5.聖くん②

 渚がメールを受け取る少し前の武蔵野亭。遥、聖、高幡の三人で夕食を取ったあとしばし団欒だんらんしていた。話しているのは遥と高幡だけで、聖はほとんど喋らない。

 会話の合間にポツポツと音が聞こえる。雨が降り始めたようだ。風もびゅうびゅうと吹いている。

「だんだんと強くなってきていますね、風が」

 時刻は夜10時になろうとしている。話題は3月末の神社でのイベントについて、それからこれまでなんとなく後回しにしていた黒猫の名前の提案についてだった。

「いいじゃないですか『漱石』という名前。いつまでも『名前はまだない』じゃかわいそうだし」

 高幡は渚の案に高幡は全面的に賛成してくれた。聖も特に反対はしなかったが、彼の場合はあまり興味を示していないだけにも見えた。おやすみなさい、と挨拶して早々に自分の部屋に引き上げていった。社交的とは言い難い少年の態度に、高幡が不快になっていないか遥は不安になった。

「すみません、いつも愛想のない甥で」

 聖が「武蔵野亭」に来て一週間経つ。

「いえいえ、十五歳の男の子だったら不自然っていうほどでもないし、何も心配ないと思います。ほんの数日一緒に過ごしただけですが、ちゃんと挨拶もするし、気が使える子じゃないかな」

 社交辞令だとしてもほっとする。

「せっかくここに来たのですから、楽しい高校生活が送れるといいですね」

 はたして聖はこれから始まる高校生活を楽しく過ごせるだろうか……。


 約1週間前、3月の最初の土曜日に柴崎聖しばさきしょうは「武蔵野亭」に越してきた。若葉遥が聖に最後に会ったのは、彼が小学六年生の正月だったので3年ぶりの再会だった。久しぶりに会った聖は、顔つきは大人びてきていたが身長は3年前からさほどは伸びておらず、体格も華奢なままだった。でもそれよりも気になったのは、表情の変化に乏しく、覇気がないことだった。もともと活発な少年という印象はなかったが、それでも小学生の頃は一緒にいれば笑ったりしゃべったりはしたものだった。

 姉の話を聞くと、原因が父親にあることは明らかだった。

 聖の父親は剣道の有段者で、小学生の低学年から聖を剣道場に通わせていた。少年は中学校に入ると当然のように剣道部に入部したのだが、途中で父親は学校の剣道部の指導が悪いと考えて、部活ではなく知り合いの道場に通わせるようになった。

「指導が悪いって、どうして分かるの?」

「中学1年生の時は、すごく上手いって先生からも褒められていたらしいの。期待の新人だったって。でも2年生になってからは、大会でも負けるようになり、とうとう団体のメンバーにも選ばれなくなったんだって」

 それを全部指導の問題にするのはどうなのだろう。

 父親は息子が出る試合を時間の許す限り見学に来た。その時には、当然他の部員の試合も目にするわけだが、それを見て「この学校で聖より上の奴はいない」とまで言っていたそうだ。その評価自体も疑わしいし、子供の部活動にそこまで介入する父親というのが遥には理解できなかった。

 父親の過剰な期待が強いストレスにもなっていたことは容易に想像できる。母親は息子の苦しい胸の内を察して夫である父親に伝えたが、父親は「聖は何も言っていないじゃないか」と意に介さなかった。だから転勤先の茨城には「絶対に行かない」と聖が言った時、父親は烈火のごとく怒ったが、母親は彼の気持ちを汲んだ。家族以外知り合いがいない土地では父からの逃げ場がない。それは少年にとって恐怖以外の何者でもないだろう。ただ聖には同情する一方で、家族の元にいるよりも充実した高校生活を遥が提供してあげられるかは分からない。

 彼がここに来てから一週間。遥以上に不安を感じているであろう聖の気持ちを少しでも紛らわすために、聖に武蔵野亭でのアルバイトを持ちかけた。今日が初日だったが、聖の感情はまだ伺い知れない。正直、お客が少ない時に2人きりだとだいぶ気づまりだったので、渚が来てくれたことはラッキーだった。

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