3-12 5月の雪(ナルシス)
「大奥様が日記を受け取られた時には、使用人としては最後の関係者だったそうです。大奥様はその後、商会の
途中で情報が漏れ、子供が害される可能性も
そうしてメイフェス商会の情報網が、ようやく養母としてのメリル・ローレンスに行き着いた時、当のタチアナ・メイフェスは、既に死の淵にいた。
「病床で身動きが取れず、その子がどうなったのか調べきれない内に、自分の死期が迫っていると悟られた大奥様は――もう一人、最大の〝関係者〟が存命である事に、その時思い至られた」
「……当事者である、エイダル公爵その人、か」
「……はい。とは言え自分の身体では、もう公爵邸を訪れて、説明をする事は出来ない。宮殿勤めで、義理の娘である私も、そう頻繁に商会へは顔を出しませんから同様に。ですから大奥様は、お嬢様にお預けになられた。そうすれば、少なくとも私の所までは届きますから」
「……メイフェス商会の先代会頭夫人は、確か先月亡くなられたんだったな。そうか、夫人はメリル・ローレンスと言う名を聞いても、それがレアール侯爵夫人と繋がらなったのか」
リーアムが数日休暇を取っていたため、タチアナ・メイフェスの死に関しては、エーレも覚えていた。
「はい。そして商会での葬儀の席で、私は日記をお嬢様からお預かりしました。約40年前に〝綵雲別邸〟に咲く『
「
耳慣れない単語に、キャロルがエーレを見やると、エーレの視線はそのまま窓の外へと向いた。
リーアムは
言っても立たないのを、エーレも分かっているのだろう。
「この館の西の端にある庭に、春が終わると咲き始める花だよ。水仙……に似てはいるが、大陸を見渡しても群生地が限られる希少種らしい。毎年その頃になると、研究者が泊まりこみでやってきたりするからね。さほど花に造詣が深くなくても、覚えて――」
言いかけたエーレの言葉が、不意に途切れた。
エーレが何に気付いたのか、察したリーアムが、更に深く頭を下げる。
「はい。西の棟は、その花が一望出来る棟ですから。今でこそ研究者の方々が、その時期にお泊まりになる専用棟のようになっていますが……元は
最期まで、固有名詞は明かさない。
現役であるリーアムもそうだが、結婚退職したにせよ、タチアナ・メイフェスの宮殿侍女としての矜恃がそこにあった。
「恥ずかしながら
それは確かにエーレであっても、苦笑するより他はない。
「閣下はその日記を、ご自身の死をもって、最後
そう言ったリーアムが顔を上げて、真っ直ぐ、キャロルを捉えた。
「政治に関わる事だから詳しくは言えない。ただキャロル様が
感極まったらしいリーアムの物言いは、公式から少し崩れていた。
ナタリーと、名前も口を突いて出ている。
「……リーアム……」
見た目にはデューイ・レアールの血だけが強調されているようだが、そもそも、エーレと机を並べて仕事をこなせる点で、非凡極まりない。
聞いてしまえば、リーアムとて納得なのだ。
父親であるデューイ自身も非凡ではあるが、何より大陸屈指の天才リヒャルト・ブルーノ・エイダルの血を引く、孫娘だなどと。
「ナタリー妃も、日記を残した侍女達も、姫君として道具の様に扱われるよりも、貴族の
「……ありがとう、
答えながらも、エーレが僅かに視線を傾ければ、キャロルは膝の上に乗せていた手を、いつの間にか、固く握りしめていた。
少し落ち着かせるように、エーレの右手が、その左手を包み込む。
エーレの無言の頷きを受けて、立ち上がったリーアムが、そっと席を外した。
「キャロル……」
「ねえ……これ、どの
「……そうだね。だけど引退した旧当主の中に、ナタリー妃を知っている人間がまだいたとしても、
恐らく今やエイダル以外は、ナタリー妃の存在は「名前や、皇帝の側室に挿げ替わった事は、知っている」程度でしかない筈だ。
もはや、憤りをぶつけるべき相手がどこにもいないのだ。
「……多分そうして自分自身に憤りをぶつけた結果が、君やレアール侯夫人に、この話が真実だと断言しない事なんじゃないかな……」
「そんな……っ、だって公爵は何も悪く――」
「もっと強硬に、皇帝相手でも逆らえば良かった。領地に引きこもる前に、どういう扱いを受けているのか、確認して
例え当時18歳だったエイダルに出来る事がほとんどなく、とてもそんな事が出来る時世じゃなかったとしても、だ。
敢えて自分からは実父だと、祖父だと名乗らない事が、エイダルの中での、せめてもの折り合いなのかも知れない。
「キャロル……
「……え?」
自分の手を握っていたエーレの手に力が入ったような気がして、キャロルがふと、
顔を上げた。
「俺は……もう今の立場では、大叔父上に謝罪は出来ない。君が、祖母であるだろうナタリー妃を、そこまで追い込んでしまった皇家をもし、憎むのなら――」
エーレの表情が、苦しげに歪んだ。
「俺は……婚約破棄も、受け入れなくちゃならないかな」
隣の席を、他の誰に譲るつもりがなくても――それでも。
キャロルは大きく、目を見開いた。
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