10月5日(火)
7 ゆい子 一筋の光
朝、八時二十分。それは、この高校の玄関と廊下に人が最も溢れる時間帯である。四十分からのHRに間に合うように、多くの生徒が一斉に登校してくるからだ。
それをたった十分過ぎただけで、状況は一変する。玄関や廊下は落ち着きを取り戻し、逆に教室内が騒がしくなる。
ここで教室外をうろつくのは、朝練を終えた運動部員か、寝坊や交通遅延で必死な生徒か、普段からギリギリに登校している猛者くらいのものだ。
八時三十四分、E組の教室前にゆい子は到着した。室内はすっかりエンジンのかかった状態だということが外に漏れ出る音量で分かる。
だが、猛者であればそこに入って行くのもお手の物である。
教室の扉を開けると、目に入るクラスメートに片っ端から笑顔で挨拶していく。話しかけてもらう人種になるには、まずは自分から話しかけなくては。それがゆい子のモットーであるとも言える。
自分の席までの道中に椿の席がある。
誰と話すでもなく、正しい姿勢で椅子に腰を掛け、ただ黙々と予習を続ける。
騒がしい室内で、椿の周りだけは静かで清らかな空気が流れていた。誰も踏み込めない。孤立しているとも言える。なのに哀愁は漂わない。
それは、周りを気にする素振りが一切感じられないからかもしれない。堂々と、凛としている。それが彼女の通常モードなのだ。
その新雪の広がるような神聖な空間に、ゆい子はいつもあえて踏み込む。それは他の子にはなかなか出来ない。だから、みんな注目をせざるを得ない。
「つーばきちゃんっ。おはよ」
腰を折って椿の顔を横から覗き込んだ。周りの視線がわずかに自分に動いたのを見逃さない。
「あ、おはよう」
机の上のノートから顔を上げた椿は、にっこりと穏やかに笑った。
その神々しい微笑みを
「昨日は…ごめんね?」
「…え、何が?」
不意に言われたごめんねの意味を、椿は咄嗟に探した。
それは当然といえば当然のことだった。何に対してのごめんね、なのか、その正確な答えを実はゆい子も持ち合わせていない。ただ、それを口にした意図は、確かにあった。
横目で教室内の様子をチラッと窺う。視線、というより耳がどこに向いているのか、それはゆい子にとって重要なことだった。いつもより少しだけ大きく口を開く。
「ヤナくんのこと、なんか、ごめんね」
まさか告白されるとは思っていなかったの。
そこまでちゃんと言葉にして言っておきたかった。しかし、それがゆい子の口から出ることはなかった。
「あ、いたー!立花!!」
急に邪魔が入って教室の入口を睨むと、山崎がこちらを指差してずかずか入ってきた。その後ろには友達と挨拶を交わす耀太の姿も見える。
ゆい子には、この後の展開が読めた気がした。そのおかげで、すぐに穏やかな気持ちを取り戻す。
「な、昨日あの後、どーなった!?」
このクラスの誰よりも大きくて通るスピーカーのような声で喋りながら、山崎は段々と近づいて来る。
『もー、その話は秘密にしたかったのに』
少し離れた山崎に向かって、ゆい子はこのセリフを言おうと口を開いたが、その場を支配したのは予想外の出来事だった。
「きゃっ」
山崎の通り道にいた片岡が弾かれてよろめいた。自分のロッカーから出してきたと思われる、教科書や資料集、ノートなどがバサバサと音を立てて床に落ちていく。
「うわっごめん!」
慌てた山崎がすぐにしゃがみ込むと、片岡も素早く膝を付いて床に散らばった私物をかき集めた。
「大丈夫、大丈夫」
視線は下に向けたまま困ったように笑う。その顔に掛かったメガネは、少しだけ斜めにずれているが、片岡はそんなことは気にも留めていない。
「…ゆうみん平気ー?もー、山崎くんがデカいからいけないんだよー」
側まで近づくと、ゆい子はそう言いながら山崎の肩を小突いた。先に駆け寄っていた椿は、片岡の荷物を一緒に拾っている。
「大丈夫?片岡さん」
山崎の後ろから耀太が声を掛けると、片岡は初めて手を止めて恐る恐る見上げた。何かを言おうとしたが声に出すことはなく、代わりにぎこちなく頷く。
