第54話「男子個人戦③始まり」

「……母さん」


 観客席の最前列にまで愛子と由美奈は降りてきていた。由美奈は愛子の足にしがみ付いて顔を埋めているがそれも無理はない。


 応援していた兄がこれだけ不甲斐ない姿を見せるとは想像もしていなかったのだろう。


 そんな由美奈とは対照的に、愛子の視線は鋭いものだった。


「あの約束は嘘だったの? あなたはまだ、全力を出し尽くしていないじゃない」


 それは決勝前夜、愛子と交わした約束。あの時の愛子の真剣な表情は今も鮮明に覚えている。


「全力は出し尽くした、それでも通用しなかったんだ。今の俺に、飛ぶことのできない俺に勝ち目なんてないんだよ……」

「なら、飛べばいいじゃない。やっぱりあなたは全力を出し尽くしてなんていないわ」


 無責任なまでの愛子の言葉に天馬は声を荒げて叫んだ。


「簡単に言うなよ!? そんなことは分かってる、試合中に何度だって試してみた。でも出なかった! 当然だろう、俺自身がそれを捨てたんだから!!」


 父親が死んだ三年前の時のような剥き出しの感情を露わにする天馬に対して、愛子は一切怯むことなく言葉を返す。


「それが間違っているんじゃない。天馬は捨てたって言うけれど、天翼はいつだってあなたの傍にあるわ。ただ、自分から目をそらしているだけなのよ」

「ならどうして応えてくれないんだよ……本当にあるのなら、今この瞬間こそ必要な時なのに」


 悔しさのあまり地面に拳を叩きつけた天馬を目にした愛子は少し間をおいてから口を開いた。


「天馬、あなたは何のために戦うの?」

「それは――」

「――家族のため、仲間のために……残念ながらそれは答えになっていないわよ」


 天馬が答えを口にする前に愛子はそれを否定する。


「この一ヶ月、あなたは見違えるように良い顔をするようになったわ。きっとこれまで多くの人たちに支えてもらったからなのでしょうね」


 愛子の言うとおり多くの人に支えてもらったのは事実だ。


 だからこそ、その人たちの想いに応えなければならない。


 そう思っているはずなのに、それは間違っていたのだろうかと天馬は考えてしまう。


「天馬、人はどうして空を飛べるようになったと思う?」


 唐突に愛子が関係の無いような質問を投げかける。天馬が訳が分からないと迷っていると愛子が言葉を続けた。


「今では空を飛ぶなんて当たり前の世の中になったけど、そうじゃなかった昔は、何百人、何千人、きっともっとたくさんの人たちが空を飛びたい、そう願ったはずよ。だからこそ神様は天翼という自由に空を飛べる翼を与えてくれたのだと私は思ってるの」

「空を、飛びたい……」


 愛子の言葉は不思議と天馬の心の奥底に刺さるものがあった。


「あなたはどうして空を飛びたいの? どうして戦うの? どうして、ADFを始めたの?」


 ADFを始めたばかり、当時はまだ幼かったにも関わらず今でも鮮明に思い出せる。父親と遊び半分で組み手を行い、母親は優しそうな表情でそれを見守っていた。何も起きることのなかった、ただ幸せだったあの日々を。


 強くなればなるほど、父親の予想を上回れば上回るほど「凄いぞ天馬」と父親は褒めてくれた。母親は優しく抱きしめてくれた。


 それが何よりも嬉しかった。


「……それは、父さと母さんが喜んでくれたから」

「二人が喜んでくれるからADFをやる。それは結果に過ぎないわ。天馬……始まりと結果は、繋がっていなくちゃ意味はないの」


 愛子のその言葉を聞いた瞬間、まるで世界が変わったかのような感覚が天馬を包み込む。自然と溢れてくる涙を流しながら天馬はゆっくりと立ち上がって青く澄み切った大空を見上げた。


(あぁ、そういうことだったのか……そんな簡単なことだったんだな)


 両親が喜んでくれたから。それはただの結果に過ぎなかったのだ。あくまで手段は手段であり、過程は過程であり、結果は結果でしかない。


 始まりがあるからこそ、過程があり、結果が生まれるのだ。始まりと繋がっていない結果に意味はない。そんなものに自分の意思は存在しないのだから。


「――答えは出たよ。二人が喜んでくれたからじゃない、俺は見て欲しかったんだ、他の誰でもない、俺自身を、俺という存在を……だからこそ俺は、二人に喜んで欲しかったから、もっと俺を見て欲しかったからADFを始めたんだ」

「そう、それこそが答えなの。天馬、空吾さんは今でもこの大空から……いえ、空吾さんだけじゃない、天馬を生んでくれたお母さんと二人で、あなたを見守っているはずよ」

「母さん、ありがとう。もう大丈夫だ」


 溢れ出していた涙を拭ってから天馬は愛子に笑いかけると、目を閉じて自分の背中に意識を集中させた。


(そうか、ずっとそこにあったんだな、俺が見ようとしなかっただけで……頼む、もう一度力を貸してくれ、もう一度一緒に、自由に空を飛ぼう)


 ――十年の時を経て、遂に天馬の天翼がもう一度この世界に解き放たれた。


 その瞬間、静まり返っていた会場が一気にざわめき立つ。観客が驚くのも無理はない、天馬の背に展開された天翼は漆黒色に染まっているのだから。


 天翼は輝きの差はあれど、総じて白色に近いのが当たり前とされる。しかし天馬の漆黒の翼はその常識を覆すものだった。


 天馬は会場のざわめきなどまるで耳に入っていないかのように目を瞑ったまま意識を集中させる。


 やがて地面からゆっくりと足が離れて五メートルほど浮かび上がった。そして空中で数秒間制止してから、今度はゆっくりと地面へ向かって降りていく。


 天馬は何も特別なことをしていない。


 天翼を持つ誰もが初めて空の飛び方を練習する際に行うものだ。

 そんな年端もいかない子供でもできるような簡単な動きだったにも関わらず、ざわめき立っていた観客は天馬のその姿に釘付けになっていた。


「あぁ、これだ、これだよ……お前の飛ぶ姿は、不思議と人を惹きつけるんだ」


 楓は空を飛んだ天馬を見て大粒の涙を流しながら呟いた。

 無理もないことだろう、楓はこの瞬間を十年もの間ずっと待ち続けていたのだから。


「帰って来やがった、本物の天才が……」


 この場で楓以外に十年前の天馬を知る龍一も、その姿を見て歓喜に身を震わせていた。


「黒い天翼……あれが天馬くんの本当の姿」


 ざわめき立つ観客たちの反応とは違い、理帆は初めて目にした天馬のその姿に胸を打たれていた。


「何だろうな、この胸の奥から湧き上がる感情は……」


 紗月は一時も天馬の姿から目を離せずにワクワクするような感情に心を埋め尽くされていた。


「……奇跡が、起きましたわね」


 冷静沈着な普段の麗花とは打って変わり、期待に胸を膨らませる子供のような笑みを浮かべていた。



「天馬は誰よりも先へ、誰よりも高みへ飛ぶことができる。それが空吾さんの口癖だったわ。だから私たちにも見せてちょうだい、本当の天馬の姿を……」


 愛子の言葉に対して天馬は力強く頷いて見せた。そして愛子とその足下から顔を覗かせる由美奈に向かって再び宣言する。


「俺を見ていてくれ、母さん、由美奈! 高校最強の男を今ここで倒して、俺が一番だって証明して見せるから!!」


 まるで十年前に戻ったかのように天馬は屈託のない笑みを二人に向けるのだった。

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