第5話
やれ、と。慈悲のない一言の直後、ドラゴンが大きく口を開け、紫がかった霧状の息を吐いた。霧は風に流され、瞬く間に村と孤児院に覆いかぶさった。
「あっははははははははははは! 最高だ、いい気分だよ!」
満足げに哄笑し、シャガはアイビーの顔を覗き込んでくる。
「君を長年狭いところに閉じ込めて、苦しめた罰を与えたんだ。あの毒はすぐに死ぬわけじゃない。そんなことしたら早く楽になっちゃって、罰にならないからね。三日三晩は苦しむと、」
「あたしを苦しめているのは他でもないあんたよ!」
涙声で叫び、アイビーはシャガを突き飛ばした。両目から涙が溢れて止まらない。視界がぼんやりと滲んでいるが、構うことなく彼を睨みつけた。
「あたしはヘデラじゃないし、あんたが言っていることのほとんどは意味が全く分からない! あたしは穏やかに暮らせてた。突然ぶち壊したのは誰よ、あんただわ! 狭いところに閉じ込めただとか、罰を与えたとか、いい加減にして! あたしを苦しめて何がしたいわけ!」
一息に言い切っても、胸は全くすっきりしなかった。シャガを見ると、顔を伏せ、わずかに肩を震わせている。
「……何がしたいって? 君と結ばれたいんだ」
ただそれだけ。アイビーを見上げる深緑の瞳は、純然でいびつな希望に満ちているようだった。
「でも、分かったよ。君は……失敗だった」
「なに、今度は何が言いた、」
「失敗? 失敗なんかじゃない、失敗じゃない! 僕は正しいことをしたんだ、間違ってない!」
頭をかきむしり、シャガは髪を振り乱して絶叫し始めた。アイビーは思わず立ち上がって後ずさった。呂律が回らずに、それでもなお唾を散らして叫ぶ姿に、昨日子どもたちと話していた時に見かけた気品は欠片もない。
「君が僕の前から消えたのがいけないんだ。でもどうして消えた? だって君は僕の部屋にいたはずだ! そうしたらヘデラが死んだって、なんで! 僕と一緒にいれば死ななかったのに、僕が守ってあげられたのに!」
「ひっ……!」
「僕はなにも間違ってない、間違うはずがない! だから今度こそ君と結ばれるって、君に認めてもらうって、だから、僕は!」
シャガが手を伸ばすたび、逃れようとアイビーも後退する。充血した目で見つめられるのが、意味の分からないことを喚くのが怖い。
壊れている。そうとしか思えなかった。
「ヘデラ、君だって思うだろう?」シャガの震える指が、アイビーのスカートの裾を掴んだ。「僕は間違ってなんかないって!」
「放してってば……!」
このまま手繰り寄せられる。シャガを突き飛ばそうと、アイビーは腕を突き出した。
その時だった。
ゴボ、と不可解な音がした。下からだ。それが何か分からないうちに、
「きゃっ……!」
突き上げられたようにドラゴンが大きく揺れた。その拍子にシャガの手が放れ、アイビーはよろめいて倒れてしまう。
ギュウ、とドラゴンが苦しげに呻く。シャガの仕業だろうかとも思ったが、彼も何が起こったのか分からないらしく、目を白黒させたまま四つん這いで踏ん張っていた。
ぱらぱらと頬や手に冷たいものが当たる。何事かと顔を上げると、よく晴れた空から水滴が降り注いでいた。けれど雨雲はどこにも見当たらない。
ドラゴンの上は不安定だ。ただでさえ鱗は滑るし、翼を動かすたびに胴体も揺れる。それに加え、先ほどの衝撃で体のどこかをやられたのか、ドラゴンが不規則に体を震わせるせいで、アイビーたちも左右に振られていた。
だから。
「あっ――――」
危ないと思った時には遅かった。気が付けばアイビーはドラゴンの首の付け根辺りまで来ていて、左に大きく傾いた瞬間、背中から宙に投げだされた。
突然のことに声を出す間もなく、どんどんドラゴンが遠ざかっていく。愕然とするアイビーは、さらに信じられないものを見た。
花畑の中から、巨大な水の柱が天高くそびえているのだ。ドラゴンに直撃したのはあれだろう。水はやがて勢いを失い、ガラスが壊れるようにして消えた。
今のは何だったのかと考える余裕はない。アイビーはどうにか助からないかとがむしゃらに手足を動かしたが、どうしようもない。地面に叩きつけられるのも時間の問題だろう。
この高さからの落下だ、間違いなく死ぬ。
――ああ、でも。
死と引き換えとはいえ、シャガから逃げられた。ユノのあとを追いかけることも出来る。
悲しいしむなしいが、同時にどこか安心もしていた。人は死ぬ間際に人生を振り返ると聞くが、アイビーの頭に巡ったのは孤児院で過ごした日々ばかりだった。どうやらこんなときでも記憶は蘇ってくれないらしい。
間もなくやってくるであろう衝撃に一瞬でも耐えるため、アイビーは目を閉じ、
「アイビー!」
狼狽した声に名前を呼ばれ、ハッとした。直後、どすりと体が何かに当たる。
「な、なに……?」
訳が分からないまま薄らと目を開け、動揺したまま首を前や左右に振った。
――……黒い馬?
