15.教師の事情

 落雷の翌日。顧問の飛田宏とびたひろしは地域文化研究部の今後の活動について頭を悩ませていた。

 運悪く火災が発生した地域文化研究部の部室では多くの資料が消失した。部室も使えなくなり三年生は全員引退することになった。もともと三年生は内申のために入部していたような人たちだった。やめるいいきっかけになったと思ったのだろう。

 そういう三年生が引退したことは惜しくはないが、部室がなくなったことは痛手だった。あの部室はスタートアップ企業のオフィスを真似て設計した特別な空間である。同じつくりの部屋はこの学校にはない。テーブルも特注品だったのであの空間を他の教室で再現することはできないだろう。まして今、飛田が追加予算を申請するのは立場的に難しい。

 仙川怜央のモチベーションが心配だった。レオはあの部室が居心地良かったようだ。もちろん好きなコーヒーをいれられるという点も大きい。だからしょっちゅう部室にきていた。飛田は場所というものがモチベーションへ及ぼす影響力を理解していた。

 飛田は最初からレオには目をかけていて、レオの方も自分を応援してくれる飛田を慕っていた。レオを地域文化研究部に勧誘したのは飛田である。サッカー部をやめて落ち込んでいたレオと話をする中で、コーヒーに関心があることを知り、

「僕が顧問をしている地域文化研究部で、コーヒーを淹れるために器具を導入するんだ。スタートアップ企業みたいに、上質なコーヒーを飲みながらミーティングできる環境を整えたいと思ってね。活動内容も社会的に意義のあるものだし、良かったら試しに入ってみないか」

 露骨な餌だったが、レオはあっさり入部を決めた。きっかけはコーヒーだったかもしれないが地域文化そのものにも興味を持っていたのかもしれない。上下関係が運動部よりだいぶ緩かったのも良かったようだ。どうも仙川怜央という少年は、コミュニケーション能力は高いが、日本の部活動に顕著に現れる上下関係が苦手らしい。南米に生まれ育った影響か。飛田はそれで全然構わない。彼が生徒に求めたいのは自律的に物事に取り組もうとする姿勢だった。教師の指示やルールに従うだけ、まわりの空気に同調するだけ、そんな学生生活にいったい何の価値があるというのか。だから言われたことをしぶしぶやるだけの三年生の部員には不満を抱いていたが、二年生はみな優秀だ。レオ以外の桜ヶ丘竜也や高井戸楓も見どころがある。


「飛田先生、ちょっとよろしいか?」

 職員室で地域文化研究部の今後について考えを巡らしていたら、校長に声をかけられて校長室に誘われる。

「失礼します」

 一礼して入室すると、校長はにこやかに尋ねる。

「どうだね、調子は」

 校長は理事長を兼ねた六十歳手前の恰幅の良い男だった。背が高く年の割に引き締まった体型を維持しており、豊富な髪を綺麗に整えている。スーツが良く似合うその姿は学校の教育者というより仕事ができるビジネスマンを想起させる。いつも微笑を湛えて物腰も柔らかいが、眼光が鋭い。使えないと判断した人材は容赦なく見切るし、自分の利益にならないことはやらない人だろう。

「順調かね」

 繰り返し抽象的な表現で聞かれているのは生徒たちの学業成績についてだ。なんて答えたら良いだろう。「何も問題ありません」や「万事順調です」は通りそうにない。

「何回か申し上げておりますように、生徒たちの意識を変えるには時間がかかります」

 校長はまだ何も言わない。

「入学時から私が担当しております今の二年生が、成果を測る一つの区切りになると思っています」

 ようやく頷いてくれた。飛田の方から具体的な期限を示されたことで判断がしやすくなったのだろう。判断というのはもちろん飛田の評価のことである。

 教育学を学び留学経験がある飛田がこの学校に採用された時に、校長にはこう言われた。

「大学の入試方式が変わってきていることからも分かるように、国が初等中等教育にも変革を求めている。詰め込まれた知識ではなく、自分たちで身近な問題や社会の課題を発見し、仲間と協力しながら解決していく力を持った若者を増やすために」

 初等中等教育とは大学より以前の教育のことである。

「我が校も教育方法の見直しの真っ只中だ。これからは知識の詰め込みではなく、思考力や判断力、表現力や対話力、さらに自発性を養う必要がある。君にはそういうことを期待したい」

