのかと思った。

「――――!」

 だけど、そうじゃない。ユキの耳がおかしいのではない。必死に何かを訴えかけようとする彼女の口は忙しなく動いているが、肝心の声が空気を震わせていない。夢中になって口を動かし続けるが、ユキにその声は全く届いかない。本人が障害を自覚しているとすれば今の状況はありえない。つまり本人はまだ自分の状態を自覚していないということになる。ここでようやくユキは一つの可能性に行き着いた。おそらく正解であり、その答えは、ユキにとっては手遅れを意味していた。

『相手に自分のことを見えると思わせたら絶対に駄目よ。憑かれるから』 

 霊感の強い姉の忠告がユキの頭で警報のように鳴り響き、夏にもかかわらず身体からは冷たい汗が一気に噴き出した。一方、相手に自分の声が届いていないと遅れながらも気づいた様子の少女は、次第に口の動きが鈍くなり、口を結び自身の喉を押さえて項垂れた。

 鈍器で頭を打ちつけられたような衝撃に目眩を覚えていると、一台の自動車がヘッドライトを点灯させながらユキを後ろから追い越して行った。そしてユキの疑心は確信に変わった。

 伸びた影が一つしかない。


 ユキは半べそになりながら家に向かって全速力で逃げ出した。見える体質である自覚はあったが、ごく稀のことだったし、見えたとしてもぼんやりと靄のように見える程度でしかなかった。それなのに、今回の彼女は生身の人間とまるで変わらずくっきりと輪郭を持っていた。容姿が整っているのが余計に性質悪く感じた。

「せめて透けてろよ!」

 喚きながら走るユキに、後ろを振り返る勇気は家にたどり着く最後までなかった。

 転がるように玄関に駆け込むと、サクラが玄関で出迎え――いや、待ち構えていた。

「おかえり」

待ちわびた様子でアイスが入ったレジ袋に手を伸ばすサクラにユキはそのまま、

「俺の分も食べていいから」

レジ袋ごと押しつけ、自室のある二階へ駆け上がった。

「あたしが言ったアイスがなーい!」

 下からサクラの怒りの混じった嘆きが聞こえるが、ユキは構わず自室のベッドに潜り込んでぎゅっと目を瞑った。寝よう。朝になれば太陽の光が幽霊を霧散させる。そうに決まっている。そうであってくれ。頼みます。きっと一夜限りの恐怖体験だったんだ。「背筋の凍る体験をしてさぁ」、夏休み明け、クラスにそんな土産話を用意できる程度の話。だから、憑かれるわけがない。

ビビりと全力疾走した疲れが相成って心臓の音がおかしなスピードを計測していたが、落ち着いていくと共にユキはまどろみの中に落ちていった。だが、眠りは朝まで持ってくれなかった。深夜、耳元で鳴り響く携帯電話の着信音がユキを眠りの世界から引き戻させた。夏休みとはいえ不謹慎な奴だな、とユキは恐怖体験を一時的に忘れた寝ぼけ眼のまま枕元に置いた携帯電話を耳にあて、文句の一つでも言ってやろうと通話ボタンを押した。

「誰ですかぁ?」

『助けてください」

 聞き覚えのない女の声が鼓膜を震わせた。覚醒は一瞬。ユキは小さな悲鳴を上げて携帯を投げ捨てた。薄暗い部屋の中で、携帯の画面だけが爛々と光り存在を主張する。

「ふざけんなよ、冗談ならやめてくれ」

 ユキは情けない声を喉から漏らしながら携帯を見つける。ベッドの上からでは床に転がる携帯からの声は聴こえない。そもそもまだ声の主は喋り続けているのだろうか。イタズラ電話だとしたら、タイミングは最悪だ。

 携帯を見つめたまま数分が経った。汗は熱帯夜のせいもあって引くことがなかったが、浅かった息は元に戻りつつあった。脳が落ち着きを取り戻すと、イノの悪ふざけの可能性が頭に浮かんだ。夜更かしをしてこんなくだらないことを思いついたに違いない。そう思った途端、ユキから深いため息がこぼれた。そっか、そうだ。これしきのことで何をびびっているんだ。変なものを見てしまったせいで小心者に成り下がってしまっている。今頃イノも冗談が過ぎたと反省しているんじゃなかろうか。ユキはベッドから身を乗り出して携帯を拾い上げた。通話は既に切れていたが、フォローのメールくらいは打っておくのに越したことはない。ユキはイタズラだと思うことにした。いや、思い込みたかった。――しかし、現実というのは善し悪しを問わず、最もリアルに想像できてしまったものが姿を現すのが常、携帯を見てユキは身に染みてそれを知った。

 着信履歴を見て、ユキは自分が先ほどの少女に憑かれてしまったと理解した。視界したと同時に恐怖が鳥肌となって体中を駆け巡る。逃げ場は熱の籠もった薄い掛け布団くらいしかなかったが、ユキはすがりつくように中でくるまり身を堅くする。だが、いくら目を強く瞑っても携帯の画面は網膜に刻みつけられ決して消えることはなかった。

 着信履歴画面の一番上、文字化けした記号の羅列はいったいどこに繋がっているのだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る