星の欠片を拾い集めたら

春雷

星の欠片を拾い集めたら

 僕が二度目の失恋をした後に見た星空は、憎らしいほどに綺麗だった。

 涙で星の光が滲んだ。全て投げ出してどこか遠くへ行ってしまいたいと思った。どこか遠く。笑わせる。一体どこへ行くというのだ。

 人生って難しい。何もかも上手くいかない。そんな風に思えた。あんなに好きだと思っていたのに。どうして上手くいかないのだ。あんなに好きだと言ってくれたのに。

 気持ちはいつの間にかだんだんと離れていく。それはとても悲しいことだ。少しのずれがいつしか埋まらない溝となって、僕らは手を取り合うこともできなくなる。

 僕が悪いのか?それとも彼女が悪いのか?

 僕は誰も悪くないという気がした。自然とこうなったのだ。僕らは出会った時から、別れる定めだったのだ。

 そう思ってみても、やはり涙は流れ続けた。


 それからどうやって帰ったのか、記憶が定かでない。いつの間にかベッドで眠っていた。土曜日の朝だ。窓を開ける。太陽の光が眩しい。嫌になる。太陽は意地悪で僕を照りつけているのだ。そんな風に思ってしまう。

 とりあえずリビングに行き、水を飲んだ。僕は実家で暮らしている。だからいつもリビングで両親と顔を合わせる。でも僕は両親と仲が良くない。大学に入り、ますます関係は悪化する一方だ。両親は僕を思い通りにしたかったみたいだ。僕はそれを拒否した。両親の勧める大学に入らず、あいつとはもう仲良くするなと言われた友達とも未だに交流がある。僕の反逆は幼稚なものだろうか?でも両親のエゴで僕の人生を決められたくない。だっておかしいじゃないか。僕の人生は僕のものだ。両親のものではない。

 僕は市立図書館に行くことにした。僕は何か嫌なことがあると、図書館に行く。静かで、素敵な本がたくさんあるからだ。様々な本に囲まれ、僕は僕のままでいいのだと思える。

 歩いて図書館へ向かったのだが、入り口で閉館の文字が見えた。

 絶望的な気分になった。蝉の声が後ろで鳴り響いた。ひどく暑かった。

 自販機でサイダーを飲んだ。僕の心もこんな風に爽やかで透き通っていたらな、なんて馬鹿なことを考えた。

 これからどうしよう。家は両親がいるから居心地が悪い。大学の図書館は開いているかもしれないが、知り合いに会うかもしれないから、何となく気が進まなかった。

 どうするか。

 とりあえず海に行こうと思った。どうしてそう思ったのかはわからない。ただ、海に行けば何かが変わるかもしれないと思った。でも、砂浜には人が大勢いる。それは嫌だ。人気のない場所がいい。できれば砂浜がいいんだけど。

 まあ、良いか。人がいても。

 結局近所のビーチに行くことにした。自転車をこぐ。風は僕を心地よく包む。夏特有の風だ。僕はこの風が嫌いではなかった。

 風になってどこまでも行けたらなあ。地球を一周する風に、どこまでも自由な風になることができたのなら。きっと心地よく、爽やかな気分になれるのだろう。

 そんな空想をしていたら、ビーチについた。

 夏の盛りだというのに、なぜかビーチには誰もいなかった。不思議なこともあるものだな、と、僕はあまり深く考えないことにした。僥倖だと思うことにした。

 海を見る。

 果てしなく見える海にも、果てはあるという。空にも果てがあるのだろう。僕らは無限の可能性を秘めているように見えて、実際、そんなことはないのかもしれない。

 でも、そんなこととは関係なく、果てがどうとか関係なく、僕らの人生は続いていくし、幸せもその中にちゃんと含まれている。

 僕らはそれでも生きていく。

 砂浜に降りる。砂を蹴って遊ぶ。少年に戻ったようだ。無邪気に砂で遊ぶ。山を作ってみたり、城を作ってみたりする。結局子供っぽさは抜けないままだな、なんて思う。

 ふと海を見ると、少女が泳いでいた。

 少女?

