★襲撃★
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!?」
濁点のついた悲鳴を上げつつ、寝室のドアをぶち破る勢いでもって、俺は廊下に転がり出る。
ワンテンポ遅れて耳元で風がうなった。後ろ首に一気に産毛が逆立つ感覚。尻もちをついた姿勢のまま振り返ると、気のせいでもなんでもなく、眼前には『今しがた横に薙がれたばかりです』といった体の大鎌が光っていた。
「すばしっこいですね、意外と」
鎌の持ち主――三つ編み女が感嘆したように呟く。どうやら俺は今褒められたらしい。が、生憎なにも嬉しくない。薙がれた鎌の軌道は、一瞬前に俺が立っていた場所だ。なんか知らんが殺されかけた。いや、その状態は現在進行中、だ!
俺は手近にあったもの――ちゃっかり傍で身を屈めていた黒猫――をひっつかんで「にゃ!?」、三つ編み女の顔面へと思い切り投げつけた。
「うみゃあ!」
「――!」
一人と一匹がどうなったかは確認せず、俺はつんのめりながら廊下を走り抜ける。 口から飛び出そうな心臓を手で抑えつけ一段飛ばしに階段を駆け降り――そうしながらも、状況を理解しようと少ない脳ミソをフル回転させた。
理由はわからないが俺は今、不法侵入者に襲われている。相手はぶっ飛んだ凶器を持っていて、こちらで武器になりそうなものは――家の中にあるのはパンこね棒くらいだが、今から取りに行くのは無謀。大体大鎌にパンこね棒で太刀打ちできるのかといったら――あ、これ絶対ムリな!
ならば俺にできることは逃げることと助けを呼ぶことの二つだけ。ケータイは――今日に限って自室に放り投げてきたカバンの中!居間に立ち寄ってのんびり固定電話をかけている余裕は、もちろんない!
――外だ!外へ逃げよう!
この館の周辺に隣近所はないが丘を降りれば住宅街、駆け込む家はごまんとある。 あの猫は自分の存在を警察へ知られることを嫌がっていた。つまりあの死神鎌女が猫の仲間なら同じこと、警察に通報すればなんとかなる――ハズだ!
一階に降りた俺は一直線に玄関を目指した。裸足のまま土間に飛び降り、厳めしい造りの大きな扉に体当たるようにして取りつく。
「あ……開かない……!?」
カギを開けたはずのドアはしかし、びくともしない。俺は混乱した。何度もノブをまわし、外したカギをかけ直し、また外し――まさか、元々古かったドアが最悪のタイミングで壊れちまったのか?
――或いは……。
俺は思い浮かんだ可能性にぞっとした。あの魔女――黒猫の言葉を信じるとしたら、あれもたぶん魔女だ――が、魔法かなにかで結界のようなものを張って、自分をここから出られなくしたとか!?
「く、くそっ……!」
背筋に大量の冷や汗を流しつつノブをがちゃがちゃ乱暴に回していると、
「あんさんあんさん、そこ、カギ、かかってるよ」
追いついてきた黒猫が、足元でのんびりした声を出す。
「お……?」
化け猫が前足で指し示す方に目をやると、そこに、もう一つのカギがあった。
――あ、そうだわ。
そういや、この玄関の扉のカギは、上下、二箇所あって。
下の方のカギが、かかったまんまだった。さっき最終的な戸締りをした時にかけた覚えが――
「い、いや……その、なんというか………………あああああっ!!」
自分の馬鹿さ加減に半分八つ当たり気味の絶叫を上げつつ、俺は二つ目のカギを開け、勢い良く玄関の扉を開け放った。そして外に飛び出し――
「キャーー!?」
目と鼻の先に立ち塞がっているものを確認して、悲鳴を上げてとんぼ返り、玄関の扉を叩き付けるように閉めて、今しがた開けたばかりのカギを即行で施錠した。
「な、な、なんで……!」
玄関を出たところのポーチ。そこには既に、先程の死神女が先回りして待ち構えていたのだ。ということは俺の部屋の窓から飛び降りて、待ち伏せていたのか?くそっ!それならケータイか固定で警察に連絡した方がよかった――!
俺は居間に戻ろうと中を振り返り――
「ああ」、と頭上から降った声に身を凍りつかせる。
見上げた吹き抜けの階段の上、その暗闇。手摺りに腰掛け、三つ編み魔女がゆっくりと口を開く。
「――そこに、いたんですか」
「!?」
――瞬間移動!?