優雅にたなびくたてがみと、しっかりと引き締まった筋肉質な体。黒い毛色は闇の神の使いかと思うほどに麗しい。だが普通の馬ではない。両肩の上から生える一対の翼を見て、アイビーは眩暈がした。
どうやら自分は、地面に激突する寸前で翼の生えた馬に助けられたらしい。
――でも、誰が。
まさかシャガがドラゴンとは別の獣を使って、アイビーを連れ戻しに来たのか。だが、
「無事ですか、怪我はありませんか!」
シャガとは違う声。別人だ。アイビーは自分の体が、その誰かに抱えられている事に気付いた。
ゆっくりと振り返り、声の主を確かめる。
ホッと息をついた顔に見覚えがあり、心の奥底が震えた。
記憶にあるよりも長くなった漆黒の髪と、勇ましい光を湛える深緑色の瞳。人形のようだった顔に幼さは残っていないが、精悍さは初めて会った時よりいくらも増している。
「……で、んか?」
「ええ、そうです。間に合って良かった」
落馬しないようにぎゅうっと抱きしめられ、アイビーはこれが幻覚ではないのだと手が震えた。
でも、どうしてここに。
訊ねようとして、視界が急激に陰る。
大丈夫ですかと問われたのを最後に、アイビーの意識は途切れた。
柔らかく、落ち着いた花の香りがする。のんびりと目を開けてみると、窓から橙色の光が差し込み、アイビーの顔を照らしていた。
「……ここ……」
「殿下が所有する離宮の一室です。ふとど……じゃない、あなたは殿下に保護されて、ここに連れて来られたんです」
「離宮……保護……」
亀が歩くよりも遅いくらいの動きで体を起こし、傍らから聞こえてきた言葉におうむ返しで答える。
考え事をしようにも、頭がまだぼんやりとしている。それを察したのか、先ほどの声が「まったく」とため息をついた。
「もうすぐ殿下が来られます。みっともない顔で会われると困りますので、これでも飲んでちゃんと目を覚ましなさい」
差し出されたのは白いティーカップだった。小さな花の模様が可愛らしいし、入っているお茶も半透明の紅色で美味しそうだ。促されるままに口を付けると、予想していた味とは全く違う渋さと苦さとえぐみが舌の上に広がり、飲み下すより先にむせる。
「な、なにこれ」
「薬草茶です。目を覚ますのにちょうど良い苦さに仕上げました」
とてもじゃないが全て飲むのは無理だ。ティーカップを返そうと顔を上げ、ようやく声の主と目が合った。
一瞬、クマと見紛うほどの屈強な男だった。短く切り揃えられた狐色の髪と同色の瞳。筋肉質な体は紫紺色の服で包まれ、胸板の厚さのせいかそこはかとない威圧感がある。どこの誰なのかと上から下まで何度も目を往復させていると、角ばった顔にざまあみろと言いたげな笑みを浮かべられた。
「苦労しましたよ。苦いものがお好きだった場合『美味しいわ』と言われては嫌がらせになりませんから。作った甲斐がありました」
なんなんだ、こいつ。アイビーは胡乱に眉間をしかめ、男が言ったことを初めから順番に整理していった。
殿下。離宮。保護。自分が寝かされていたのは純白のベッドだ。華美ではないが、一目で高価と分かる調度品が並んだ広い部屋には、どこの誰か分からないけれど非常に美しい女性の肖像画が掲げられている。
さらさらと慣れない肌触りを感じて目を落とすと、見覚えのない真っ白なワンピースを着ていた。
「ああ、怪我がないか確かめるのに脱がせましたよ。というか、汚れた服のままベッドを使うわけにもいかないんでね」
「そうだ、あたしっ……!」
意識を失う前に何があったのか思い出し、アイビーはベッドから飛び降りようとしたが、
「意識がしっかりしたようで何よりです。だからと言って勝手に動いていいわけじゃないので、少しそのまま座っていなさい」
目の前に手のひらを突きつけられ、足を床につける寸前の不自然な格好のまま止まった。言われた通りにしなければ、また苦い茶を飲まされると思ったからだ。
どちらも喋らない強張った空気の中、大人しく待った。陽の色と差し込み方から考えて、今は夕方だろうか。
こんこん、とノックの音が響く。アイビーが顔を向けるのと同時に、男が「さっき起きましたよ」と答えると、琥珀色の扉が内側に開いた。
