ドウ・ユー・アンダスタン? ~あなたの心を離さない、“ミステリアスな”あの子~

海藤史郎

1-クエスチョン

 遠くから聞こえる誰かの声を手繰り寄せるように目を開けると、顔を覗き込んでいた女が安堵した表情を浮かべた。

「良かった。気が付いたんだね」

 女はそう言うと立ち上がり、視線を流した。

 男は頭を抱えながら上体を起こすと困惑した表情で女を見上げた。

「おはよう。私のこと、覚えてる?」

 女が男に問う。男は答えようとして、顔を顰めながら喉元を押さえた。激痛で声が出ないのだろう。

「良いよ、無理に声を出さなくても。ただ、首を縦か横に振ってほしいかな」

 女の言葉に男は首を横に振る。

 男の返答に女は「そうだよね」と笑うと、どこからか一冊のスケッチブックとペンを取り出した。

「あのね、私、どうしてもあなたに分かってほしいことがあるんだ」

 スケッチブックとペンを渡しながら言う女に男は不思議そうな表情を浮かべる。だが女の口はそれ以上開かない。

 男がその二つを受け取ると、ようやく女は再び口を開いた。

「ゲームをしよう。

 これからあなたは私に質問をする。私はその問いに『はい』か『いいえ』しか返さない。あなたはその答えから導き出される『あなたに分かってほしいこと』に辿り着き、答えなければならない。

 あなたは知らなければならない。どうしてこんな部屋に閉じ込められたのか。どうして私があなたと話したがっているのか」

『それは僕が知らなければいけないこと?』

 男が素早くスケッチブックに疑問を記す。女は「勿論」と嬉しそうに笑った。

「始める前にある程度の質問なら答えるよ。なんでも訊いて」

 男は仕方なさそうにペンを走らせた。

『君の名前は?』

「私の名前は愛那。元村モトムラ愛那アイナ

『君は僕の知り合いなの?』

「『はい』か『いいえ』だけで答えられる質問を今するのは得策じゃない」

『どうして僕達を攫ったの?』

「関係ない人を巻き込んでしまったのは悪いと思ってる。でも仕方ない。どうしても、あなたに分かってほしかったんだから」

 男が顔を顰めると、女――アイナは拍手を求める役者のように腕を広げた。


「舞台は整った。

 さあ、始めよう。

 私達の物語を」


 アイナは華麗にターンを決めると、促すように男へ手を伸ばす。

「最初の質問は?」

 男が「そう言われても」と言いたげな表情を浮かべる。だがいくら視線で訴えかけてもアイナはマネキンのように動かない。

 男は溜息を吐くとペンを動かした。

『金銭目的の誘拐?』

「いいえ。あなたのお金に興味なんて全くない」

『愉快犯?』

「質問の意図が分からない。答えられない」

『なんかの映画みたいに、この様子を見世物にしてる?』

「いいえ。この様子をエンターテイメントとして提供しているわけではない」

 男は部屋を見回す。

 白一色の部屋だ。窓はなく、扉はアイナの後ろで壁と同化している。アイナを突き飛ばせば扉から出られそうなものだが、男を拘束せずにゲーム染みたことが出来るアイナの余裕ある態度から察するに、施錠でもしているのだろう。見えていないだけで武具を所持している可能性もある。