今確かに玄関の扉の向こうに――、いや、
「双子かあああ!?」
叫びつつダッシュ、魔女がなにかしらの攻撃を仕掛けてくる前にスライディングをきめ、俺は横手の部屋に滑り込んだ。
「あんさーん、いま外にいたのは、ただのハリボテで姐さんはずっと中に……って、聞いてないな」
玄関前に陣取った猫の間抜けた声を背中に聞きながら俺はさらに館の奥へと突っ走っていった。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい………」
大鎌を首元に突きつけられて他の言葉が出る奴がいたら会ってみたいものだ。
俺は正座してたらたらと果てなく湧いてくる涙を垂れ流しながら、魔女に向かって謝り続けていた。もちろん俺の何が悪いのかは俺にもわからない。どこで何が間違ってこーなったのか、とにかくすべてなにもかも、わからない。
「まず簡単に自己紹介をお願いします。あなたのことを教えてくださいますか?」
死神魔女は顔色も変えずに、俺の首元に突き付けた鎌もブらさずに、のたまう。
俺は館の奥に逃げ込んだのち、結構すんなり捕まった。
魔女の、そこらじゅう景気よく破壊していく鎌攻撃を避けつつ逃げているうち、普通に道に迷い、右往左往しているうちに袋小路に入り込み、あわあわしているうちに壁際に追い詰められ、他に為す術もなく手を挙げてへたり込み、そして――
その結果がこれである。
「ぼくのなまえは つきやましゅうとです」
「知ってます」
魔女の質問に対しカタカタ震えながら勇気を振り絞って答えた俺の発言を、魔女は言下に遮った。
「名前は既にこちらで確認済みです。歳は?」
「じゅうろくしゃい……こうに……」
「ご家族は?この真夜中に、姿が見えませんが、どこかに旅行中でしょうか?」
「かいがいで、くらしてます。ぼくは、ひとり、ぐらし、です」
魔女は眉を顰めた。
「この大きな家に、一人で?物騒ですね」
「ぶっそうです」
夜中に魔女に押し入られるくらい、物騒です。
「高校生に買い与えるには広過ぎますし、豪華ですし、なにより防犯上も管理上も問題かと。誰か管理人がいるのですか」
「……ここは、おじいちゃんの、いえ、で、伯母さんが、かんり、してます」
「なるほど親戚の家を貸してもらっている、ということですか……親戚のほうはここには住んでいないのですね。けれど、時々は訪ねて来る、といった感じでしょうか?」
「ふぁい……にわのていれ、とか、ようす、みに――」
そこで、はたと思い至った。このままでは伯母さんまで巻き込んでしまう。
「おば、伯母さん、伯母さんは、たすけて――」
「は?」
「伯母さん、おかね、ないです。このいえ、もってるだけ。ふつうの、しゅふ。こ、ころさないでください」
「……………………。」
こちらの命乞いに、三つ編みは冷徹な目を細める。
「その方は、どのくらいの頻度でここに来るのでしょう?」
「………………………………。」
俺は目を瞑って口を引き結んだ。
「答えなさい、月山驟人。毎日だと困ります。週に一度程度でしょうか?」
「………………………………。」
身体じゅう、ふるふると震えている。それでも伯母さんに不利になるような情報をもたらすわけにはいかない。俺は震えながら沈黙を守った。
息の詰まるような間が数秒続いた後、耳に、魔女がついたものらしい溜め息の音が聞こえた。
「まあ……いいでしょう。合格です。異存ありますか、ポラム」
「ないよー。ま、毎日外部の人が来ても、これだけ広いなら少しの間くらいなんとか誤魔化せるかなと思うしさ」
「……?」
俺は目を開け、のんびり寛いでいる黒猫を見遣った。合格?誤魔化す?なに?
気付けば、大鎌は俺の首元から引き揚げられている。魔女は鎌を肩に軽々ともたせ掛けたまま、腕を組んだ。
「月山驟人。あなたを見込んで、ここにルビーを住まわせていただきます」
「……ふ……へ?」
「今日から、ここを臨時の滞在先と決めました。よろしくお願いします」
「はへ……?」
「ですから」と、苛立ちに顔を顰めながら、死神魔女。
「ルビーとポラムが、今日からここでお世話になります!この館は周囲に家がありませんし、中も手頃な広さがありますし、人目を忍んで隠れ住むにはうってつけの環境です。加えて住民は一人……つまり事情を話さなければならない人間は、あなた一人だけ。そしてあなたは――どうも今一つ頼りないですけれど、こちらが警戒しなければならない類の頭の切れる人間ではないようですし、かといって危機的状況に全く反応できない役立たずというわけでもないようです。つまり『程よい馬鹿』ということですね。突然のことで納得いかないでしょうが、ルビーが偶々ここに落ちて来たのも何かの縁、と考えて受け入れてください。ちなみに付き人である私は見習いとの同居が許されないため別の場所に居を構えますが――。聞いていますか?月山驟人?」
「姐さん姐さん……あんさん、白目剥いてる……」
ぺらぺらぺらぺらと澱みなくしゃべり回る死神女の声をバックミュージックに、俺は遠ざかっていく意識の隅で黒猫の呟きを聞いていた。
「うーんうーん………………」
俺は、呻いていた。
夢の中で、呻いている自分の声を聞いていた。
「夢だ………これは……夢なんだ………」
俺はその夢の中で、すべてが悪い夢で、朝になり目が覚めればなにもかも消えてくれていることを祈っていた。
けれど、俺が翌朝、浅く短い眠りから目覚めてみると――
明け方の爽やかな光に照らされて、俺の右手の中にはくしゃくしゃになった紙がしっかりと握り締められていた。昨晩、あまりの事態に気絶した俺を間髪入れず叩き起こした三つ編み冷血死神大鎌魔女
「…………。」
ぼんやりと手の中にあるそれを確認し、俺は昨晩の出来事が夢でないことを悟る。
階下からは、何かが盛大に爆発した音が響いてきた。
容赦ない爆発音と振動に、ベッドと部屋全体が衝撃でカタカタと揺れ、決して新しくもなく頑丈でもない壁からぱらぱらと木屑が舞い落ちてくる。
