5 耀太① 釣れたケモノ
『E組の立花ゆい子がラブレターをもらったらしい』
そんなもの、今すぐにでも広めてくれと言っているようなものだと耀太は思った。
こんな状況を目の当たりにすれば、誰でもそう思うはずだ。
額から滲む汗を首にかけたタオルで拭いながら、自分以上に熱を帯びたコンクリートの上を歩く。
校庭から正面玄関までのほんの数十メートル、一緒にいる部員はほとんど半袖のワイシャツを着ている。長袖にブレザーまで備えているのは、自分を除外すると、しっかり者の部長くらいだ。
左肘に掛けたブレザーの上着からも、生き物のようなぬくもりを感じる。やっぱり夏服にすればよかったと、耀太は若干後悔していた。
少し肌寒かった昨日は季節を一歩進めたように感じたが、今日はその一歩をなかったことにしたかのように暖かい。
ここ数日の気温は実に気まぐれで、夏服に飽きた生徒たちを一喜一憂させていた。
制服の移行期間というものが、ここまでタイミング良く効力を発揮するのも珍しいのではないだろうか。そんなことをぼんやり考えながら、耀太はただただ足を進めていた。
「マジかよ」
自転車置き場に差し掛かったところで、隣を歩く
制服のシャツすらも着ずに肩に掛け、インナーの黒いTシャツ姿で下敷きをうちわ代わりに仰いでいる。
一番薄着のくせに人一倍暑そうにしながら、今の今まで、今朝見たというオチのない夢の話を延々と耀太に聞かせていた。
その山崎の姿が、ふと横を見ると消えていた。
耀太が後ろを振り返ると、山崎は左の方を見つめたまま立ち止まっている。そのことに、耀太は何歩か進んでしまってから気付いた。
校庭の周囲にはボール飛散防止の緑色のネットが張り巡らされているが、校舎とそのネットの間には人間が二人ぐらい並んで歩けるほどのスペースがある。その隙間に面したところに水飲み場が設置されていて、運動部員が練習後に部室を使わずに自然とそこに集まることも多い。山崎の視線はそこに向いている。
「山崎、どうしたー?」
声に気付くと、山崎は主人に呼ばれた飼い犬のようにすぐに駆けてきた。大型犬だ。なびく程の毛並みはないけれど。
「いまさ、同中の先輩が女の子と二人きりで話してたんだよ!」
それがどうした。耀太が心の中で思ったことが伝わったのかは分からないが、山崎はそのまま話を続ける。
「高岡っていうんだけど、全然かっこよくないのに自分はモテるって勘違いしててさ、痛い奴なんだよ。中学の時からそれで何人の女子に振られたか」
「ふーん」
耀太は、今度は興味がないことをちゃんと口に出すが、それでも山崎は気にする様子がない。
「きっと今の子にも振られるのに、あんなに嬉しそうな顔しちゃって。…かわいそうに」
山崎は右手で涙を拭う素振りをした。それは、ずいぶん演技掛かった泣きまねだった。
「つまり、羨ましいわけか」
瞬間、ぐっと聞こえてきそうなほど山崎が言葉を飲んだ。
そして、「…なんでオレ彼女出来ないんだろ?」と耀太に悲しい目を向ける。
その素直な犬っぽさを前面に出せば案外いける気もするけど、と言ったところで話が長くなりそうで面倒だと思い、耀太は別の言葉を選んだ。
「そのうちできるだろ」
「あ、冷たいぞ。耀太はいいよな、選び放題じゃん。オレもかわいい彼女がほしい!そしたら、絶対、耀太に自慢する!」
「は?俺に自慢して何か意味あんの?」
「ある!こんなにかわいい子がオレのこと好きなんだぜって言いたいじゃん!あれだな、耀太だけじゃなく、世界中に自慢するね」
「…まあ、頑張れよ」
そう言って呆れながらも笑みを浮かべると、山崎は耀太の横顔を見つめてため息を吐いた。
「はー、オレが耀太だったらもっと毎日楽しいんだろうな」
「は?…俺は別に楽しかないし」
「なんで?」
「モテるのも大変よ、って話」
「はー、言うねー」
ちょうど正面玄関に着いた。どうしたらオレもモテると思う?と話を続ける山崎を振り切るのに“ちょうど”だ。鬱陶しいのは確かだが、どう転んでも会話が繋がってしまうのはこの男の才能だと耀太は思う。
下駄箱は入学時、つまり一年の時のクラス順になっているので、山崎とはごく自然に別れることが出来た。
耀太が自分の下駄箱のある列に入ると、奥の方に同じクラスの立花ゆい子がいた。小さくて華奢な見た目は、もしかすると小学生くらいから変わっていないのではないかと思わせる。ゆい子とは、一年の時に隣のクラスだったから下駄箱も近い。
耀太の下駄箱はすぐ手前にあるので、ゆい子とはまだ少し距離がある。
玄関ホールに向かう時に立花がまだそこにいたら、おはようと言えばいい。
彼女とは特段親しい仲でもないので、そのくらいの距離感で十分だ。
そんな風に考えながら自分の下駄箱に手を伸ばした。
上履きを取り出し、今履いていたスニーカーからそれに履き替える。ついさっきスパイクからスニーカーに履き替えたばかりなのに、なんだか非効率だな、といつも思う。
毎朝の流れ作業を終えると、ゆい子は先程から変わらず自分の下駄箱を開けたままの状態で立ち尽くしていた。
通りすがりに、何してんの?と話しかけると、目が合った。
「あ、耀太くん!おはようっ」
