しらさぎは今日飛び立つ
kgin
第1話 しらさぎは今日飛び立つ
「なあ、一緒に住まん?」
鶴というより鳩の一声だった。奈緒子にしては思い切ったな、と由佳は思った。
「どしたん急に」
助手席の奈緒子の表情は、それでもいつもと変わらなかった。初夏の睫毛が艶やかに長く、ゆっくりと瞬きをする。こういうときに年上の余裕を感じさせられる。
「コロナのせいでなかなか会えんでえ。ろくにデートも行けんし」
「まあ、もうドライブも飽きたな」
「私ら、もう付き合うて三年になるでえ。そろそろええかな、って」
いつまでも実家におれんしな、とセミロングの髪をいじりながら奈緒子は笑った。由佳だって、今年三十になる。親は結婚しろとうるさい。鳴門から市内の会社に通うのもいい加減しんどい。実家を出るにはいいタイミングかもしれないな、と由佳も思う。目の前の信号が青に変わる。由佳はグッとアクセルを踏み込んだ。
「よし、連休くらいから部屋探ししよか」
奈緒子はシフトレバーを握る由佳の左手を右手でそっと包み込んだ。
次の連休、由佳は渭東地区の不動産屋へ向かうために車を走らせていた。二人で相談して、鳴門からも奈緒子の美容室がある小松島からもアクセスがよさそうな渭東地区を選んだのだ。学校や寺が通り沿いに多く、古い街の香りが漂う落ち着いた雰囲気はアラサーの二人暮らしに心地良い。映画館が近いという立地も二人にとって好ましい条件だった。
いつもは通らないしらさぎ大橋は思ったより運転しやすかった。車窓から吹き込む風は甘やか。外を見るとトンビだろうか、黒い影が横を飛んでいて自分まで飛んでいるような気分になる。工事中の道路を横目に橋を降りて渭東の街へ。不動産屋の駐車場には奈緒子の軽がすでに駐まっていた。
「思ったより早う着いてしもた」
にっこりと笑う奈緒子はお気に入りの花柄のワンピースを着ている。
「意外と近いな」
由佳も笑って不動産屋の店内へ入った。客は自分たちだけのようだ。
「いらっしゃいませ」
「予約していた末澤です」
名刺を渡されている奈緒子の横に由佳は座った。店員は五十代くらいの気さくそうな男性だった。自分の父親と同じ年代だなと由佳は思った。
「条件に合うお部屋、いくつか見繕っとりますよ。2DK以上で家賃六万から七万ってことやったよね」
「はい」
「今回ご紹介できるんが2DKのお部屋と、2LDKのお部屋二つですね。一応3LDKっちゅうんもあるけんど、一人やとちょっと広すぎかな」
「あ、すみません。一人とちゃうんです。この子と同居する予定なんですけど」
奈緒子がそう言うと、店員は由佳を見て怪訝そうな顔をした、気がした。
「あ、妹さん?ほれやったらちょっと条件変わってくるなあ」
「いや、妹ではないんですけど……はい」
確かに由佳は奈緒子の妹と言うにはあまりにも似ていなかった。どちらかというと小柄でふっくらしている女性的な奈緒子に比べて、ボーイッシュな由佳は長身でスポーティだった。それに、どうせ入居するときに名字が違うのはわかってしまうことだ。変な嘘をつく必要もないと奈緒子は考えたのだろう。しかしながら、店員の反応は二人の予期せぬものだった。
「お二人どういう関係で? あ、もしかしてあれで? 今流行りの……横文字のやつ」
由佳も奈緒子も、相手が何を言わんとしているのかすぐには解しかねた。
「困ったなあ。同性同士のそういうん、嫌う大家さん結構おるんですよ」
笑いながら言い放たれた言葉。「そんなんとちゃいますよ」という返答への期待が透けて見えるようだった。おそらく冗談のつもりだったのだろう。口ごもる二人を見て店員は表情を変えた。
「ほんまにそうなんですか。失礼やけど、なかなか女の子同士っていうんも厳しいと思うで、いろいろ」
「……わかりました。なら、もう結構です」
それまで黙りこくっていた由佳が強い調子で言った。絞り出すような声だった。驚く店員を尻目に「行こう奈緒ちゃん」と奈緒子の手を引いて半ば強引に店を出た。店の裏の駐車場まで来ると由佳は自分の車の助手席に押し込むように奈緒子を乗せた。