 さっきまで海には誰もいなかったはずだが。

 いや、僕の見間違いだったのだろう。夏のビーチに誰もいないなんてこと、あるはずがないのだ。

 彼女は麦わら帽子を被り、白いワンピースを着ていた。まるで絵に描いたような少女だ。今時そんな少女に出会えるとは。人生はわからないものだな、と思った。

 しばらくその少女の遊ぶ姿を眺めていた。一人で遊んでいて楽しいのだろうか。まあ、僕がそんなことを言える立場ではないのだけれど。僕も一人で遊んでいたし。

「暑いなあ」口に出すと、さらに暑く感じられるような気がした。

 そろそろ帰ろうかと思っていると、少女がこちらへやってきた。僕の目の前までやってきて、言った。

「ねえ、一緒に遊ばない?」

 僕は困った。よく見ると、彼女は中学生くらいに見えた。僕はもう大学生だ。中学生と一緒に遊ぶには、年が離れすぎているという気がした。

「ごめんね。僕は帰らなきゃいけないんだ」僕は言った。

「そう」彼女は残念そうだった。彼女に悪いことをしてしまったと思った。

 僕が家へ帰ろうと、ビーチから街へのちょっとした階段をあがろうとすると、何故か、階段に近づくことができなかった。何度試しても無理だった。角度を変え、速度を変え、姿勢を変えても駄目だった。目をつぶって走ってみても、たどり着けなかった。

「どういうことだ」

 口に出してみても、状況は整理できなかった。

「出られないよ」

 振り返ると、すぐそばに彼女がいた。麦わら帽の彼女だ。

「出られない?」僕は訊き返す。

「うん」

 彼女はくるりと後ろを向き、海の方へ歩き出した。僕も彼女に続く。

「ここは、私のビーチなの」

「私のビーチ」

 僕は彼女の言葉を繰り返した。特に意味はない。

「そう、私のビーチ」

「プライベートビーチってこと?」

「違う」

「じゃあ、君の縄張り的な場所ってこと?」

「近い」

「クイズじゃないんだ。正解を教えてくれよ」

「せっかくだし、クイズにしようよ」

「僕はクイズは嫌いなんだ」

「大学生なのに?」

「大人になるにつれ、嫌いなものは増えていくばかりだよ」

「そういうものなの?」

「そういうものだよ」

 僕らは渚に立った。空も海も風も、その時だけは僕の、あるいは僕と彼女だけのものだという気がした。僕と彼女のためだけに存在しているのだという気がした。

「話そうよ」と僕は言った。どうしてそんなことを言ったのかはわからない。人恋しくなってしまったのかもしれない。僕は寂しかったのだろう。とにかく人の温もりに触れたかったのだろう。

 僕と彼女は波打ち際に腰かけた。

「何を話すの?」

「そうだな、君はどこの学校に通っているの?」

「言いたくない。通ってないし」

 なるほど。彼女はもしかすると不登校なのかもしれない。

「趣味は何?」

「歌」

「歌、か」

「歌は嫌い?」

 僕は首を横に振った。

「もちろん好きだよ。ただ、高校生の時の苦い経験を思い出しただけだ」

「どんなの。聞かせて」

 彼女は興味津々である。僕は渋々話をした。

「高校生の時、バンドを組んでいたんだ。僕はボーカルをしていた。コピーバンドで、洋楽をよくカバーしていた。英語は話せないんだけどね」

「じゃあ歌詞の意味もわからずに歌っていたの?」

「うん。英語は苦手科目だったし、僕は読解力も不足していたから」

「それは変ね」

「まあ、実際変だったよ。それで、僕たちは文化祭でパフォーマンスをすることになったんだ」

「へえ」

「結果から言うと、散々だったよ」

 僕は波の音に耳を澄ませる。そして遠い過去に(それほど遠くはないのだが)思いを馳せる。

「バンドのメンバー全員が緊張していた。僕も緊張していた。僕は当時狙っていた女の子がいたから、その人に良い姿を見せようと必死になっていて、それが空回りしていた。バンドの連携はまったく取れてなくて、練習もろくにしていなかった僕たちの演奏は、それはもうひどいものだった。素人以下の演奏だったよ。音程も合っていなければ、妙なタイミングでギターがかき鳴らされるし、ベースは独りよがりで、ドラムはこの場を何とかしようと必死になって逆にリズムを崩していた。とにかくひどい演奏だった。逆に伝説に残るくらいだよ。僕らはその日から、全校生徒にからかわれるようになった。ドラムは耐えられなくて転校したよ。あいつは人一倍傷つきやすいやつだったから」

