1-11 夜の訓練場(前)

「――ル様。キャロル様、お待ち下さい」


 イオの声と共に軽く右腕を掴まれるまで、キャロルはどこを歩いているのかさえ、意識の外にあった。

 ピリッと肩に走った鈍い痛みが、現実へと意識を引き戻す。


「……イオ」

「軍の訓練場は、あちらですよ」

「……あ、ごめん」


 心ここにあらず、と言った態で、宮殿内をキャロルが歩くのは珍しいのだが、まさか廊下で、くどく理由を聞けよう筈もない。


「今日はデューイ様も、訓練場にいらっしゃるとか。各大使館から得てきた情報ですが、そちらでデューイ様にも聞いて頂きますか?」


「あ……ううん。今日は、お父様と〝迎賓館〟の方に行こうと思ってるから……そっちで一緒に聞こうかな」


「えっ⁉︎」

「……何」


 思わず、裏返った声を上げたイオに、キャロルが半目になった。


「いえ、その、もはや〝綵雲さいうん別邸〟に戻られるのが、標準使用デフォルトかと――」


 これまで、公式行事以外公都ザーフィアに来る事がなかったレアール侯爵家には、専用の邸宅が、まだ存在していない。


 即位式典の間だけなら、エイダル公爵邸の客人扱いでも良かったのだろうが、当主が軍務大臣となり、娘が皇帝の婚約者として、どちらも公都ザーフィアに残る事が確実となった以上、拠点を定める事が急務となり、売りに出されていた洋館を買い取ったデューイが、今は新築に近い改装を、業者に命じている。


 そして館が完成するまで、との条件付で、エイダルが外交賓客用の滞在居住区〝迎賓館〟の一画を、父娘おやこのために開放した。


 ――つもりだったのだが、娘の方は、ほぼほぼ夜は皇帝の居住区である〝綵雲別邸〟に留め置かれていて、彼女キャロルが〝迎賓館〟で父親と過ごした回数は、恐らく片手の数で事足りている。


 多少の揶揄からかいも込めて、イオはそう言ったつもりだったし、いつもなら、赤くなって否定をするか、文句を言うか……となる筈が、この日は少し違った。


「……多分しばらくは〝迎賓館〟で過ごすんじゃないかな」

「……キャロル様」

「まぁ、そんな事もあるよ。行こっか、イオ」


 本人は、笑ったつもりなのかも知れないが、実際は泣き笑いだ。


 事と次第によっては、デューイの許可を得て、別邸の主エーレ行った方が良いのだろうか。


 真面目にそう思いながら、イオはキャロルの後に付き従って、軍の訓練場へと足を踏み入れた。




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「あれ、お嬢ちゃ――ゴホン、どうした、キャロル?」

「……それは大差がないと思うがな、ヒューバート将軍」


 時間的には、既に宮殿の正門は閉じられてしまっており、日本の感覚で言えば「残業時間中」だ。


 だが、キャロルはエイダルと話しこんでいたし、この訓練場にも、恐らくは部隊長クラス以上の人間が、何人もまだ残っている。


 フランツ・ヒューバートしかり、デューイ・レアールしかり、だ。


「はは、すいません。公式の場じゃないって事で、どうか目を瞑って下さい、侯爵」


 相手の身分におもねらない率直さは、ヒューバートならではだ。


私的空間プライベートならばいざしらず、今、ここで、私が口を出す事でもない。公式の場での区別がつくのであれば、それ以上、口うるさく言うつ

もりもない」


 デューイも、このヒューバートと、皇族専属護衛組織、通称〝黒の森〟シュヴァルツの後継者である、ルスラン・ソユーズだけは、娘を呼び捨てにされていても、さしたる不快感を覚えていないようだった。