「ごめん、奈緖ちゃん。せっかく不動産屋探してくれたのにご破算になってしもた」
運転席の由佳は少し涙ぐんでいた。
「ワタシ、どうしても許せんかったんよ。あんな言い方ないやん」
「悪意があったわけではないと思うけどな」
「奈緖ちゃんは腹立たんかったん!」
涙声が二人の車内に響いた。思ったよりも大きな声が出たことに、由佳本人が一番驚いていた。
「ごめん」
「ううん、由佳は悪うないよ。私やってムカついたよ。ただ、二人で部屋借りようと思ったときにこういうことも覚悟しとった」
「……」
「覚悟しとったけど……私やったら思い切って断れんかったかもしれん。ありがとう、由佳」
「奈緖ちゃん……」
「次、次! いけるよ。わかってくれる不動産屋さんやっておるって」
そう言って奈緒子はスマホのケースにしまっていた名刺を破り捨てた。由佳は、なかなか顔を上げられなかった。
次の週の月曜、有給を取った由佳は再びしらさぎ大橋を渡っていた。細かい雨のそぼ降る仲夏の空は霞色に煙っていて、干潟や建設中の下流の橋も見えなかった。湿気が肌にはりついた。しらさぎ大橋から安宅に降りる。道路周りの様子が少し違う。たったの一週間ぶりなのに、工事は幾分進んだらしかった。
新たに二人で見つけた不動産屋は最近この辺りにできたらしく、看板もまだぴかぴかしていた。オレンジのロゴにトラのキャラクターが可愛らしい。
「奈緖ちゃん、寅年だったよね」
努めて明るく声をかける。奈緒子は白いブラウスで、珍しくパンツスタイルだった。マスクから見える眼差しは不安に揺れているように思えた。
「行こう」
由佳は、奈緒子よりも先に不動産屋のドアノブを握った。カラン。ドアについたベルが鳴った。明るい店内は狭いながらも白く清潔で、圧迫感はなかった。カウンターの上に小さな観葉植物が置かれている。
「いらっしゃいませ」
「……予約していた末澤です」
後ろから来た奈緒子が言った。パソコンを前にしていた店員は、立ち上がって応対してくれた。もしかしたら由佳よりも若いのかもしれない。二十代半ばだろう店員は線が細くて少し頼りない雰囲気だ。名刺を覗き込む。大久保というらしい。
「ご予約ありがとうございます。えっと……今回、賃貸の物件をお探しということで、条件を改めて確認させていただいてもよろしいですか」
「はい」
「2DK以上、家賃六万から七万でこの辺りの物件ということでしたよね」
「そうです。それで……電話では言うてなかったんですけど、できれば同居可のところでお願いしたいんです」
奈緒子の声が少し緊張したのがわかった。
「はい、わかりました。条件に付け加えますね。気になったところがあれば、今日いくつかご覧になりますか」
「はい、是非」
奈緒子の肩の力が少し抜けたようだった。パソコンの画面に示された物件をいくつか見せてもらう。大久保君がページをめくるごとに、駐車場は二台以上必要だとかバストイレ別がいいとか条件を付け加えて候補を絞っていった。奈緒子にそれほどこだわりはないらしかったので、自然、由佳の方が多く注文をつけることになる。大久保君はそれを特に気にする様子もなく、はいはいと検索条件を付け加えていった。
結局その日のうちに気になった物件を三軒ほど内見させてもらって、不動産屋を後にした。三つとも綺麗で日当たりもよく、好感が持てる物件ばかりだった。
「奈緖ちゃん、どこの部屋がよかった?」
その日の晩、早速ビデオ通話で作戦会議をする。奈緒子は缶チューハイを傾けながら、ぽやぽやと考えている様子だった。
「そうやなあ。私は三軒目の部屋かな。大久保君もオススメって言よったし。綺麗なわりに家賃も安かったでえなあ」
「ワタシは断然一軒目のところが好きやったな。内装お洒落やったやん。エアコン着いとったし」
「そうかあ。でも一階だったしなあ」
「そこ気にする? まあちょっと収納少ないんはネックだったけどな。……あ、契約するんは奈緖ちゃんなんやけん、最終決定権は奈緖ちゃんにあるけんな。ちゃんとバシッと決めてな」