「……………………。」
俺は再度頭から布団を被って、もう一度夢の中に戻りこの現実から逃避することを試みたが、残念ながら爆音で睡魔もどこかに消し飛ばされてしまったようだった。
「やっほぉー、シュートぉ~!」
全てを諦めて着替えを終えた俺が一階におりると、金髪の少女が間延びした挨拶を寄越してきた。昨晩、結局のところ階下の騒ぎに一度起き出してきた件の魔女――ルビーは、俺にベッドを譲ってからリビングのソファーで眠り直したはずだった。そして朝になった今、悪いジョークのようなふりふりエプロンを身につけ、当然のように人んちの台所に立っている。
ルビーは、がんがんと卵をフライパンの縁に打ちつけながら――コンコンではなく、『がんがん』と打ち付けている――飛び切りの笑顔をこちらに向けてきた。その笑顔で、俺の頭痛は一段とひどくなる。
「おはようさんなのだー!昨日はよく寝れましたか~?ルビーはあれからよく寝たよー!?ソファーふっかふかだった!いまはゴハン作ってるのだ!シュートは座って待っているのだ!これは命令だー!」
彼女は、よくわからないしゃべり方をしながら、フライパンをふった。
「あの、ルビー……さん」
「『ルビー』で、よし!」
「じゃあ、ルビー……」
言い直して、俺は彼女が持っているものに目を遣って問うた。
「それは、なんですか?」
「これは、タマゴである!」
ルビーは先程からフライパンのカドに打ちつけているものを掲げ、自信たっぷりに答えた。
「そうか……で、ええと、なんの、卵でしょうか」
煤が散って化学実験室のようになったコンロ周りをぼんやりと見渡して、俺は重ねて質問した。
彼女が卵だと答えた代物は、普段俺が食べている卵よりも、三回りほどサイズが大きい。そしてその表面は、けばけばしい極彩色で埋め尽くされている。
よくよく見ると卵の表面には、ぶつぶつと泡だっているような凹凸があった。色は、白と黄色、赤、のマダラだ。模様の形だけみるとウズラの卵みたいだが、こんなに大きくてカラフルなウズラの卵は見たことはない。そして彼女が何度もそれを割ろうと全力で鉄のフライパンに叩きつけていることからして、その殻はひどく固いらしかった。
「ベッシャンバードのたまごである!」
「べっしゃ………なに?なんだって??」
「あんさん、知らないの?」
「ひっ!」
突然足元で聞えた第三者の声に、俺は飛び上がる。
いつの間に来ていたのか、黒猫が床の上で「くあっ」とあくびをした。
言葉をしゃべる猫はやはり心臓に悪い。一晩眠ったからといってすぐに脳が適応できるものでもないようだ。
「なかなか、うまいもんだよ?おいは、大好きだよ」
猫は、卵のハナシをしている。猫の言葉にルビーが元気よく頷いた。
「おいしいし、栄養まんてん!優れもの!これを食べれば、元気が出て時速百キロで走ったり、口から火を吹いたり、電流に耐えられるようになったり――」
「待て待て待て待て!」
俺は頭上で両手を振り回した。こいつは朝っぱらからヒトに何を食べさせようとしてるんだ!?
「それはお前の朝食にだけ入れてくれ。俺は普通の卵食うから」
「ええー!?なんで??」
「なんでもクソもあるか!いいか、よく聞け。俺は人間で、そんなヘビーなものは受け付けない。日々ニワトリの卵を食べて育ってきたんだ。そんな正体不明のタマゴ――」
その時、ルビーがガンガン音を立てて打ちつけていたタマゴが突如、パクリと割れた。
そして真っ二つに裂けた殻の中からフライパンにぬたっとこぼれ落ちたものを見て、俺の口から悲鳴が上がる。
「ぎゃああああ!それ、ゆうせいらん!?有精卵か!?な、なかっ、なか、と、とり!!とりが!」
無精卵だと思っていたら中身はどでかい鳥のようなものが入っていた。俺が激しく仰け反っているのを余所に、ルビーは目を瞬かせて「ほえあ~?」と間抜けな声を上げる。
「あんさん、どしたの?」とポラムも首を傾げる。
フライパンの上では、でっかい赤剥けの幼鳥がいっぱいに広がり、びちびちと油を跳ね上げて丸ごとその身を焼かれている。
――や、やばい、猛烈に気分が悪くなってきた。
「ととと、とにかく、俺は今日は食欲ありましぇんから……!も、もう学校行くわ!そっちはそっちでてきとーに食べてくださいお構いなく!すみましぇんね~、なんか!」
俺は回らなくなった舌を懸命に動かしながら冷凍食品を高速レンチンし、昨夜準備しておいたタッパーの中の残り物と白米を手早く弁当に詰め込んだ。もう今日はいつも焼いてる卵焼きとか作れる状況にないし、食べたい気分でもない。
「ほんじゃま、そういうことで!行ってきまーす!」
弁当を入れたカバンをひっつかんだ俺は引き攣った笑顔で踵を返し――何もないところで蹴躓いてズターンとひっくり返る。
「あんさん!しっかり!」
「シュート、二日酔い~!?」
「誰がいつ酒を飲んだ!?――あっ、もういいから!いいですから!ついてこないで!」
パタパタと駆け寄ってくる二人、いや、一人と一匹から逃げるように起き上がる。
「ちょっとそこまで見送るよ、ヤバいよあんさん、その顔色」
「誰のせい!」
「ルビーも見送る~!」
「来なくていいっつってんだろーが!……キャーーー!?」
「だからそれ、ハリボテだってば」
玄関の扉を開けて絶叫した俺に、猫が溜め息を落す。
扉を開けたすぐ先にあったのは『チチョリ』とかいうふざけた名前の死神魔女が昨晩俺を騙すために置いていた、奴にそっくりの魔女人形。人形なので無表情だが、本人もおおかた無表情だったので違いがまったくわからない。
「回収していけよおお!なんで玄関先に置いたままにしてんだよおお!」
苛立ちまぎれに人形のボディーに軽く蹴りを入れる。と、蹴りを入れた瞬間、人形は後ろに倒れながら口からぼおおーと音を立てて炎を噴出した。
「ぎゃああ!!なにこれ口から火ぃ吹いたんだけどぉお!?」
「だから、触らないほうがいいって」
ポラムが一般常識のように言う。
――なんなんだ、くっそおお!