音もなく現れた人影を見て、アイビーの体が無意識に震えた。
「お目覚めですか、良かった。どれだけ呼びかけても起きなかったので心配だったんです」
軽やかな靴音を響かせ、ベッドに腰かけるアイビーの前まで来てくれる。その顔を見上げ、
「殿下……」
震える声で呼びかけると、彼は柔和な笑みを浮かべて「はい」としゃがみ込んだ。
「お久しぶりです、アイビー。六年ぶりですね」
もしかして自分は夢でも見ているのだろうか。
ずっと空いたかった人物が目の前で微笑んでいる。
急激に緊張してきて、喉が引きつった。なかなか話せないでいるアイビーに、彼は「あっ」と少しだけ眉を下げた。
「ひょっとして、俺のこと覚えていませんか? だとしたら申し訳ない。初対面の男にいきなりお久しぶりですなんて言われ、」
「忘れるわけないじゃない、です、か!」
あまりにも勢いよく否定しすぎて舌を噛んだ。うぇ、と痛みに呻いていると、殿下は目を丸くしていたものの、やがて安堵したように優美に笑った。
「安心しました。では改めてご挨拶を」
殿下はまだ緊張気味のアイビーの手を取り、その甲に優しく口づけた。
「トクス・ツァールト・エアフォルクと申します。そっちの男はナシラ・エゴケロス。俺の側近兼護衛です」
さて、とトクスは腕を組んで立ち上がり、顔を顰めた。
「早速で申し訳ないのですが、意識を失う前のことは覚えていますか?」
「……花を摘んでいたら、ドラゴンとかいうのに乗って、シャガが……」
そこまで言って、アイビーはハッとした。
「孤児院! あの、ドラゴンが息を吐いて、それが毒で、三日三晩苦しむって……! 助けに行かなきゃ!」
「落ち着いて下さい、アイビー!」
立ち上がりかけたところを制され、荒い息をつきながら座り直す。心配のあまり、胸が今にも壊れそうだった。
「リーニャの現状は報告を受けましたし、把握しています。医師団も向かわせましたので安心してください」
「……みんな、助かりますか?」
「何とも言えません。医師たちも出来る限りの手は尽くしてくれると思いますが……治癒系の幻操師がいれば良かったのですけど、我が国にその類の幻操師はいないもので」
シャガの話を信じるならば、ドラゴンの毒は三日三晩苦しむという。一刻も早く孤児院のみんなが助かるといい。
「そうだ、ユノ。ユノは!」
「ユノ?」
「あたしと一緒にいた子なの。でもシャガが、罪人だとか言って、ドラゴンにユノを……!」
死んだと思ったが、気を失っていただけかも知れない。遠くに放り投げられたが、運よく落下点に衝撃を和らげる何かがあったかも知れない。わずかな希望に目を潤ませながら顔を上げると、トクスは考え込むように短く唸った。
「そうですね、生きている可能性は十分にあります。ただ、現状では何とも言えません。あなたを保護してから、俺は直接リーニャには降りたちませんでしたので」
トクスはアイビーを天馬に乗せた後、ドラゴンに接近したという。シャガは彼を見て我に返ったものの、こちらの訴えに耳を貸すことはなく、幻獣討伐隊が来ると聞くや否や、ドラゴンと共にどこかへ去ってしまったという。
「兄上の部屋を中心に王宮が崩壊してしまったので証拠は集めきれていませんが、本人の言葉から考えるに、兄上は幻獣ドラゴンを作成したものと思われます。つまり現在、兄上は罪人なんです。一刻も早く捜しださなければ」
「幻獣……」
初めて目にしたが、あのドラゴンが幻獣なのか。
「兄上の狙いは分かりませんが、確かなのは『アイビーを連れ去ろうとしている』ということです。簡単に諦める性分ではありませんし、再び現れる可能性は高い。なので、しばらくの間、あなたはこちらで保護させていただきます」
「え?」
「リーニャに戻りたいでしょうが、帰るのは危険です。申し訳ありませんが、あなたはしばらくこの部屋で生活をして……」
「イヤです!」
考えるより先に口が動いていた。
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