4 ゆい子④ お咎めなし
遠くから名前を呼ばれると、柳井はすぐに振り返った。後ろから息を切らして走ってくるゆい子を見つけて、迎えに行くように駆け寄る。
「ゆい子ちゃん、どうしたの!?」
もう急ぐ必要がないのだと思うと、ゆい子の足は自然と失速する。それでも、息が上がってなかなか言葉を発することはできない。
柳井の姿は、店を出て割とすぐに見つかった。駅へと続く一本道に、周りの人よりひとつ抜きん出た頭が遠目から見えたからだ。長めの黒髪が、男の人にしては華奢な肩に少し掛かっていた。
思ったより距離があることに気づいたのは、柳井を見つけて走り出してからだった。男子の歩くスピードを甘く見ていたのかもしれない。頑張って走って、やっと声が届きそうな距離になって初めて柳井の名前を呼んだ。その頃には息も絶え絶えで、自分でも情けなくなる程か弱い声しか出なかったのに、柳井はすぐに気付いた。
そして今、驚きつつも心配そうにゆい子を黙って見守っている。
「…はあ、ごめんね、急…に」
これは完全に運動不足だ。体育の授業で手を抜いてばかりなのは良くないな、とゆい子は少しだけ反省する。
「や、全然良いけど…大丈夫?」
柳井はそればかりか、落ち着いてからでいいよ、と優しく声を掛ける。柳井の友達が、俺ら先行くわ、と空気を読んで去って行った。
ゆい子は柳井の言葉に甘えて、ひと呼吸置いてから話始める。
「あのね、えっと、これってヤナくん?」
制服のポケットに入れていた今朝の手紙を取り出して、戸惑う柳井に手渡した。
後ろから、足音と共に、立花ー!と叫ぶ声が近づいてくる。外でも良く通るこの大きな声は確認しなくとも山崎のものだ。
柳井は手紙を開いて一度は目を落としたものの、その声に気づいてすぐに顔を遠くに向けた。
「え、ザキヤマ?それに中村達も?何事?」
柳井は困惑しながら、到着した山崎達の顔を見渡している。呆然とする柳井の手元にある手紙に山崎と耀太がいち早く気づいたが、山崎だけが思わず「あ」とだけ発した。
椿は少し遅れて到着して、肩で息をしている。熱を逃がすためか左手でパタパタと顔の辺りを扇ぎながら、もう一方の手で長い髪を右側にかき寄せた。
額から滲んだ汗は滴となり重力に従って顎から長い首筋に流れていく。
耀太は、すかさず手慣れた様子で自分のハンカチをサッと椿に手渡した。すると、椿は一瞬、
椿はこの場で目立たぬよう、伏し目で遠慮がちに額や首筋に滴る汗をハンカチに
たったそれだけの行動が、日本舞踊の所作を切り取ったように
その様子に、図らずもここにいる三人の男子の目はいつの間にか集中していた。
視覚だけにもかかわらず、なぜか
「ヤナくん」
急に呼ばれてハッとした柳井は、ゆい子の方に慌てて視線を戻す。同時に全員の注意もそちらへ向いた。
「それ、ヤナくんなの?」
改めて尋ねると、柳井は姿勢を正して手紙をまじまじと見つめた。そして、じっくり時間をかけた後、静かに口を開いた。
「…これは、俺だね」
柳井の回答を聞いて、歓声に似た驚きの声が一斉に上がった。
「本当!?柳井君なの?ゆい子に?」
その中で、最初に文章にして口に出したのは椿だった。いつの間にか息は整った様子で、耀太と山崎の間に守られるような形で柳井を真っ直ぐ見つめている。
「やっぱそうなの!?これ書いたの、マジでお前!?」
山崎も続けて問い詰めた。
すると、柳井は少しの間沈黙した。
周りの四人が、後に続く言葉をじっと待っていると、柳井はゆっくりと語り出した。
「…いや、書いてはない…」
「…は?」
山崎が目をぱちくりさせると、柳井は急いで、ごめん、と謝った。困惑する山崎の隣で、耀太はいつものように冷静に尋ねる。
「柳井、どういうこと?」
「いや、ごめん、つい。同じ気持ちだったから。なんか、びっくりして」
柳井は困ったように片手で口を覆った。
「…はあ??」
山崎が、再び同じ反応をする。さっきよりも語尾を強めて。それが、全員の気持ちを代弁してくれているとゆい子は思った。
数分前とは立場が逆転したように柳井以外の四人が呆気に取られる中、柳井がゆい子の方に意を決したように向き直った。
「あのさ、ゆい子ちゃん。ずっと心にしまっておくつもりだったんだけどさ。こんな機会がないと言えないと思うから言うわ。俺、ゆい子ちゃんが好きなんだ」
柳井は満足げに微笑んだ。
ゆい子は、思わず視線を逸らした。