耀太はふっと他人行儀に微笑むと、自分の足元にあるものに気付き、拾い上げた。それは、イヤホンコードが付いたままの携帯だった。おそらく、片岡の物だ。
「え…」
そう呟いたのは、携帯画面を見つめる耀太だった。しかし、すぐに片岡に笑いかける。
「片岡さんもこの歌手聞くんだ」
その声に反応して咄嗟に上げた片岡の顔が、みるみる赤くなっていく。消え入りそうな小さな声で、はい、と頷いた。
耀太が携帯を差し出すと、片岡はわずかに震える手でそれを受け取る。
「俺も好きなんだよね」
耀太は携帯の画面を指差しながら、「その歌手」と付け加えて気恥ずかしそうに笑った。
「えぇっそう…なんですか!?」
片岡は先程からなぜか丁寧語を使う。
時計の針はすでに、四十五分を指していた。一時間目が安田の授業の時は、ホームルームが遅れることはよくあった。しかし、ホームルームと言えるほどの時間を要さず、授業への支障は全くないので何の問題にもなっていない。
「えーだれだれ?」
歌手という言葉を聞いて、山崎が携帯画面を覗こうと、興味津々に上から首を伸ばした。ゆい子と椿も横から片岡に近づく。
片岡の手に握られた画面には、この携帯で今もそのまま再生されている音楽の題名と歌手名が表示されていた。
『白波まかせ』『名取光一』
ゆい子達の視線が自分の手元に集まると、片岡は丁寧にその歌手について説明し出した。
名取光一は、一九八〇年代にデビューした男性歌手である。当初はアイドルとして売り出されたが、自身で作詞作曲をするようになり、徐々にシンガーソングライターとして認知されていった。世の中の無情を嘆いたり世間への辛辣な意見を乗せたりした歌詞が、彼の端正で儚い見た目との相乗効果で、一部のコアなファンに熱狂的に支持された。彼のファンは特に同年代の女性が大半を占めており、数少ないラブソングでは――
「え、耀太くん、ファンなの?名取光一って…『マーメイドの夜』のひとだよね?」
まだまだ続きそうな片岡の話にゆい子が割り込むと、耀太は目を見開いたが、すぐに笑顔に戻った。
「確かに、一番有名なのはその曲かな。…よく知ってるね」
「…あ、なんか懐メロ特集みたいな番組で見た気がする」
ゆい子は恥ずかしそうに歯に噛んだ。
「そういえば、私も聞いたことあるかも」
ゆい子の言葉を聞いて、思い出したように椿も同調した。
「マーメイドは初期のヒット曲だからね。でも、名取光一はその後が良いんだよ。あんまり知られてない名曲がたくさんあってね」
片岡は、ずれたメガネを元の位置に正す。話したくてうずうずしているという感じだ。
「『白波』も隠れた名曲だよな。さっき画面見た時、絶対ガチのファンだって思った」
「え!いやいや!それが分かる中村君の方こそ相当です」
耀太と片岡はゆい子達の知らない話で盛り上がっている。
「なー誰ー?オレ全然知らねーんだけど。てかその人、オレらの世代じゃなくね?」
「あー、俺は…親の影響で物心つく前から聴いてたらしい。今もなんだかんだ、ずっと聴いてる」
耀太はほんの少し寂しそうに微笑んだ。
「あ、おじさんがファンなの?なんか意外ー。男のアイドルとか興味なさそうなのに」
「アイドルじゃないから」
片岡が横から強い口調でそう言った。山崎に凄む。
「え、ちょっ、恐い。恐いよ、片岡さん。ごめんて」
ガラガラっ。
教室の引き戸が急に開いて、担任の安田が出席簿を片手に教室に入ってきた。
「はい、席着けー」
その一声で、山崎は安田ではなく片岡から逃げるように、我れ先にと自席に急いだ。
「あ、片岡さん!…って母子家庭だったりする?」
同じく席に戻ろうとする片岡に耀太は咄嗟に尋ねた。
「え?違いますけど…どうしてですか?」
「…あー、なんかしっかりしてそうだなって。弟か妹はいるでしょ?」
「両方います」
「やっぱり!良かった」
名取光一のことまた話そうね。そう言って耀太は無邪気に笑って手を振った。
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