「でもあなたも傷ついたんでしょう」

「そうだね。僕も傷ついた。全校生徒の前で恥をかいたんだ。誰だって傷つくよ。でも僕は何ともないふりをしていた。あんなことは全然たいしたことはない。そう自分に言い聞かせることで、何とか自分を保とうとしたんだ。今思えば本当にたいしたことではないと思うけれど、高校生だった僕は、学校が世界の全てだったから、やっぱり、辛かった」

 彼女は黙って僕の話を聞いていた。

「もっと練習をすればよかったなあって、何度も後悔したし、こんなことは人生でよくあることだとわかっていた。それでも、僕は落ち込んだよ。かなり落ち込んだ。歌を何か月もまともに聴くことができなかった。あの時演奏した歌を聴くと、胸が苦しくてたまらなかった。何が一番苦しかったかと言えば、僕の好きだった人が、僕らを馬鹿にしていたことだ。僕らのことを馬鹿にして、仲間内で笑っていた。僕はあの子がとても好きだったのに。それは人生で僕の体験した悲劇の中で最上のものかもしれない」

 波が寄せては返す。小さな蟹が、波を受けてよろめきながら、どこかへ行こうとしている。

「わかっている。こんなのは悲劇と名付けるほどのものじゃない。世の中にもっとひどい出来事はたくさんある。僕の体験したことはたいしたことじゃない。でもどうしても、あの日のことを思い出すと、自分を思い切り殴りつけたくなるんだ」

「そういうことって、きっと大切なことなのだと思う」

「そうかもしれない。今となれば、良い経験だったと思う。でも僕は弱いままだ。あれから、高校生の頃から、僕はまったく変わっていない。同じような過ちを繰り返している。高校生の頃より無知で弱い人間になってしまっているという気がする。そして実際その通りなのだろう。昨日、彼女と別れたんだ。僕が悪かったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。僕は今、正常な判断ができないから、このことについて結論を得ることはきっとできないし、また結論を出すべきではないのかもしれない。まあとにかく、心がぐちゃぐちゃになっているんだ。もうすべてがどうでもいい。本当にどうでもいいんだ。僕はいつも失敗ばかりだ。後悔ばかりだ。どうしていつも間違えてしまうのだろう。どうして過ちを繰り返すのだろう」

 ほとんど独白に近い長ったらしい話を、彼女は真摯に聞いてくれた。それだけで僕には救いだった。話を聞いてくれる人がいる。それって素敵なことだ。

「彼女のこと、今でも好きなの?」

「わからない。わからないんだ。好きだという気もするけど、そうじゃないという気もする。きっと頭がおかしくなっているんだ」

 海を見た。水平線は真っ直ぐで羨ましい。そんな馬鹿なことを思った。

「中学生の時もそうだった。僕の好きな人は、大体僕を嫌いになっていくんだ。僕は誰も傷つけたくないのに、どうしても傷つけてしまうんだ。僕は自分の好きな人に、僕の話を聞いてほしいだけなのに、それすらも叶わないんだ。

 友達も恋人も家族も、みんな僕から離れていく。僕が悪いのだろうか。僕は無意識の内に彼らを傷つけてしまっているのだろうか。そうだとすれば、僕はこの世にいない方がいい人間なのだろうか」

「そんなことはない」

 彼女は強い口調で僕に言った。怒っているみたいに見えた。

 風が通り過ぎた。

「私は、あなたに助けられた」

 彼女と目が合った。その姿は、高校生になっていた。

 あの子だ。

 僕が高校生の時に好きだったあの子だ。

「ごめんなさい。ずっと謝ろうと思っていたの」

 彼女は僕に向き直った。

「私、高校生の時あなたのことを馬鹿にした。あなた傷つけてしまった。下手な演奏だったかもしれない。でもあなたは私に、何かを訴えかけようと必死だった。私はそのメッセージを無視した。それはとてもひどいことだと思う」

 水平線に夕日が落ちる。彼女の顔は、オレンジ色に染まっていく。

「あなたは練習が足りなかったと言った。でも私は知っている。あなたが放課後、バンド練習の後で、一人河川敷で、カラオケで、校舎の屋上で、歌の練習をしていたこと。誰よりも熱心に、誰よりも真剣に歌と向き合っていたこと」