正直、柳井が自分に好意を持ってることは薄々感じていた。けれど、それを今、打ち明けられて、どう返答すれば良いのか分からなかった。
ゆい子がさりげなく周りを見渡すと、山崎は両手で、椿はハンカチを持っていない方の右手で口を覆い、驚いたように互いに顔を見合わせている。耀太は至って冷静で、何か別のことを考えているようにも見えた。
その耀太とふいに目が合う。
「あ、ごめん気が利かなくて。立花、俺ら先に帰るわ」
「えっ…」
「えぇ!今!?」
ゆい子の言葉を引き継ぐように、山崎が不満そうな声を出した。耀太に向けられたのは、いいところなのに、とでも言いたげな目だ。
そんな外野を無視して、念押しするように耀太は尋ねる。
「一応聞くけど、柳井はこの手紙とは無関係ってことだよな?」
すると、柳井は再び、ごめんと言って軽く頭を下げた。
それを確認すると、ほら行こうぜ、とまだ何か言いたげな山崎を引っ張っていく。去り際に、なんかこっちがごめんな、と耀太が柳井の肩をポンと軽く叩いた。
それとは逆に、椿が近寄って来て、ゆい子がファミレスに置いてきてしまった鞄を笑顔で差し出す。ゆい子がお礼を言うと、椿は小声で、また明日ね、と小さく手を振って二人の男子の元へと小走りで向かった。
三人が楽しそうに帰って行く背中を、なんとなく眺めているゆい子に、柳井がぼそっと呟いた。
「中村のこと、好きなの?」
「え?」
思わず振り返ると視線が合った。柳井は気まずそうにすぐに目を逸らした。何も言わずに何でもないように遠くの方を見つめるが、意識はゆい子の返答に集中していることが空気で伝わる。
「…違うよ。なんで?」
「いや、なんとなく…」
違う。そう口にすることで、本当に違うという確信が持てた気がした。
決して、私が好きなのでない。好きだとしたら向こうのはずだ。それなのに、あの反応は、何を意味していたのだろう。まるで、興味がないような。さっきの告白など、どうでもいいような。
ふっと気が抜けたようにゆい子が微笑むと、それに横目で気づいた柳井はほっとしたようにその場にしゃがみ込んだ。
「良かったーー!正直、あんなイケメン、勝てる気しねーもん」
ゆい子はあはは、と声に出して笑った。そして、隣にしゃがんで柳井に視線を合わせる。
「すきな人とか今はいないかな。でも、ごめんね、ヤナくんのこともまだ友達としか思ったことなくて――」
「全然いいよ!これから気にしてくれれば!」
柳井が食い気味にそう言うので、ゆい子はまた声を上げて笑った。弾むように楽しそうに笑うのに釣られて、柳井も微笑んだ。
「…あれ、そういえばさ、この手紙なんだったの?」
自分の手に握られた紙の存在をすっかり忘れていた柳井が、それをゆい子に差し出す。
「あ、そうだった。気が動転して話す順序間違えちゃった。これね――」
ラブレターを開きながら、柳井に説明した。見つけた時のこと。差出人を探すことになった経緯。柳井の元に今来た理由。
「Y.T…って山崎!は違うか。一緒に探してるくらいだし」
柳井は、うーん、と悩んでいたが、急に手紙を覗き込んだ。
「ん?あ、れ、これってもしかして…」
「え?」
柳井の言葉に、ゆい子は耳を傾けた。
「うん、やっぱり。言い回しは微妙に違うけど、あの歌詞に似てる」
「え、何の歌?」
ゆい子の期待の眼差しに、柳井は得意気に応える。
「確か、マーメイドの夜、だったかな。名取光一っていう歌手の歌」
俺、演劇部じゃん?稽古では、劇のセリフだけじゃなくて詩集とか歌詞とかを題材にして練習したりすることもあってさ。それで、これはたまたま、顧問が持ってきた題材だったんだけど、部員達にも結構好評でさ、他の歌も何個かやったよ。なんだったっけ、あの、なんか、波…波が付く題名のやつとか。それより、今度公演やるからさ、良かったら観に来てよ。実は今回、俺、準主役やらせてもらうことになってさ。実際、セリフ覚えんのとか役作りとか結構大変なんだけど、ここが正念場だと思っててさ。ゆい子ちゃん来てくれるならもっと頑張れるっていうか。あ、でも全然無理しないでいいんだけど。本当暇だったらで――
そんな風に、柳井が自分の頑張っていることをいくら熱く語ろうとも、ゆい子の耳にはもはや届いてはいなかった。
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