第7話 桶狭間の戦いでござる

 俺と裕太郎さんはその日、一日中暇だった。スマホについて教えてあげたり、将棋をしたりして時間を潰した。驚いたことに、ルールは現在と全く変わらなかった。達筆すぎて駒の字が読めない事を除けば、難なく楽しめたのであった。

 残りの3人はずっと厨房で新メニューの開発に勤しんでいた。今はケーキを作ろうと必死らしい。現代の知識を持つ綾さんと、生粋の料理職人である助丸さんと権兵衛さんなのだが、随分と苦戦しているようだった。

 俺と裕太郎さんは何度か試食を頼まれた。試行錯誤を繰り返すうちに、だんだんと俺が知っているケーキに近づいていくのがわかった。そしてすっかり日が沈んだ頃には、商品になるレベルのものが完成した。俺は彼らの闘志に胸をうたれた。

 そうやって俺らがケーキを作っている頃、俺の知らないところで、歴史は大きく動き出そうとしていた。



「信長様!大変でございます!佐々政次殿と千秋四郎殿が討たれたと!」

「何!?それは誠か」

 織田軍がひそむ善照寺に、殺伐とした空気が流れる。すでに信長隊の残り兵数は僅か3000だった。信長も含め、その家臣や兵の間にも敗北感が漂っている。それに追い討ちをかけるように、ザーザーと大粒の雨が降り出した。寺は強い風に吹かれて大きな音を立ててきしみ始めた。

 そんな状況の中、勝利を確信する1人の男がいた。

「大丈夫だ、藤吉郎さん。安心しろ」

「そんなこと仰られても、3000人では今川の大軍には敵うはずがありませぬ、タケ殿」

 藤吉郎さんが焦るのも無理はない。敵の戦力は数万とも言われている。タケは藤吉郎さんにある頼み事をしていた。

「お願いだ藤吉郎さん。俺を信長のところに連れていってくれ」

 タケは藤吉郎さんの前でもう一度土下座した。藤吉郎さんは困った顔をした。藤吉郎さんは自身の話術で信長の信頼を勝ち取り、ある程度信長に近づく事を許されている。農兵では異例なことなのだとか。

「信長様に会って、何をなさるおつもりです、タケ殿」

「そんなのは決まってる。今川の本陣に奇襲を仕掛けてくれるように頼むのさ」

「本陣に奇襲?」

 藤吉郎さんは考えた。彼は非常に頭がいい。農民出身ながら、戦のことでも頭が利いた。

「それが、最善策なのでございますか?」

「ああ。俺を信じろ藤吉郎さん」

「確かにこのままこの城にいては、今川に囲まれて終わりじゃ。ならばこちらから攻めると言うのも、1つの手かもしれぬ」

 藤吉郎さんは心を決めた。もしかしたら、捨て身の奇襲を提案することで信長の信頼を失うかもしれない。だが同時に彼は理解していた。これ以外に織田軍の勝ちは有り得ない、と。

「タケ殿、わしについてこい」

「あざす、藤吉郎さん」

 タケと藤吉郎さんは静かに建物内を進む。すれ違う兵の中には、鎧を外してしまい、完全に戦意を喪失した者も多かった。

「何者だ」

 信長のいる部屋の前に到着すると、部屋の前に護衛の兵が数人、厳重に警戒している。

「木下藤吉郎と申す」

「山縣武です」

「信長様に何のようだ」

「外の様子を見てまいれ、と信長様に言われておりましたゆえ、報告しに参った」

 藤吉郎さんは怪しまれないよう、利口な嘘をついた。戦術のアドバイスをするため、と言ったら確実に通してもらえなかっただろう。

「そうか。通れ」

 藤吉郎さんとタケは気持ち程度にその護衛兵に会釈をした。

「信長様、木下藤吉郎でございます」

 藤吉郎さんは大きな声で言った。すると部屋の中から、

「入れ!」

 と信長が答えた。失礼しますと言って、藤吉郎さんとタケは障子を開けた。目の前に、浮かない表情の信長が座っている。その両脇に名だたる武将が並んでいる。中には丹羽長秀の顔もあった。

「サル、何のようだ」

 信長はその太い声で聞いた。苛立ちが声にも現れている。

「はい信長様。この山縣武から、信長様に提案があると」

「ほう。なんだ。言いたまえ」

「信長様、私から申し上げるのは大変恐縮なのですが、今川の本陣に奇襲を仕掛けてはいかがでしょうか」

 タケは恐れることなく、信長に向かってそう言った。信長の家臣は少しざわついた。肝心の信長も、若干顔に怒りを浮かべたように見えた。だがしかし、一瞬でその表情は消え、ニヤリと笑った。