人懐っこい全力の笑顔を向けられると、なぜだか目を背けたくなる。ずらした視線の先、ゆい子の小さな両手には手紙が握られていた。
視線に気付くと、ゆい子はそれを慌てて後ろに隠した。
耀太が無言のままでいると、ゆい子は気まずそうに尋ねた。
「あー、えーと、見えちゃった…よね?」
聞きたいことはあるのに何と言えば良いのか分からずに、そのまま黙って頷くことしか出来なかった。
すると、ゆい子は、今日来たら自分の下駄箱に入っていたのだと、歯に噛みながら手紙を開いて見せてきた。
そこには、雑誌や新聞の見出しを一文字ずつ切り抜いたようなものが貼り付けられていて、それが文章になっていた。主に犯罪に使われているところしか見たことがないような手口だ。
「…これ、脅迫状?」
「あ、違うよ。ラブレター」
間髪入れずにはっきりとそう返したゆい子は笑顔だった。
けれど、それが逆に有無を言わさぬ強い意志を押し付けられているようで、耀太は少し気味が悪いと感じた。
少なくとも、内容をちゃんと読まなければ、いや、内容を読んだとしても、この紙は『ラブレター』という響きから受ける印象よりもずっと物々しい雰囲気であることは確かなのだが。
「え…これ、立花…が…」
「うーん、たぶん。宛名は書いてないけど、私のとこに入ってたし」
「じゃなくて…それだけ?」
「え?」
「…それ、どっち?本音は?何か…例えば、言いたいこととか…ない?」
「…えっと、言いたいことって、この人に?私が?」
困惑して考え込んでいる様子のゆい子を見て、耀太は少し安心した。
「ごめん、何でもない。…なんて言うか…変わった奴から好かれちゃったね」
そう言うと、立花は困った眉のまま微笑んだ。
「あれー耀太ー?」
「おーい、よぉたー?」
「もう行ったんじゃね?」
山崎と他の部員が自分を探す声が聞こえて、じゃあ、とゆい子と下駄箱を後にして、耀太は玄関ホールから階段の方へ小走りで向かう。
すると、後ろで下駄箱が閉まった音が聞こえたと思ったら、すぐ横にゆい子がパタパタと付いて来た。
「…耀太くん、これどうしたらいいと思う?」
ゆい子は先ほどの手紙を握りしめて、小動物のようなつぶらな瞳で、すがるように耀太を見上げている。これは、大型犬とは違って、振り切れない。
教室に着くまでのほんのわずかな時間、耀太はゆい子の相談に乗った。
しかし、少し前を歩く山崎が、にやけた顔でたまに振り返るのであまり集中は出来なかった。
差出人から何も要求がないのならそのままでいいんじゃない。気持ち悪いなら捨てたっていいし。俺?俺なら…家に持って帰りたくはないかな。あ、椿ちゃんにも相談してみたら?
そんなことを言った気がする。
教室に一緒に入るとすぐ、ありがとうと笑顔で手を振りながらゆい子は自分の席に向かった。手紙のことは、放課後にもう一度相談に乗ってほしい、とのことだ。
席に到着する前に友達数人に捕まったゆい子を尻目に、耀太も自分の席に着く。
隣の席の太一とその前の席の戸塚が昨日のお笑い番組の話で盛り上がっていたので、挨拶を交わしつつ加わった。その数秒後のことだった。
「あ、ゆい子ー!お前、何か落ちたー!」
このクラスの男子で、山崎と並んで元気なことが取り柄のような長嶋が、「プリント?みたいのー」と三つ折りの紙を掴んでヒラヒラと上に掲げる。
すると、女子同士ではしゃいでいたゆい子が、それを見て慌てて長嶋の元へ駆け付けた。
長嶋の声が大きすぎて教室内は一瞬静まり返ったが、すぐに元の喧騒に戻り始めた。それでも、ゆい子と長嶋のやり取りをクラスのほとんどが視界に入れていた。
「わーやばー!嶋ケン、ありがとう」
ゆい子は手紙を受け取ると、頬を赤らめながら長嶋をじっと見つめる。そして、少し声を落として長嶋に顔を近づけ、たぶんこう言った。
『中身、見てないよね?』
長嶋は、「え、見てねーよ」と両手を左右に振った。その返答で、ゆい子が何を聞いたのかは明らかだった。
よかったー、とあからさまに安堵の表情を浮かべたゆい子に、長嶋はいたずら小僧のように笑う。
「えーなになに?もしかして、これラブレター?」
なーんてな、と言おうとして言葉を飲み込んだ。ゆい子の顔が真っ赤に染まったからだ。
「えぇ!マジで!?ゆい子、ラブレターもらったの!?」
その声が再び室内を沈黙させたかと思うと、すぐにドッとあちらこちらから声が湧き上がっていく。
ゆい子は長嶋の大きな口に手のひらを当てて黙らせようとしていたが、あっという間に女子に囲まれた。
その様子を椿が遠くの自席から一度見て、すぐに再び自分のノートに目を落としたのが耀太の視界に入った。
耀太は、お笑いの話をもっとしたかったのだが、太一と戸塚はそうではなかった。
ゆい子ちゃんニコニコしててかわいいもんな、先越されたわー、などと話している。今、この瞬間はクラス中がゆい子に意識を向けていることは、誰が見ても一目瞭然だった。
「またやってるよ」
そんな声が、この教室のどこからか聞こえた気がした。
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