仰向けに倒れたハリボテを大きく迂回して、俺は自転車置き場へと向かった。自転車のカゴにカバンを放り込み、カギを外して跨ると、フライ返しを持ったままのルビーが近寄ってきて自転車をしげしげと見詰めてくる。
いや、てかそこ、正面にいられると邪魔なんすけど――
「シュート!これ、変わった箒だねえ!?」
「いや……チャリだよ……」
俺は眉間に皺を寄せたまま、短く答える。
なるほど!と、ルビーはマジメくさった顔でふんふん頷く。
「チャーリー!それが、シュートの箒!」
たぶんこの女なにも理解してない。しかし否定するのも面倒臭い。
「あたしは、ルビーっていうんだよー!よろしくね、チャーリー!あなたってとっても、素敵!ぴかぴか光ってる!それに、がっしりしてるし、ややこしいカラダー!」
ルビーは元気よく手を振り回しながら自転車に話しかけ始めた。もちろん、自転車は返事なんてしない。というかここで自転車が急にしゃべり出しても困る。もしそんなことになったら俺は裏切られたような気分になるだろう。世界中どこにも味方がいなくなったように思えて、気が狂ってしまうだろう。
「てか、もう出発しますんでどいてくれます……?」
「アイサー!」
ルビーはぴょこんと脇にどけた。俺は溜め息とともにチャリを漕ぎ出す。背後で
「おおー!」と、ルビーの感心したような声。
「見て見てポラム!すっごい低空飛行!」
「ホスト?」
学校までの慣れた道をチャリで走りながら、俺は昨晩の死神魔女とのやり取りを思い出していた。
「ええ。こちらでいうところの、ホームステイとでも考えていただければよいかと」
気を失った俺を文字通り叩き起こした後、ひとまず台所に移動し――チチョリは、テーブルに腰かけて――椅子ではない、テーブルに腰かけている。どういう育てられ方をしてきたんだ――足を組み、一方的に説明を始めた。
「ルビーは、こちらに一ヶ月ほど滞在させていただきますが、その間あなたには『ホスト』として彼女を見守っていただきたいのです。『いただきたい』というか、そうしてください」
「…………。」
「見守る、といっても何も特別なことをお願いするわけではありません。ルビーを住まわせる他は、あなたは至って普段通りの生活を送っていただいて構いませんので」
「はあ……。」
板張りの固い床に正座した俺は――魔女がテーブルに腰かけて話している以上、位置関係として椅子に座るという選択肢はない――茫然自失のまま、他にどうしようもなく生返事を返す。
「何も難しいことはありません。ただ単に自分の家の一画を、ルビーに提供するというだけの話です。あなたは明日以降も変わりなく学校へ通い、せっせと学業に励んでください」
「……………。」
なんなんだ、コレ。
海外留学を拒んでたら、見知らぬ奴らがウチにホームステイする羽目になった――しかも、異界?から?
しかし魔女の言葉を信じるなら、今までと変わらずに学校も行けるようだし、コイツらは学校までついてくるわけではないようだし――いや待て。ということは、俺には交番に駆け込むチャンスもあるわけか。魔女云々の説明はおいといて「知らない女が押しかけてきて突然家に住み始めた」と話せば、誰かしら救援の手を伸べてくれるのではないだろうか。
魔女はそんなこちらの考えを呼んだように、「第三者や警察等に言ってはなりませんよ?」と念を押してきた。
「これ」
と、魔女はどこかから出してきた紙切れをひらひらさせる。
「見覚え、ありませんか」
「……?」
一瞬、魔女が取り交わす怪しげな契約書か誓約書かなんかだろうか、と身構えたのだが……見覚え?
「あら、憶えてないんですか?では、読み上げて差し上げましょう……。『ここに記したのは僕の身勝手な、けれども素直な気持ちです』――」
「っ……ああああ!?」
思い出した!あれは!
「『突然このようなお手紙を差し上げてしまい――』」
「ああああー!!」
「『驚かれたことと思いますが――』」
「わああああー!!」
「『……ません。ただ、あなたへ伝えたく――』」
「あああっ、ちょお、ちょおおおおおっ!?……ぜーはー、ぜーはー!」
立ち上がってぴょんぴょん跳びはねる俺を尻目に、魔女はひらりと身を躱しテーブルから食器棚の上に避難すると、そこで足を組んだ。そしてその手に持った手紙を――俺が約一年前にしたためた手紙をこちらに示してみせた。
「先程あなたの部屋から発掘させていただきました。このデジタル時代にラブレターとは、雅で古風なことですね、月山驟人?けれど仕舞い込んであったところから察するに、この恋は一度諦めたのでしょうか?しかし捨てることもできずにこうして未練たらしく所持している、といったところでしょうか」
「ぬわあああああ!!」
ぴょんぴょん!
「ざっと目を通させていただきましたが、なかなか素敵な想いが綴られていると思いますよ?本人が見たらさぞかし喜ぶことでしょう」
「か、返してください!」
ぴょんぴょんぴょん!
「なんなら、私が代わりに渡して差し上げても――」
「か、え、せっ!」
漸く、俺は魔女がぶらぶらと垂らした手の先から手紙をひったくる。
ふあああー、と溜め息をついたのも束の間。
「あら?こんなところにも」
「は……?」
「あら、ここにも……、あら、あら、あら」
魔女が広げた両手から、手品のように紙が湧き出る。魔女の手の中で紙はどんどん増えていった。そしてそれには――全部、俺の字が書かれている。
「ちょ――ちょっとおおおおおおおお!?」
増殖した俺の手紙はあれよあれよという間に魔女の手から溢れ、宙に舞い、俺の足元に山のように降り積もっていった。なんだこいつ人間コピー機か!あ、間違えた魔女コピー機か!