「お前、この織田信長によく言えた。肝が座っておるな。いい案ではないか」

 信長はタケの心意気に感心し、タケの発言を受け入れた。だがそれは、信頼できる藤吉郎さんが連れてきた人だから、という理由もあるのかもしれない。

「ありがとうございます」

「そうと決まれば話は早い。皆のもの、出せる限りの兵を準備致せ!」

 信長は周りの家臣に命令した。信長はとにかく行動が早い。周りの家臣は困惑しながらも、部屋を出ていった。

「この奇襲が成功したら、お前らには褒美をやろう」

「はっ!」

 藤吉郎さんとタケは深々と頭を下げた。

「わかったなら早く出陣の用意を致せ。雨が降っているうちに突っ込むのだ」

 藤吉郎さんとタケも、急いで支度をしに戻った。

 降り注ぐ雨は一層強くなり、地鳴りのような音が寺を包んでいく。タケは鎧を身につけながら、心の中で思った。

「桶狭間の戦いが、始まる」

 信長はタケの提案があった10分後には、全軍を桶狭間に向けた。3000人の兵士は寺を出て、豪雨の中を進軍した。視界を妨げるほどの豪雨により、兵の姿も見えづらく、足音も雨の音にかき消された。信長隊は素早く、だが慎重に敵本陣に近づいていく。

 その頃、敵大将今川義元は、信長隊の存在に全く気がつかず、見回りの兵士も完全に気を抜いていた。兵士も勝ちを確信し、酒を飲んでいた者もいたという。油断大敵とはこのことだ。

 織田軍は、見晴らしの良い丘に登った。ここを下ったところに今川の本陣がある。信長は息を深く吸った。そしてゆっくりと吐いた。

「よし、準備はよいか」

 信長は家来に聞いた。が、同時に自分にも聞いた。流石の信長でも、決心するのに心の準備が必要だった。

「いくぞ、皆のもの」

 信長は軍配を手に持ち、高く挙げた。

「かかれぇええええええええええええ」

 信長は軍配を一気に振り下ろし、大声で叫んだ。その瞬間、一気に地面が揺れた。3000人が地面を蹴って、今川の本陣に斬りかかる。

「何!?織田軍が攻めてきたぞぉおお」

 見回りの兵士はやっと織田軍の存在に気付いた。だがもちろん、もう遅い。もう彼らは本陣のすぐそばまで来ている。

「義元様、織田軍がこの本陣に奇襲を仕掛けてきた模様です!」

「何を言っておるのだ。本陣の周りにも部隊を配置したのだ。まさか3000の兵でここまでは来れまい」

「それが、我が部隊は織田軍に気付かなかったようで....」

 今川義元の表情から笑顔が消えた。そして瞬間、彼の耳に刀のぶつかり合う音が耳に入った。織田の軍勢は義元の近くにまで侵攻していたのだ。

「義元様、お逃げくだされ!」

 義元は急いで馬に乗り、身近な兵を引き連れて本陣を脱出した。彼は必死の形相で逃げた。しかし、義元の判断はまたしても遅れていた。義元の背後には織田軍が迫っている。

「義元を討ち取れ!全軍でかかれ!」

 信長は大声で命令を伝える。間も無く、織田軍の騎馬隊が義元を取り囲んだ。もう義元に逃げ場はなかった。義元の護衛をしていた兵はいつの間にか全員いなくなっていた。

「今川義元、討ち取ったりーー!!」

 数秒後、抵抗も虚しく、今川義元は斬られた。織田軍に、歓喜の声が上がる。大将を討ち取られた今川軍は戦意を完璧に失い、なす術なく逃げ去った。

 こうして桶狭間の戦いは、従来の歴史通り、織田軍の勝利に終わった。織田軍は3000人という少ない兵力で、4万とも言われる今川軍を打ち破った。まさに歴史的な一戦だった。しかし、1つだけ従来の歴史とは異なることがあった。それはタケと藤吉郎さんが、奇襲の提案をしたということだ。この僅かな違いが、後々に大きな影響を及ぼすとは、誰も想像がつかなかった。タケも藤吉郎さんも、そしてもちろん俺も。

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