 その考えに共感して、この学校だったら自分がやりたい生徒の個性と自主性を尊重する教育が実践できると思った。また地域文化研究部の設立も飛田の起案だ。これは学校の枠を超えて地域社会との接点を持たせたることが名目だった。

 実は飛田が職場としてこの学校を選んだことや地域文化研究部を設立したことにはもっと個人的な動機があるのだが、それは校長には隠し通さねばなるない……。

 ともかく多摩北高校の教師生活をスタートさせ、地域文化研究部も大きな反対もなく設立できた。上級生たちは「帰宅部」を避けるために入部したようだが、当時の一年生の三人、つまり今の二年生たちいずれも優秀な生徒だった。

 物事は順調に進んでいるように見えたが、そうでもないと気がついたのは入試のあとだった。難関大学の合格者数が昨年度と変わらない。この結果を受けて、校長を含めてこれまで飛田のやり方に好意的だった教員たちから、非難や懐疑の眼差しを向けられるようになった。はっきりと何かを言われたわけではなかったが、空気が変わった。

 つまりなんてことはない。「これまでの詰め込み型の教育を見直す」「自主的に問題を発見して解決していく力を身に付けさせる」というのは、難関大学の合格実績率をあげるための手段に過ぎなかったのだ。あとはせいぜい「そういう教育をしていますよ」という対外的なアピールを図るという意図だろう。

 それ以来、心の中でため息をついてばかりだ。所詮、進学校の教師の仕事のゴールはそこか。少なからず落胆すると同時に、プレッシャーを感じるようになった。この校長はあまり気が長い方ではなさそうである。目に見える成果を出さなければ、クビにはならないまでも冷遇されるのは間違いない。


「ご用件は以上でしょうか?」

「飛田先生の肝入りの地域文化研究部の様子はどうかね。先日の落雷で火災が発生して部室が使えないのだろう。ずいぶんと手の込んだ洒落た部室だったのに」

 言い方に棘を感じたがとりあえず無視する。

「当分はどこかの空き教室での活動にならざるを得ないのですが、資料などもありますしできれば臨時の部室としてどこか使えないか検討中です」

「できればコーヒーをいれられるようにしたいところだろ。飛田先生のお気に入りの仙川くんのためにも」

 そこまで把握されているのか。

「そうですね、彼は優秀な生徒ですから。でも仙川以外の二人も優秀な生徒ですよ」

「確かに三人とも成績優秀だ。特に桜ヶ丘くんは」

「成績だけの話じゃないのですけど、まあそうですね。桜ヶ丘は学年でトップ5に入っています」

 成績はもちろん、社交的で地頭が良さそうな桜ヶ丘竜也は今年度、飛田のクラスだ。彼にはレオと同じように期待している。

「話を戻すと、部活の活動場所は心当たりがある。力になれるか分からないができる限り協力したい」

「ありがとうございます」

「ところで……」

 まだ何かあるのか。飛田は早くこの場を離れたかった。ただ校長は言葉をきったままなかなか先を言い出さない。表情が心なしか固い。

 やがて若葉校長は重そうに口を開いた。

「2月に、ここから比較的近い国分寺市の公園で、猫が虐待されているという目撃情報があっただろう」

「ああ。猫がたくさんいる公園があって、そこの猫たちに餌をやっているという方からの通報ですね」

 確か犯人は複数人の男子高校生で、その中に多摩北高校の制服を着た人物もいたという。ただ通報者の発言以外に、そのような非道な行為が行われていた証拠もこの学校の生徒が関わっている証拠もなかったのでうやむやになっていた。一応飛田も、仲の良い何人かの生徒にそういうことをしそうなやつがいないか聞いてみたが、芳しい返事はなかった。

「先週また同じことが起こったらしい」

「猫の虐待ですか? また同じ人からの電話ですか?」

 校長は頷いた。

「やっぱりうちの学校の制服をきた者がいたと?」

「いや、今度はみんな私服だったのだが。その方が写真を撮ったらしいのだ。まあ実際の虐待の現場写真ではないから、事件の証拠にはならないと思うが」

 校長が机から一枚の写真を取り出した。画質は粗く、スマホで撮影したものをプリントアウトしたもののようだ。写真には四人の私服姿の若者が映っていた。飛田はその写真を凝視した。

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