「わかった。今週ゆっくり考えてみるわ」
そう言って、奈緒子はピンクベージュの髪をいじった。
何度かの作戦会議の結果、奈緒子が最初に気に入った三軒目のマンションにすることに決まった。築年数は古いが綺麗にリフォームされていて、収納も充実しているのが決め手になった。契約書など必要書類をもらって帰るとき奈緒子の表情も晴れやかだった。あとは二人の事情を知っている奈緒子の母に連帯保証人になってもらって、契約書を完成させるだけだ。いよいよ、二人の生活が始まる。由佳は期待と不安で胸がいっぱいだった。
契約日はぬるい風の纏わる曇天だった。雨催いの夜、由佳は奈緒子に電話をかけた。さすがにもう有給が取れなかったので、奈緒子一人で不動産屋に行ってもらったのだ。
「もしもし、奈緖ちゃん」
「由佳、電話してくるんや珍しいでえ。あ、契約行って来たよ」
「いけたで」
「……うん、いけたよ」
「……? 何かあった?」
電話ごしの奈緒子の声色がいつもと少し違っていた。問いただして、奈緒子が語った内容というのがこうである。
必要書類を整えた奈緒子は約束の時間に不動産屋を訪れた。大久保君に書類を確認してもらっていると一カ所不備が見つかった。
「末澤さん、この『入居者名簿』のところなんですけど。ご一緒に住まれる川中さんの続柄が空欄になってますが」
「あ、そこ……何て書いたらいいかわからんかって。あの、」
奈緒子は息を呑んだ。声が震えそうになるのが悔しかった。一瞬の逡巡の後、奈緒子は小声で吐き出すように言った。
「付き合っとる場合って、続柄は何て書いたらええんですか」
大久保君の視線がわずかに揺らいだ。言ってしまった、と奈緒子は思った。大久保君は唇を舐めた。そして、表情を変えずに説明した。
「その場合、『友人』とか『同居人』とすることが多いですね」
その口調は決して事務的ではなく、友達に語りかけるような温かみが感じられた。奈緒子は安堵の息を吐いた。
「ほんで『友人』よりは『同居人』の方がしっくりきたけん、そっちにした。大久保君、わかっとるみたいやったけど、何も言わんかったわ」
「ほうで。なんか普通に接してくれるんがありがたいな」
「そうなんよ」
「あそこの不動産屋にして、よかったな」
「そうやな」
「やっと、二人の生活が始まる」
由佳はひとりごちるように言った。電話の向こうで奈緒子が頷いた気がした。
入居の日は梅雨の晴れ間らしく蒸し暑かった。しらさぎ大橋を降りて末広方面へ向かうと、工事のフェンスが大きく伸びて通りの様子がまたガラリと変わっていた。この街は生き物のように新しく変わり続けている。住んでいる間にもどんどん成長していくだろう。ハンドルを握る手が期待に震えた。マンションの指定された駐車場に車を停める。隣の車から降りてきた奈緒子は今日の天気のような、空色のフレアスカートをはいていた。
「鍵、もらっとるよ」
エレベーターの脇の階段から二階に上がってすぐの部屋。鍵を開けると、ギイイと鈍い音がした。玄関に靴を揃えて真っ新なリビングに足を踏み入れる。カーテンのない南向きの部屋はムッとするほど明るかった。窓を開ける。思ったよりも爽やかな風が二人の間を吹き抜けていった。
「これから忙しいじょ、奈緖ちゃん。掃除して、電気とガスの会社に電話して……」
「ほんまやな。家具も買わんと」
「することようけあるけんな。どんどんしていかんと」
「うん。やけどちょっと待って」
そう言うと、奈緒子は由佳の左手をそっと握った。ぬるい、ぬくもりが伝わる。
「もうちょっとだけ。もうちょっとだけ、こうやっとってもええかな」
由佳は黙って頷いた。奈緒子の右手をぎゅっと握り返した。何もない部屋はこれからどんどん物と思い出が増えていくのだろう。
「これから二人の生活が始まるんやな」
奈緒子が言った。窓の外を見る。遠くの田んぼから一羽の白鷺がつ、と飛び立ったのが見えた。
<了>
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