 僕は涙が出そうになる。でも堪える。涙を見られるのは、恥ずかしい。

「私もあなたのことが好きだった。あなたのことをずっと見ていた。だから一人で練習していたことも知っているの。でも、私も当時幼かったから、文化祭であなたに失望してしまった。あんなに練習したのに、こんなことになるなんて。私はその失望を、口に出して、あなたを好きになった自分を、忘れ去ろうとしていた。

 でもあれから月日が流れて、あなたの格好良さに気が付いた。どんなに馬鹿にされても、弱音も吐かず、むしろあの出来事を笑いにしていたあなたの凄さに、素晴らしさに、今になって気が付いた。本当は、私の方が馬鹿だったんだと思う」

 彼女の姿は、大学生になっていた。とても綺麗だった。

「ここは、私の意識が作り出したビーチ。だから、私とあなたしかいない」

「僕がここへ来たのは、偶然なのかな」

「さあ。偶然かもしれない。でもあなたとはいつかこうして巡り合うことができた。そんな気がする」

 僕は頷いた。

 星が出てきた。宇宙から僕らに光を届けている。煌めく星々を見て、その美しさに圧倒された。

「星のかけらを集めてほしいの」

「うん?」

「星のかけらを集めてほしいの」彼女は同じ言葉を繰り返した。

「どういうこと?」

「私の最初で最後のわがまま」

 彼女は空を見上げた。僕も彼女に倣った。

 満天の星空。こんなに美しい風景がこの世に存在するなんて。

 やがて、星の一つが大きく膨らんでいった。だんだんその星は大きくなり、ついに僕の傍へ落ちた。丸くて、輝いていた。僕はその眩しさに眼を細めた。大きさは石ころと同じくらいだった。掌に載せられる程度だ。

「これが、星のかけら」

「うん。星のかけらを千個集めると、願いが叶うの」

「千個って、途方もないなあ」

「だからこのわがままは、無視してくれてもいい。私はあなたにひどいことをしたから、本当はわがままを言う資格なんてない。むしろあなたに何か償いをしなければならない。でも、私は今あなたに直接会うことができない。あなたに直接謝って、お礼を言いたいのに、それができないの」

「どうして」

「それは言えないの」

「言えない」

「うん」

「僕は、星のかけらを千個集めればいいんだね」

 彼女は泣きだした。何度も僕に謝った。僕は困った。どうして僕はこうも人を傷つけてしまうのだろう。

「ごめんなさい。あなたの優しさに甘えたりして。本当はこんなこと頼むべきではないのに」

「構わないよ。確かに僕も傷ついたけれど、でも君もきっと傷ついていたのだろう。そのことを思うと、僕は君に悪いことをしてしまったなと思う」

「私は、大学生になって周囲の人とうまく馴染むことができなくて、色んな人に嫌われて。その時、あなたのことを思い出したの。あなたはみんなに馬鹿にされても、自分を見失っていなかった。どんなに傷ついても、あなたは平気な顔をしていた。本当は深く傷ついて、ひどく落ち込んでいたはずなのに、それを周囲に悟らせまいとしていた。私は都合のいいことを言っていると思う。今更あの時のことを反省しても、あなたの傷ついた過去を消すことはできない」

「そんなことはないよ。確かに傷は残っている。でも君のおかげで傷が癒えた。僕もどうかしていたし、君もどうかしていた。お互い幼かったし、お互い傷ついた。それでいいじゃないか」


「君と話せて、良かったよ。また前を向くことができそうだ」


 彼女は少し笑った。

 星のかけらが、また一つ落ちてきた。

「二つ」

 僕は勘定した。

「そういえばこんな小説があった気がするな」

 思わず呟いた。

 空を見上げると、満月は嘘みたいに光っていた。

「ねえ、もし星のかけらを千個拾い集めたら、僕の願いも聞いてくれるかな」

 彼女の姿はもうどこにもなかった。でも僕は話を続けた。

「僕のくだらない話を、何時間でも聞いてほしい」

 彼女が答えるように、三つ目の星のかけらが落ちてきた。

「三つ」

 僕は言った。

 

 千個目の星のかけらを拾ったとき、ビーチに見知らぬ少女がやってきた。でも僕は彼女のことを知っていた。

「ありがとう」

 彼女は僕に礼を言った。

「君が大人になるまで、僕のつまらない話を聞いてもらうから、お互い様さ」

 星が瞬いた。

 僕が一度目の失恋の相手と眺めた夜空は、恐ろしいほどに美しかった。

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