チチョリは慌てて手紙を拾い集めている俺を見降ろし、一枚の手紙を持ったまま、勝ち誇ったように言った。
「私達の存在が世間にバレたら、この手紙がどうなるか――わかりますよね?」
「鬼!悪魔!鬼畜!」
「魔女です」
涙目で叫んだこちらの言葉を、魔女は冷静に訂正した。
「と、いうことで明日からルビーをよろしくお願いしますね、月山驟人」
「あああああああ~…………」
本日は、いい天気だ。
お日柄は大変によろしく、屋上に吹く春風は爽やかで心地よく、屋外ランチにはうってつけの、日和。
「あああああ~、のああああ~~…………」
「どうしたんだよ、月山」
隣で鳴川が、昼休みに入ってから延々と呻き続ける俺を見遣って訊いてくる。
「どうもしないいい~。そうだ、どうもしないんだああ。これは大したことじゃないよお?そうだ俺の長い人生の内でただちょっと一ヶ月ほど今が我慢の時なんだひと月なんてきっとすぐ済むすぐ終わる、光陰矢の如しより早く終わる、てか終われえええ」
「……大丈夫か」
「……ああ、もう大分、だいじょうぶ……っぽい」
覗き込んでくる鳴川に答えつつ、俺は弁当の入っている巾着型の手提げ袋に目をやった。
昼休み。
あまりの事態に寝不足も重なってぼけっとしていると、午前の授業はあっという間にゆき過ぎた。昼になって鳴川とともに屋上に上がり、腰を下ろして呻き続けること数分。
鳴川がそっと見守っていてくれたこともあって、好きなだけ呻いた俺は少し気分が落ち着いてきたところだった。
廃人状態の俺を余所に、鳴川はもう持参した弁当を隣で黙々と食べ進めている。
ともあれ朝からなかった食欲もようやく復活してきたので、俺も弁当を食うことにして、ごそごそと持ってきた巾着袋を開けた。
そして――
「…………………………。」
そして、静かに目を瞑ると、己の手の感覚だけで巾着ヒモをきゅっと引き絞り、何も取り出さぬまま元のようにきちんとちょうちょ結びに結んで収める。
「……………………………………。」
目を閉じたまま、しばし、深呼吸。
その間に自然と噴き出た汗がひとすじ、額から頬を伝っていった。
――いま……今、この中に見えたの…………なに?
俺が毎日学校に持参している弁当入れの巾着袋。その中には、昼食の弁当が入っている――はずだった。その予定だった。俺はそれを取り出していつものように広げてここで昼飯を食べる――はずだった。
しかし巾着を空けて一瞬、目に飛び込んできたのは、いつもの見慣れたプラスチック製の深青色の弁当箱――ではなく。
なにやらこぶし大の大きさのもので、表面はでこぼこしていて、小さなトゲがついていて、赤と黄と白色の――昨今どこかで内々に見たことがございます、ゴツイ球体。
「………………。」
「おい、月山?」
体操座りをして頭を抱え込んでいる俺の異変に気付いたのだろう。鳴川の声が耳を打つ。
「なんだよ、さっきから。頭でも痛いのか?」
「……いや」
箸を止めて問いかけてくる鳴川に一つ首を振って、俺は巾着を手に立ち上がった。
「購買に行ってくる……。弁当だと思って、どうやら違うものを詰め込んできたらしい」
「マジか。けど、今から行ってもロクなもの……」
鳴川の声を背に、俺は弁当の手提げを持ってフラフラと屋上を後にした。
階段を下り、にぎわう校舎を後にして、俺は一階の中庭まで降りていく。中庭には昼休みに生徒が寛げるようベンチの置かれたスペースもあるが、植物ばかりで埋め尽くされている薄暗い静かな一角もある。生い茂る草陰にこそこそと分け入り、俺は周囲に誰もいないのを確かめてから改めて弁当の袋を解いた。
中には――やはり俺の見間違いではなく、ごろりとした球体が収まっている。
間違いない。これは今朝方ルビーが調理していた『なんとかかんとかのタマゴ』、だ!
「なんだってこんなもんが入ってんだ……!?なんかのワナか?いや――」
よくよく思い出してみるとなんか俺、自分で入れた気がする。家を出る際てんぱって、テーブルに乗っていたごつごつしたものを掴んで、巾着の中に放り込んだ気がしないでもない。弁当箱の代わりに。
「ぬおおおおお!!」
渡り廊下を渡っていく生徒数人が、がんがんと校舎の壁に頭を打ちつけている俺を気味悪げに見遣り、深く顔を伏せ通り過ぎていく。
――ていうか、せっかく作った弁当!限られた時間の中がんばって作った俺の昼メシ!
台所にぽつんと置かれたままこれから腐っていくであろう弁当を思って、俺の心は痛んだ。せめて奴らに食ってもらうためにダメ元で家に電話をかけてみるか?いやでもあの女、自転車のことチャーリーとか呼んでたぞ?んな奴に、まともに電話が扱えるわけがない。けたたましく鳴っているナゾの物体――電話――の受話器を取り、耳に当て、「もしもし?」なんて芸当はできないだろう。下手をすれば何かの危険物と見做されて、魔法かなんかで電話機丸々破壊されかねない。
でもあいついっちょまえにガスコンロは使ってたよなぁ。灰だらけにしてたけど……。いやしかしあれは魔法かなんかを使った跡かもしれないし……。そーいや火の元大丈夫か?ちゃんと家電扱えてるのか?そういう、きちんとした取り決めをまったくせずに家から出てきてしまった。帰ったらまず膝を交えて奴らと家事全般・安全管理についてじっくり話をせねば――いや、だからなんで俺そんなことしなきゃなんないのおおお!?
よりにもよって午後の最初の授業は、体育だった。
結局昼は何も食べずにすきっ腹を抱えたコンディションな俺は、当然のごとくチーム内で凡ミスを連発した。体育は男女別に別れた上で二クラス合同だ。男子はサッカー、女子は屋内で卓球を行う。つまりこの時ばかりはいなくてもいい隣のクラスの男子、桐沢も一緒に授業を受けるわけで――パスされたボールに蹴躓き、空蹴りし、親切にも敵方にボールをパス、さらに華麗なる顔面ヘディング技を披露した俺は――桐沢に指差されて爆笑された挙句、大敗した。
――あああ、ハラ、減ったぁ……。
ボロボロで教室に戻り、体操着を机の横にかけた俺は次の教科の準備をすべくザックを机の上に投げ置く。ええと、次は数学の授業。教科書は――
「………………。」
カバンを覗き込み、俺は開けかけたザックの口をばーん!と音を立てて閉めた。
隣の席の奴が、ぎょっとしてこちらを向く。それに引き攣った愛想笑いを返してから、俺はギクシャクと両手で抑え込んだザックに向き直った。
――た、たたたっ、た、タマゴ……!タマゴ、が……!
