夏と夜空の1等星

猫野ぽち

1日目

蝉の音が屋根に響く午後1時。

生ぬるい風しか運んでこない扇風機にため息をつく。


「はぁ、早く帰りたいなあ。」


自分でも驚くほど低く出た声は母さんも親戚もいない静かな居間によく響いた。


17回目の僕の夏。

今年の夏休みは早く宿題を終わらせて友達と遊ぶ予定だったのに、叔母のいる田舎町に連れてこられてしまった。


叔母の家に着いて早々、憂鬱だ。

それは叔母に会いたくないわけでもこの町が嫌いなわけでもない。

が、叔母の家のエアコンは猛暑の中壊れているのだ。いくらなんでも帰りたくなるのは当然だろう。


1週間、ここで過ごす予定なのだと母は言っていた。今は母さんも叔母も出掛けていて家には僕ひとり。


蝉の声がさらに大きくなってガンガンと頭に響く。

うだる暑さの家の中で呻くだけの1週間なんて、嫌だなあ。


貴重な夏休みの7日間、どうせならささやかでもこの町でしかできないことがしたい。そう思って扉を開けて外に出た。

絵の具に筆にパレット、そして小さなキャンバスだけを持って。






昔はこの町によく訪れていたが、部活が忙しくなったここ数年、来るのは久しぶりだ。


道端の少し傾いたバス停も、シャッター街の中にポツンと浮かぶ駄菓子屋も、誰もいないワンマン列車が揺らす空気も懐かしい。


東京に住んでいる僕が見ると別世界のように見えるけれど、どこも情緒溢れる景色が広がっている。


寂れた町に目移りしながら、一本しかない細い道を進む。

ここでしか描けない美しい気色を求めて歩く。

早く筆を右手に取って、早くキャンパスに彩りたい。



「そんなもの描いたって…」


ふいに、いつかの母さんの声が脳裏に蘇った。

それを振り切るように、パレットをぎゅっと握りしめて足を前に動かした。


 




綺麗な景色を求めてたどり着いた場所は町の堤防だった。


日を差したラムネ瓶みたいに輝く川が、

名前も知らない野草の息づく姿が、自然と僕の頬を緩ませた。


道の端に座る。

水彩絵の具をパレットに出して、

下書き無しで思うままに色を広げる時間は

これ以上なく自由だなあ。


この美しい景色を今すぐ絵に残したいと筆がすすむ。コンクリートの地面から伝わる熱さも忘れて絵に没頭する。


青色絵の具をたっぷり使って空を描きあげる。ふぅ、と息をつくと、そのとき近くから聞こえたのは爽やかなアルト。


「綺麗な絵やねぇ。」


その澄み切った声の方に顔を向けると、

一人の可憐な少女が立っている。


僕と同じ高校生くらいかな。

肩までの綺麗な黒髪が静かな風に揺れた。



僕は驚いて、ほんの僅かに間が開いてから返事をする。


「あ、ありがとう…。」


少しうろたえたのは、未見の少女にいきなり話しかけられたからではない。絵を褒められたのなんて初めてだったから。

 





彼女と会ってから、はじめに交わしたのは少しぎこちない自己紹介だ。


「ぼくはセイ。晴れって字でセイって読む。」


自己紹介なんて久しぶりだから緊張して、

下の名前しか名乗らなかった。


気にせず彼女も翡翠の翠でスイだと、下の名前を名乗る。

彼女は生まれてからずっとこの町に住んでいるのだと言った。


「どこからきたん?この町の子じゃあないよな

ぁ。」


スイの透き通る声と訛りが心地よく混ざる。


この町に来た経緯を話す僕に相槌を打ちながら、彼女はまた穏やかに微笑んだ。






会ったばかりだけど、波長が合った僕らは思いのま

ま、それぞれの話をした。


「僕は家の都合で、この町で7日間過ごすんだ。東京から来たよ。僕の住んでる場所は忙しないけど明るい街だよ。」


「私、猫飼っとるんよ。もう、毎日擦り付いてきてめちゃくちゃ可愛い。」


「今年もほんとに暑いね。」

「ほんとにね〜。」


こんな調子でしばらく会話を続けていた。

この町に来た経緯とか、お互いの好きなとか、

ただ暑くて煩わしいねとか。


数年仲良くしている親友とするみたいに何気ない会話。



そしてスイはその会話の中で、ほとんど毎日この堤防に来ているのだと言った。ここは暑い夏でも風が気持ちいいのだと。






初対面の子とこんなに話すのは初めてだ。


それはたった1週間、ひとときの出会いだと、そう思ったからなのかもしれない。

お互いの苗字を知らなくったって、どんなことを話したって、1週間が過ぎればいつもの生活に戻るのだから。


好きなだけ話した後、僕はまた絵を描き始めた。

隣でスイが見ている。少し気恥ずかしいけれど。


「綺麗な絵やねぇ。」


スイが初めて言ってくれた言葉を思い出す。

また嬉しくなって口元が綻んで、筆をすすめた。


気づくと、ラムネ瓶みたいに光っていた川は、夕陽を浴びて橙色になっていた。






「そろそろ帰らないと…。」


濃くなった影が僕の焦燥感をわずかに煽る。

もう夕飯の支度は終わっている頃だろう。


スイを振り返ると、少し名残惜しそうに手を振っている。


「この場所、夜に来ると星がほんとに綺麗やから、また見に来て…!」


少し遠くから頷いて、僕も手を振る。



星か。

僕の住む場所は明るすぎて、星なんてなかなか見えないけれど、この町からはどんな景色が見えるのう。


真っ黒な空に煌めく星を想像しながら、帰路に着いた。






想像通り…と言えばそうなるが、勝手に遅くまで外出して、母さんを怒らせてしまったようだ。


「こんな遅くまで…!」

と怒られたが、家の中の暑さのせいか母はあまり声は張らなかった。


甘いらしいスイカを叔母が切ってくれたが、母さんの顔色を気にしてあまり味がしない。


こんな夜に出かけると言ってしまうと、母の怒りはさらに膨れるだろう。

今日は星、見に行けないなぁ。ため息が漏れた。


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