 監視カメラが見当たらないことを確認したのか、男は再びペンを走らせた。

『僕の声が出ないことに意味はある?』

「いいえ。ここへ運ぶまでに目覚められると不便だから、しばらく声が出ない薬を使わせてもらっただけ」

『妹は無事?』

「質問の意図が分からない。答えられない」

 男が顔を顰めながらペンを走らせる。

 ペンが文字を綴る音が室内に響き渡る。時計も机も椅子もなにもない空間で、その音はとてつもなく長く感じられた。

 男がスケッチブックをアイナに向ける。

『妹から『助けて』と電話があった。GPSを追っていると後ろから薬を嗅がされて、気が付いたらここにいた。

 妹も誘拐したんだろ? 妹は無事か?』

「そういうことか。

 答えは、はい。春香ちゃんは無事だよ」

『妹の名前は妹本人から訊いた?』

「はい。春香ちゃんの名前は春香ちゃん本人から聞いた」

『この誘拐には春香も関わってる?』

「はい。あなたが春香ちゃんの兄だから、とだけ言っておこう」

『春香がここにいないことにも理由がある?』

「はい。春香ちゃんは理由があってここにいない」

『ここはどこ?』

「それはこの物語には関係ない。答えられない」

 男が身じろぐ。

 察したアイナはしゃがみ込むと男の顔を覗き込んだ。

「残念。あなたの物は衣服以外全部没収したよ。

 ここから出る方法はたった一つ。あなたが問題を知り、解答をすること」

 男の表情が不貞腐れたようなものに変わる。アイナはそんな男に無言で笑い掛ける。

 男は面白くなさそうな顔のまま再びペンを走らせた。

『君は僕を知ってる?』

「はい」

『君は僕と会ったことがある?』

「はい」

 男が目を見開きアイナを見つめる。急いでスケッチブックを捲ると、前のページを示した。

『君は僕の知り合いなの?』

「――はい」

 男が息を呑む。ペンが乱暴に走った。

『君は僕と同じ学校に通ってる?』

「いいえ」

 手掛かりを失ったかのように男の肩が落ちる。

 アイナは楽しそうに笑うと、言葉を続けた。

「私はあなたと同じ大学には通ってない」

 弾かれたように男が顔を上げる。アイナの顔をしばし見つめると、再びペンを走らせた。筆跡がどんどん荒いものになっていく。

『君は僕と同級生だった?』

「はい」

『君は僕と同じ高校だった?』

「はい」

『君は僕と同じクラスだった?』

「はい」

『君は当時から僕を知ってた?』


「はい」


 アイナが、嬉しそうに微笑む。

 男がその笑みに見惚れていると、アイナはくすくすと笑った。

 我に返った男が問答に戻る。

『君は教室で目立った子ではなかった?』

「はい。いつも教室の隅で、数少ない友達と過ごしてた」

『君は真面目に宿題をやってきてた?』

「はい。提出率はあなたより高かった」

『君はいつも三つ編みだった?』

「はい。校則が厳しかったから、仕方なくだけど」

 脳裏に学生時代の記憶が蘇ったのだろうか。男が子どものようなきらきらとした瞳でアイナを見上げる。

 アイナはそんな男を仕方なさそうな目で見下ろした。

『君は僕と話したことがあった?』

「いいえ。私があなたと話したことはない」

『いつ僕を攫おうと思ったの?』

「『はい』か『いいえ』で答えられない質問には答えられない」

『僕を攫おうと計画したのは最近?』

「難しいね。強いて言うなら、はい、かな」

『ずっと僕を攫いたかった?』

「いいえ。あなたと話したかったのは、ずっと前からだけど」

『攫わないと話せなかった?』

「はい。あなたに分かってもらうには、こうするしかなかった」

『僕と話したかったけど、最近までどう話せば良いのか分からなかった?』

「はい。最近やっと、こうすれば良いんだって気付いた。だから決行した」

『計画したのは君?』

「質問の意図が分からない。答えられない」

『僕の誘拐を思いついたのは君?』

「はい。私があなたを攫ってしまおうと考えた」

『僕が「はい」か「いいえ」でしか答えられない質問をしないといけないというのも、君が?』

「はい。どうしても、あなた自身で、辿り着いてほしいことが、あったから」

 男が息を呑む。男の瞳は、熱を持ったアイナの瞳に釘付けだった。

 男の震える手が文字を綴る。

『君は僕のことが気になっていた?』

「はい」

『君はずっと僕と話したかった?』

「はい」

『君はずっと僕と話してみたかった?』

「はい」

『君はいつでも僕を見ていた?』

「はい」

 アイナが男の前で膝をつく。真っ直ぐ男を見つめる姿に、男は紅潮した笑みを浮かべた。

『君は僕を気に掛けてくれていた?』

「はい」

『僕は君を知らないのに?』

「はい。いいえ。あなたが私を知ってても知らなくても、私の想いは変わらない」

 男がスケッチブックとペンを床に置きアイナへ手を伸ばす。

 男の手が触れる直前、アイナは立ち上がると悪戯をする女神のように笑い掛けた。ゲームを終わらせるつもりはないらしい。

 男は「ノった」とでも言うように口端を持ち上げると、再び道具を手に取った。

『君はずっと僕に言いたかったことがあったんだね?』

「はい」

『君は今から、僕に告白しようとしてるね?』

「ふふっ、はい」

『君は、僕が、好きなんだね!?』


「いいえ」


 空気が変わった。

 時が止まったような錯覚に陥りそうになる空気の中、動く者は誰もいない。

 予想外の言葉に男の表情が、身体が、固まっていた。

「あなたは私と同じ高校だった。中学は? 同じ町の中学に、あなたはいた?」

 男の視線が左右に揺れる。

「そうだよね。つまり、あなたは中学まで、違う町に住んでいた。そうだよね?」

 男の視線が僅かに上下に揺れる。

 アイナは手を差し伸べると、男の手に――男が持っているペンに、振れた。

「答えて。ちゃんと伝わるように。分かるように。『はい』か『いいえ』で」

 耳元で囁かれたアイナの言葉に男の身体が揺れる。男は震える手で、ゆっくりと、ペンを動かした。

『は い』

「うん、いい子」

 アイナが空白を指す。呆然とした表情のまま、男はそこにもう一つの選択肢を書き加えた。

『い い  え』

 アイナの指が、手が、離れる。

 立ち上がり、床に座り込んでいる男を見下ろすと、唇で弧を描いたまま言葉を紡いだ。

「中学生の頃、あなたは転校を薦められたことがあったね?」

『はい』

 男がスケッチブックの「はい」を丸で囲んだ。

「あなたは今でも、理由がある人にならなにをしても良いと思ってるね?」

『はい』

 丸が増える。

「ところで、あなたはSNSで何度もアカウントを作り直してるね?」

『はい』

 いくつも。

「何度もアカウントを消す理由は、特定されると面倒だから、だね?」

『はい』

 何重に。

「あなたがアカウントを作り直すのは、SNSでの行為があなたの鬱憤を晴らすために必要だから、だね?」

『はい』

 丸が。

「あなたの投稿で人生が変わった人がいることは知ってる?」

『はい』

 歪になっていく。

「あなたはその人を見て『ざまあみろ』と思った?」


「はい」


 男は掠れた声を発すると、地面でひっくり返っていた虫が目の前で自転車に轢かれたのを目撃したような笑みを浮かべた。

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