かえっとる……っ!
昼に見たきりの『なんとかバードの卵』。
口を縛った巾着袋の中に入れ、ザックに仕舞ったハズのゴツイ卵。その殻が、ザックの中でバラバラに砕けていた。内側から壊され飛び散って踏み潰され、粉々に。つまり………
ヒナが、孵っていた。孵化していた――ザックの暗がりの中に、なにかがいた。赤剥けでくしゃくしゃしわしわの、なんかエイリアンみたいなとてつもなく気持ち悪いものが、踏みしだいた殻の上でぷるぷると震えて、こちらを見ていた!
――いやあああああ!!
俺は心の中だけで全力の悲鳴を上げ、現実には頭を抱えて机につっぷした。
――なにコレなにコレ!誰かあ!助けて!
もう教科書を取り出すどころではない。俺は震える手でザックのファスナーを閉め、平常心のカケラを掻き集めつつ元通りザックを机の横にそっと提げる。
落ち着け。とりあえず落ち着け俺。ザックの中を見られでもしなければ、そこに得体の知れない生物がいるなんて誰にもわかりゃしない。いつも通りに――うん、いつも通りに授業を受けよう。教科書なんていらない。忘れたことにしてノートだけとろう。その後のことは帰宅してから『奴ら』に相談すればいい話だ。とにかく、授業に集中するんだ。余計なことを考えないように――
「プウー……」
「……?」
数学の授業が始まり静けさを取り戻した教室の中で、微かに、何かの音が響く。
気のせいか音は俺の近くから聞こえたようだった。
「プスーーー……」
「プー……」
「プウー、プー……」
「……………………。」
――気のせいでは、ない。心なしか、音はどんどんひどくなる。俺の、近く……机の横にかけた、ザック、のなか、から…………まるで放屁のような音、が……
「プウーーー……」
ふと視線を感じて顔を上げると、こちらを振り返っているクラスメイト数名。眉を顰め、鼻をつまんでみせている者もある。
「……せ、せんせえ!すいません!」
俺は思いっきり椅子を蹴って、勢いよく立ち上がった。
「とっ、トイレ!行かせてください!」
「あ、あわわわわわわ、あわ、どーしよコレ!」
どうやら中で「プープープープー」と屁……ではなく、鳴き声――を上げているらしいヒナ入りのザックを抱え、俺は誰もいない廊下を右往左往する。
「ハラの具合が悪いから」と授業を抜けてきたはいいものの、延々トイレに篭っているわけにもいかないし、音の鳴るザックを手に保健室に行くわけにもいかないし……。
自然、足は昼休みにいた屋上に向いた。階段を二階分上がり切ってドアを開けると、そこは開放的な風の吹く屋外。俺は澄み渡った青空のもと、ザックを抱えたままその場にへたり込む。
もうこのまま早退しちまおうか。ヒナをどこかに隠すにしても中を開けて本体を取り出すのは怖いし、かといってザックごと放置するわけにもいかない。家に帰った方が早い気がする。
「サボりですか?月山驟人」
「うおおわあうえ!?」
突然視界いっぱいに至近距離で現われた見覚えのある顔に、俺は悲鳴を上げつつ反射的に右手を振るった。
手の平に柔らかなものが当たった感触と、ばちん、という小気味よい音が響く。
恐怖と共に脳裏に焼きついたその顔は――
「……ヒットマン!」
「魔女です」
と、死神魔女女――チチョリは訂正し、
「強いて言うならば、ヒット『ウーマン』です」
「どーでもいい!」
チチョリは俺のツッコミにも無表情のまま、「それにしても」と呟いた。
「出会い頭に顔面殴打とは……肝が据わっていますね、あなた」
「す、すみませんでしたぁああ!」
俺はその場に土下座する。驚きのあまり思わず平手打ちをかましてしまったが、この女、謝っとかないと何をするかわからない。
「眼鏡を、取っていただけますか?」
「へ?」
顔を上げチチョリが示す視線を追うと、少し離れた所に黒縁の眼鏡が落ちていた。今のビンタで俺がふっ飛ばしたらしい。慌てて拾いに行き、チチョリに手渡す。
「……目、悪いんですか」
「ただの変装です」
「変装??」
てかよく見るとチチョリはいつもの黒ワンピではなく制服を着ている。それに気付いて全身おぞけが立った。
「な、なんでそんな格好で、こんなところに……」
「監視です」
誰の、とは問えない。そんなの決まっている。
「そ、そんな格好で潜入しても……すぐに先生にバレますよ!」
「今日は入学手続きに来ました」
「にゅうがくてつづき……?」
俺は目を点にしてオウム返しに問う。
にゅうがくてつづき?
「ええ。明日から、こちらの学校でお世話になります」
「は?」
死神が入学してくる?この学校に?
