変化

フィオー

第1話


 毎日通っていた道端にある店が建て壊されていた。


 はて、と僕は頭を傾げる。


 一体何の店があったんだっけ?


 毎日通っていたのに、思い出せない。


 一度も入ったことはなかったから、これからも行く事のない店がなくなっただけなのは確実だ。


 だから、別になくなっても良いんだけど……。


 この侘しさみたいな、寂しさみたいな、心に渦巻く感情は何だろう。


 昔、よく遊びに行った同級生の家が解体されて、ぽっかりと開いた空間を見ると、意外に小さくて驚いた記憶がある。


 たしか、ここがトイレで、ここが部屋で、ここにテレビがあって、ここらで寝転んでゲームしたよなっと、同級生と空地でやったっけ。


 でも、あの時は、こんな寂しさなんてなかった。


 何が違うのか。


 そう考えて思い当たったのは、何の店かも思い出せない、その事が、原因な気がした。


 毎日視界にあったはずなのに、もう思い出せもしないその事が、そんな僕が、寂しい、のかも……。


 ただ僕の目の前には、見慣れていた景色より、大きく青空が広がっていた。


 それから数週後。


 その空き地に、見慣れない何かが建った。


 そして数日後、それはもう見慣れた景色になっている。


 寂しく思ったことなど、まったく思い出さない。


 そうか、思い出せないを通り越して、思い出さなくなるのか……。


   ◇


「8月1日。5時ですよ。今日の天気は晴れです。8月1日。5時ですよ。今日の天気は晴れです。8月1日。57時ですよ。今日の天気は晴れです。8月1日。5時で――」


 ケータイの目覚ましを切って、僕は目を擦りつつ泡から出た。


 ぷくぷく、心地よい小さ音を立てて泡が体から無くなっていく。


 タンスから、いそいそと赤いショートパンツを取り出し履いた。


 歯ブラシと一緒に入れてある、とがったホネを鼻の横から突き刺す。


 一丁に亀の甲羅を背負い、出発。


 歩いて10分にある大学へと向かう。


 早朝だから、誰もいやしない。


「赤信号ですよ! 止まってください!」


 なのに信号は命令してくる。


 車も、人もいない町を過ぎていく。


 そして木々の生い茂る、物音ひとつしない大学構内を突き向け、東棟へと入った。


 棟内はしんとして、僕の足音だけが響き渡る。


「失礼します……あれ?」


 研究室の端の、社長机みたいな偉そうな机に、田中教授はうつぶせになって寝て居た。


 と、その時、


「ピロンピロンピローン」


 音が鳴り響く。


 あれ? この音は……。


「ううーん……」


 田中教授が目を覚まし、手探りで目覚ましを消した。


「あ、西山殿」


 僕に気づいた。


「寝てたんですか?」

「30分だけ、西山殿が来る時間まで寝ようと思ってね。時間ぴったりじゃないか」

「……その目覚まし懐かしいです」


 僕は、教授のケータイを指さす。


「その音を聞いて思い出しました。僕の前はその音でしたよ。今は日時と天気を教えてくれるやつです」

「天気なんて、晴れ、晴れ、雨。晴れ、晴れ、雨。晴れ、晴れ、晴れ、晴れ、晴れ、晴れ、雨。の337拍子だろうが」

「親切設定なんでしょう、ただうるさいです」

「わかるよ。何でもしゃべるようになってないか。信号はしゃべってくるし、お風呂は、お風呂の準備ができましたって言うし、炊飯器は、炊き上がりましたと言う。機械の声が多くなったよ」

「うるせぇってなりません?」

「叱られてる気分になる。……はて……?」


 田中教授が首をひねった。


「どうしました?」

「以前はどんな風だっけと、考えてるんだが……まったく思い出せん。信号やお風呂や炊飯器は一体どんな音で完了を教えてくれたんだっけ?」

「お風呂は温泉に行ったときぐらいしかないですよ、昔は泡布団です、僕。昔は、教えてくれなくてお湯を流しっぱなしにしてたとかあったんですか?」

「……あったような……どうしてたんだっけ?」

「とりあえず静かでよかったんじゃないですか」

「……いや、そうでもない。ご飯を炊く音もお湯が沸く音も、冷蔵庫の音も、全部耳障りだった……気がする……」


 田中教授が、眉を顰め唸りを上げる。


「うーん、どうしても思い出せない……」


 僕も思い出そうとする。


 しかし、僕も何も思い出せない。信号はどうやって確認してたんだろう、いちいち見て、今は赤だ止まろうってしてたのかな。冷蔵庫を開けっぱなしにして、注意してくれないからそのまま開けっ放しだったこととかあったのかな。


 なによりも、思い出せない事に店がなくなった時のような寂しさがない。


 すでに慣れてしまっているからだろう。


「教授、前に行き道の店が建て壊されてて、でも、何の店かも思い出せなくてさみしく思ったんです」

「ああ、そういうのもあるな……」


 田中博士が、遠い目をした。


「ですが、あれはまだ視覚情報だからさみしく思えれたんでしょうね。聴覚情報だと、何も気づかずうちに変わってる……」

「ああ……さみしく思うなぁ」


 僕は、少し俯く。


「はい……」

「しかし、それが生きていくという事だ。景色や音だけじゃない。我々のファッションだって変わるし、呼称は殿になった。私の若い頃は君だった」

「ジェンダー的にも、自尊尊重的にもあり得ない。時代ですから仕方ないとはいえ」

「そうだ。世の中は変化する。否でも応でもそれを受け入れて、我々は暮らしていく、そうだろ?」


 田中教授は、なにか納得いかないような顔をして言った。


 でも、気のせいかもしれない。


「変わるだけで、僕らの暮らしから音が消える事はありません。新しい音、景色の中で暮らしていく。いつの間にか受け入れて、この先も暮らしていくんですね……」


 僕は、納得いく顔を作って言う。


「そうだ」


 田中教授は立ち上がる。


「さっ、出かけよう。運転お願いだよ」

「はい」


 僕らは外に出た。


 大学の構内の木々は、木の葉の擦れる音だけ出している。


「そういえば……」


 田中教授が、木々を見てぼそっと呟いた。


「そういや蝉って、昔いたな……ミーンミーンって……」

「なんですかそれ?」


 セミ?


「雷鳴もなくなった」

「ああ、そうですね」


 それなら知ってる。理科の授業で見たことある。


「好きだったんだよな、雷。あと、土砂降りに変わる時の音とか……天気がコントロールできるようになって、そういうのもなくなったな」


 田中教授は車に乗り込んだ。


 僕は、空と揺れる木々を見つめてしまう。


 しばらくして、僕も車に乗り込んだ。


「……でも、なんか普段から何でもないと思っているものが、いつの間にかなくなってしまうようにはなってほしくないです。ハサミで紙を切る音、木々の擦れる音、赤ん坊の威勢の良い泣き声、鼻に尖った骨を突き刺すときのプチプチ音。それらが聞こえない暮らしは、やっぱりさみしいです……」


 田中教授は微笑んだ。


「そうだな、私もそう思うよ……。無くなってほしくないものはあるよなぁ」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

変化 フィオー @akasawaon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る