4-6 ストライド侯爵邸別邸(4)

「はぁ…久しぶりのレイトン産の紅茶、やっぱり良いですね…」


 温室からサロンに移動し、丸テーブルに向かい合うように腰掛けながら、キャロルは別邸付の侍女が運んで来た紅茶に遠慮なく口をつけた。


「……宜しければ、瓶詰めの茶葉を少しお持ち帰りになられます?」

「えっ」


 先程までのカティアとのやり取りからはとても想像がつかない、ある意味年齢相応の笑顔に、ジーンの表情もわずかに和らぐ。


 宮廷公用語がゆるんでいるところからも、お世辞抜きで好きなのだと言う事がうかがえる。


「多分今回の事を聞けば、夫がいくらでも取り寄せて、お持ちすると思いますわ」


「さすがにいくらでも……とは申しませんけど、分けて頂けるのは望外の悦びです。私もそうですが、母も好んで飲んでいた茶葉ですので」


「……『留学』とは、少し事情が異なりますのね」


 カティアは、キャロルがエイダルの血を引く事実を隠す為に、カーヴィアルまで逃れていて、に合わせて、その事実をおおやけにするために戻って来たのだと、思って、納得もしているようだった。


 ジーンは、夫から日記の存在を聞いて、エイダルが婚約者を皇帝アズワンに略奪された事実を知ったが、カティアは日記がなくとも、当時の事をある程度知っているように見えた。


 もちろん、エイダルとナタリー妃との間に子供が生まれていた事実までは知らなかったにせよ、実際に子供が生まれて事がおおやけになれば、命の危機にさらされてもおかしくないと、当時の側仕え達だけでなく、カティアもそう認識していたのだろう。


 アズワン帝なら、やりかねないと。


 それ以上は不敬罪と取られかねないので、キャロルは紅茶を口に含みながら、気持ちを落ち着かせる。


「そうですね……対外的には留学で良いと思っているので、敢えて何も言わないようにはしていますが、19年も住んでいたら普通、留学とは言いませんね」


「19年……それで言葉が……」


「ただ、母は、私よりも前から、レアール侯爵領に戻っていました。でなければ、弟の年齢と合いませんしね……私には私の生活と、カーヴィアルで築いた地位もありましたから、戻るタイミングがなかったんです――ミュールディヒ侯爵家から、狙われるまでは」


「……っ」


「と言っても、ミュールディヒ侯爵家自体には、実はそれほど脅威を覚えてはいなかったんです。貴族間で権力争いが勃発するのは、さほど珍しい事でもありませんし。ただ……父や私が巻き込まれる事で、アルバート陛下に迷惑がかかると分かった時に、結局、居ても立ってもいられなくなって」


「陛下とは……以前から……?」


「5年……くらいでしょうか。父に初めて会いに行く途中で、当時まだ首席監察官の肩書を持っていた陛下と、たまたま知り合いました。それまでは、我流のルフトヴェーク語でしたから、その後、もうスパルタで言葉やら公国くにの習慣やら叩き込まれて……手紙のやり取りだけで、基本的にカーヴィアル帝国在住である筈の自分が、ここまで学ぶ必要があるのかと、思わなくもなかったんですけど……結果的に、今、助かってますね」


 余程のスパルタだったのか、キャロルは苦笑いしているが、実は苦笑いで済まない事に、気付いたジーンは戦慄した。


 彼女キャロルを望んだ陛下エーレが、自ら教育係となって、皇妃教育を施したのだと、察してしまったのだ。


 一方は無意識に学び――一方は、意図的に教授した。


 そうして、キャロル本人の資質も申し分ないと、気付いた時には、ただ一人の皇妃として、手離せない存在にまで、なっていたのだ……と。


 恐らくこの少女の前には、他の貴族の権力や、側室狙いの娘本人の容貌など、無意味だ。


 皇妃としての知識も、権力争いを目の当たりにしてきた場数も、何もかもが違い過ぎて、皇帝としての視点で、冷静に見極めたとしても、他家の令嬢など視界にも届かない筈だ。


 キャロル・レアール侯爵令嬢以外のきさきは生涯不要との夜会での言葉は、掛け値なしの真実に違いない。


「……重いですわ」

「え?」


 ヤリス・ストライドも、側室を持たない程にジーンを大事にしてくれてはいるが、皇帝エーレのそれは、ヤリスの比ではない気がした。


「キャロル嬢は今、お幸せですか?」


 唐突に聞かれたキャロルは一瞬、面食らった表情を見せたが、やがて反応に困ったように、視線を反らした。


「えーっと……まぁ波乱万丈ではあるんですけれど……不幸ではないと思ってます。幸せかどうかは、死ぬ時にしか振り返れないんじゃないでしょうか」


「……っ」


「ああもちろん、カティア様に『お幸せに』とおっしゃって頂いた事は、そのまま受け止めさせて頂きます。恐らく、純粋に、心から、仰って下さってるでしょうから」


 ……この、目の前の少女は、本当に二十歳はたちなのか。


 後日、夫に思わずこぼしてしまった程に、キャロルの受け答えは、ジーンの想像の遥か上を行っている。


 あまり話が脱線しないよう、さりげなく、カティアの話題を自ら入れてきたに違いないからだ。


「カティア様は……」


 最も、カティアの話をしなくてはならない事もまた確かなため、表面上冷静に、ジーンも紅茶を口に含んで、ひと呼吸置いた。


「それで、カティア様はどう言ったご病気なんでしょう……?」


 キャロルも表情を引き締めて、何と説明すべきか、言葉を探した。


「恐らくは……まだ病名のある病気としては、周知されていないモノになると思うんです。でも〝認知機能障害〟として、知り合いの先生が、お一人で研究しようとされていた、言わばまだスタートラインの状態で……」


「認知機能障害……」


 アルツハイマー型認知症、が通じる筈もないし、勝手に単語を持ち込んでしまうのは、チャイティーで懲りた。


 ジーンは「向こう」をカーヴィアルと受け取るかも知れないが、そこはもう、有耶無耶うやむやにしておく。


 知り合いの医者が最初に気付いた。その医者は、もう亡くなっている――で、良いだろう。


「年齢と共に、物忘れって、大なり小なりあると思いますけど……それが、日常生活に支障をきたすレベルにまで、悪化してしまう事……ですね。いつどこで、誰と、何をした――そう言った事が、新しい記憶から、扇が広がるように徐々に欠落していくんです」


 ジーンは、息を呑んで目を見開いた。


 まさにそれは、カティアに当てまっている。

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