「あ、あなた、住所とか……保護者とか、こっちの世界にいたんですか!?」
「いるわけないでしょう。住民票や戸籍などの書類のことを言っているのですか?そんなもの、いくらでも偽造します」
「…………。」
うおお、なんか怖いけど……今は丁度いいタイミングだ。
「あの、これっ!」
俺は魔女に向けて、抱えていたザックを突き出した。
「これ、持って帰ってくれませんか!?」
「?」
「け、今朝間違えて持ってきちゃって――教室で鳴き出したもんだから困って」
俺はザックのファスナーを開け、中が見えるようにチチョリの方に広げてみせた。
「プスー……」
日の光に反応したのか、さっきまで静かだったヒナが一声鳴く。それを見て、チチョリは「ああ、」と事も無げに頷いた。
「ベッシャンバードの卵ですか。孵化したのですね」
そして彼女が続けた発言は、耳を疑うものだった。
「丸焼きにしましょう。今夜のおかずにしてください」
「へっ!?――ちょ、ちょおお!!待って待って!」
なにやらブツブツと呪文を唱え始めたチチョリを止めると、彼女は不思議そうな顔をした。
「帰ってから、焼きたてを食べたいですか?」
「いやいやちがくて!なんか、これもう生まれてますし……!動いてますし、それを焼いて食べるってゆーのは、なんか……ちょっと……」
「?」
「か、かわいそう?というか……気持ち悪い……というか……」
「どっちです」
チチョリが心底面倒くさそうに眉を寄せる。
「と、とにかく!殺すんじゃなくって、どっかに持って行って放すとか、まき場で飼うとか!そういう方向でお願いしたいんですけど……!」
「……別にそれは構いませんが――」
チチョリは少し考える風にした後、言った。
「月山、驟人。あなたは、なぜその鳥を助けたいのですか?」
「へ?」
「教室で鳴かれて、困ったのでしょう?邪魔なら、トイレにでも流してしまえばそれでよかったのでは?」
「浄化槽の人が困ると思います。いや、その前にトイレが詰まって掃除当番が困ります」
「まあそうなるでしょうが、」と魔女。
「同じことです。あなたはそのヒナを埋めてもいいし、捨ててもいい。今ここ――屋上から放り投げて、知らぬフリをしたっていいわけです。あなたにはその鳥を助ける意味も理由も何もないハズですから。けれどあなたは、わけのわからない、自分でも気味が悪いと感じている生き物を、生かそうとしている。――なぜです?」
――そういわれてみれば、そうだ。
見た限り、ヒナは可愛げのカケラもない、むしろ気色悪いグロテスクな外見の生き物だった。なのに、どこかに捨ててしまうのには抵抗を感じる。
俺はベッシャンバード入りのザックを抱えたまま首を捻った。
「なんで、でしょう………?」
小さく呟くと、魔女は形のいい眉をくいっと上げた。
「こちらに訊かれても困ります。質問しているのは私ですから」
勘に触る言い方をして、チチョリは俺から視線を外し、眼鏡の位置を直す。
「プスー」、とヒナが、ザックごしにもぞもぞと動く気配。
「まあ……あなたの家で飼っても問題ないでしょう。ニワトリのようなものですし」
「…………。」
「生憎ですが私はこれからやることが山積みです。その鳥は月山驟人、あなたが自分でなんとかなさい」
「えええ!?」
魔女は俺の抗議を完全無視、すっと空に向けて手を挙げると素早く横に振った。
「?」
釣られて見上げると、何か黒い塊がすごいスピードで一直線に急降下してきた。風圧とともに「バサッ」という羽音。一瞬瞑った目を開けると、チチョリの腕には漆黒のカラスが止まっていた。
「…………。」
あっけにとられて見ているこちらを、カラスはギロリと一睨みしてくる。
――な、なんか怖いこのカラス……。
「フロウ。戻ります」
「――っ!」
瞬間、周囲に突風が巻き起こった。つむじ風のなか薄く開けた目で見ると、チチョリの腕に止まっていたカラスは消え失せ、替わりに彼女の手には今までなかった箒が握られていた。昨日の黒猫――ポラムが箒になったことから考えるに、おそらく今はカラスが箒に姿を変えたのだろう。
――ほ、ほほー、今度はカラスか。奴らの世界では猫が箒になったりカラスが箒になったりするんだな。覚えとこう、今度テストに出そうだから。
――ていうか――
「ちょっと!飛んで行くんなら、ついでにこいつ持ってウチ寄ってくれたらいいじゃ――」
箒に跨って屋上の手摺に立ったチチョリに向け、俺は叫ぶ。しかしながら彼女は『何一つ聞こえていません』といった体で、すいっと滑るように空中に浮かぶと、制服のままで青空へ飛立ってしまった。
「…………。」
どうでもいいけど本当に箒で空飛ぶんだな、魔女って……。
「プウー……」
非現実的光景を前に固まった俺を余所に、ザックの中でベッシャンバードが一声鳴く。
俺ははっきりと途方に暮れつつ、ぐんぐん遠ざかっていく魔女の後ろ姿を見送っていた。
帰宅してまず目に入ったのは、ウチの屋根にのぼったルビー。箒猫と一緒に腰かけ、ぷくぷくと長閑にシャボン玉を吹いている。
「……………………。」
午後の授業を諦めて学校を早退して来た俺の口から、自然と溜め息が漏れ出た。こっちの気も知らず、こいつらは俺んちで今日一日なにをしていたのだろう?のんきなものだ。
俺はのろのろと庭の門扉を開ける。門が立てる甲高い音を聞きつけて「あっ」と、頭上から声が降ってくる。
「シュート!おかえりなさーい!!」
仕方なく見上げると、ルビーが丸まって眠っていた箒猫――ポラム――を鷲摑かんで、ひらりと飛び降りてくるところだった。「ぎゃあー」と悲鳴を上げつつ、ポラムが箒に姿を変える。
そのままルビーは地面に激突することなく、片手に箒の柄を握って、ふんわりとシーツが落下するように俺の目の前に降り立った。
「あのね、あのねぇシュートぉ!今日ね、ルビー、おうちでね~!」
「待て。とにかく待て!落ち着けってコラ!」
なぜか体当たりして腰の辺りにむしゃぶりついてくる変態魔女をひっぺがしながら、俺は叫ぶ。
「頼むから、まず俺の話を聞いてくれ……ルビー、卵が、な。その、卵が孵ってな……」
「プウ~~」
「!」
ザックの中のベッシャンバードの鳴き声に、ルビーが眉を寄せて飛び退く。
「シュート、おならー!?やだ~!」
――はっきりしてんなぁ、コイツ!