 皇帝陛下エーレは、元々比較対象外だ。


「――が、確かにどうしたキャロル。何かあったのか」

「はい。お話しがあります。お父様と――ヒューにルスラン、イオとレックもかな」

「……っ」


 キャロルを見る、デューイとヒューバートの表情が、一瞬、険しくなった。


「……偏屈独身公爵クソオヤジの差し金か。何か命じられたか」

「お父様……」


 ヒューバートは一瞬、単語を聞き間違えたかと思ったが、思わず「うわぁ……」と顔をしかめたキャロルに、そうではないらしいと悟る。


「……なぁ、お嬢ちゃん。あんまり侯爵にガラわりぃ言葉は……」

「いやいや、待ってヒュー⁉︎ それ冤罪! 私が教えたんじゃないし!」


 さすがに小声でそう囁けば、キャロルからは速攻の否定が入る。


「……にしたって、天下の宰相閣下を捕まえて、はがね精神メンタル持ってるよ。ある意味、さすが父娘おやこ


「えぇー……」


 ヒューバートの揶揄やゆに、不本意そうにキャロルが視線を明後日の方向に向ける。


 だがヒューバートは、そんなキャロルの様子に、やや違和感を覚えたようだった。


「……おーい、ルスラン――!」


 何を思ったのか、軽い調子で背後の訓練場に声を投げる。


、ちょっと交代! お嬢ちゃんがエイダル公爵からの伝言はなしを持って来てるってよ! とりあえず着替えて来いよ。それまで、お嬢ちゃんに場を繋いでて貰うから!」


「えっ⁉︎ ちょっと、ヒュー⁉︎」


 訓練場内全ての視線が、驚いたようにヒューバートに集中したが、本人は涼しい顔だった。


「その表情かお、何かストレス溜まってるだろ? 俺はさほど気の利いた事は出来ない。せいぜい、を用意してやるくらいだ。多分、あれくらいのヤツらなら、右肩のケガがまだ充分に治ってない状態でも、ストレス解消くらいは出来る筈だぜ?」


「……それちょっとヒドくない?」


「良いんだよ。どうせアイツらは、その腰の剣を、令嬢の我儘、皇帝がかなえの軽重を問われる、ナントカのご令嬢の方が余程気品がある――とか何とか、悪口雑言を飛ばしてやがった連中だしな。己の実力を正確に理解させてやってくれ。ついでにストレス解消が叶えば、言う事ナシだ」


「ヒュー……」


「将軍。その話、私も初耳なんだが? 一部、実力不足の部隊長達への追加訓練と言わなかったか」


 半目になるデューイにも、ヒューバートの態度は通常運転だった。


「いやいや、その通りですよ。家名とコネで、押し込まれておいて、いっぱしの軍人気取りで、公都下で尊大に振る舞われても、困りますからね。見た目、インテリ優男やさおとこのルスランに、ぶっ飛ばさせておいて、辞めるなり、やり直すなり考えさせてやろうかと。だけど、ちょうどルスランよりインパクトあるのが来た事だから……構いませんよね? ルスランが着替えて来るまでの間の事ですし」


「……はがね精神メンタルは、お互い様ではないのか?」

「全くだ。全方面に、色々と失礼だな」


 呆れたようなデューイのため息と共に、ヒューバートの背後に、音もなくルスラン・ソユーズが現れる。


 その動きの速さに、周囲は言葉を失くしているが、キャロルの周囲は、少なくとも誰も、眉一つ動かしていなかった。


「そもそも、フランツ。いったい何を着替える必要が――」


「うん、お前は、いいから仕込んである物騒な武器を減らして来い。ゼロにしろとは、言ってない。減らせ」


「……っ」


 ヒューバートの表情から、それは、あくまで、表向きの理由でしかない事を、ルスランは悟る。


 キャロルに剣を取らせるために、ルスランを下がらせる理由が欲しかっただけだ、と。


「……ちっ。フランツのくせにな」


「おまえも、たいがいだっての‼︎ ……っ、いいからお嬢ちゃんは、アイツらの相手‼︎」


「はいっっ!」


 フランツ・ヒューバートは、軍最強、ルフトヴェーク公国最強、あるいは大陸最強と言っても過言ではない程の腕を持つ。


 ディレクトア王国のロバート・フォーサイス将軍も有名だが、ヒューバートは――それ以上だ。


 以前、何度か稽古をつけて貰った事はあるが、ただの一度も、キャロルは勝てた試しがない。


 フォーサイスやルスランには、何度か勝った事があるのに、だ。ヒューバートの規格外ぶりが窺い知れる。


「将軍! 我らに、貴族令嬢の剣戟けんげきの相

手をせよ、と⁉︎ そんな時間があるのなら、陛下のご寝所へ送って差し上げる方が、余程良かろうに!」


「平民の護衛の様な服で、宮殿内を闊歩するなど、そも、公都の貴族作法に疎いのだろう! 今からでも、他家の姫君を皇妃としてお迎えになられて、せいぜい側室として、お側に侍るが宜しかろうよ!」


「……あ、地雷踏んだ」


 珍しく、そう呟いたのが、イオルグ・ラーソンであったため、デューイ・レアールの、噴出しかかった怒りが、一瞬押さえられた。


「どうした、ラン――ラーソン」

「あっ……いえ、その……」


 デューイを見、何とはなしに、言い淀んでいるレアール家の元お抱え護衛に、デューイも「地雷」の意味が、朧げながら掴めてきた。


「そうか。外政室でも、似たような事を言われたか」

「……加えて『田舎侯爵の妾腹』……と……」

「…………ほう」

「うぉっ⁉︎」


 デューイに背を向ける格好で、ルスランと会話をしていたヒューバートは、いきなり、背後で噴出した殺気に、思わず剣の柄に手をかけながら振り返った。

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