「お前、居候の身でちょっとは発言遠慮できないのか!それから、これは俺のオナラじゃないから!ニオイもないはずですけど!?」
「でも、音したもん!ルビーは、こいてないもん!」
「だから、これは屁じゃなく鳴き声で……」
見せた方が話が早い。俺はザックを開けて音の正体が見えるようにルビーとポラムの方に向けた。
「およ~!?」
「あんさん、それ……もしかしてベッシャンバードのヒナ?」
しわしわの赤剥けた鳥を見て、ルビーが歓声を上げ、ポラムが驚いたような声を出す。皆の視線を受けてヒナは黙ってぷるぷると震えている。
「むむ、シュート、朝ごはん食べ損ねたので、リベンジ!?おやつ!?」
「いやいやいや。実は、かくかくしかじかで………」
俺が説明を終えると、黒猫の姿に戻った――戻ったというべきか変身したというべきなのかわからないが――ポラムは、「ふうん」と感心したような息を漏らした。
「あんさんが育てるの?ま、メスなら卵が期待できるけどさ……」
言いつつ鼻を寄せ、ふんふんとニオイを嗅ぐ。
「てか、こりゃ、すぐにあっためた方がいいね。……暖炉に火は熾こせる?」
「は!?」
暖炉に、火?俺は客間にある古ぼけた暖炉を思い起こした。
「もう五月だぞ?てか、使ったことないし、暖炉とか………」
俺が言うと、ポラムは真ん丸な黒目を見開き、さらに真ん丸くした。
「うそだろ、暖炉使わないって?そいじゃあ、冬はどうしてんのさ?」
「どうって……フツーにエアコン使ってるけど」
こちらの言葉は、ポラムにはうまく通じなかったようだ。首を傾げ、
「よくわかんないけど、暖炉熾さないってことは薪のストックもないってことだよね。とにかくその、『えあぽん』ってやつであっためてやってくれよ。このヒナ、このままだと弱っちゃうよ」
「……は?マジで?こんなにあったかい日和なのに?」
「マジさ」
と、黒猫は頷く。
「鳥の体温はあんさんやおいよりもずっと高いんだ。けどヒナはまだ毛がほとんどないだろ?親がしっかりあっためてやんなきゃ、寒くて弱っちゃう。あとは、ごはんだけど……ええと、なに食べるんだっけかな。毛虫とかかな?」
――毛虫、ねぇ。
俺は緑豊かな我が家の庭を見回した。
「……芋虫っぽいのなら、たぶん庭の土ひっくり返せばいると思うけど……。確か、伯母さんが庭いじりしてた時にたくさん出てきて騒いでたから……」
いや嘘。騒いでたのは俺だけど……。
「よっし。そいじゃ、それをすり潰して与えよう」
「す、すすす、すりつぶ……芋虫を!?すり潰すのか!?すり鉢とかで!?ごりごりと!?」
「なんだよ、まさかできないっていうんじゃないよね……」
心底呆れた風に猫が首を振る。釣られて俺も首を振る。できません。というか絵面すら想像したくありませんけど、なにか!?
「ルビー、手伝うよ~!ごっりごりー!」
万歳をして、なぜか嬉しそうにルビーが叫ぶ。うおお。さすが魔女!悪魔!
「そいじゃ、虫の方はルビーとおいに任せて、あんさんはヒナをあっためるのに専念してくれる?箱持ってきて、箱の底に古紙とか適当に敷き詰めて。毛布とかあれば置いてやってね。なるだけ早く。急がないと死んじゃうよ」
「死ぬのか!?」
ポラムによると、時は一刻を争うらしかった。よくわからないままに俺はてきぱきと指示を飛ばす猫に従い、館内を駆け回る。
寝室のエアコンをつけて、温度と出力を最大にし、倉庫から空き箱を発掘してきて、中に新聞紙やら端切れやらふかふか毛布やらを根限り詰め込む。そこにベッシャンバードのヒナを入れ、なんやかやで周りを包み込むようにしてからエアコンの温風の前に据える。と、ぷるぷるしていたヒナは満足したのか丸まって大人しくなった。いや、いよいよ弱ってきて動きが鈍っただけかもしれないが俺にヒナの心中を知る術はない。
そうこうしているうちに、庭でわーきゃー騒いでいたルビーが手にどろどろした気味の悪いものを持って二階に上ってきた。
「芋虫のすりおろしー!」と言いつつルビーが入室すると、それまで鎮座していたヒナはぴくりと頭をもたげ、けたたましく鳴き叫んだ。「プウー、プフウウウー!プピーイ!」
――いやいやいやいや……。
ルビーのすりおろした芋虫ジュースを試行錯誤しながらヒナに与えること一時間弱。
やがてたらふく食べたヒナは、疲れたのか眠ってしまった。
プースーと寝息を立てるヒナを興味津々で見詰めつつ、ルビーが「シュート、べっしゃんに名前つけよー!」と元気よく言った。
「一緒に暮らすなら、名前は必要なのだー!」
「ああ……まあ……そうだな……」
寝息とともに赤剥けた腹を膨らませたり引っ込めたりしているヒナを見遣って、俺は唸る。
どんなエイリアンにも名前は必要だろう。
「なんか、かわいーのがいい!」
かわいいの、か。あんまりかわいくない外見だけどな……。
「プー太」
口をついて出た名前に、ルビーとポラムが目を瞬かせた。
「あ、いや……プープープープー鳴くから………」
あまりに幼稚なネーミングを取り繕うように、俺は顔の前でぱたぱたと手を振る。
「ぷーた!かわいい~!」
「決定だね」
「え……」
こちらの意に反して、捻りのない命名は二人のお気に召したようだ。マジか……まあなんでもいいんだけど。
「ぷーた、おっきくなるといいねー!」
「なるさ。ただし、これからは寝ずの番になるだろうからね。夜も交替で世話するよ。あんさんも、覚悟しといてよね」
箱の脇にちょこんと座ったポラムがプー太を眺めつつ言う。俺は再びマジかよ、と思いながらも頷いた。
にしても、おかしなものだ。つい今朝がたには朝食の献立にしていた、それと同じものを……今は皆で気にかけて、名前をつけ、愛情を感じ始めているのだから。
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