第13話 あにい


「ナオさん。廊下の時計を拭いておいてくれますか?」

「あいよ」

「それが終わったら、蜜柑の間のお客様の布団を敷いておいてください。七時あたりに予約されていたはずですから」

「了解」


 上司としてのアイリはよくできたもので、自分の作業をこなしながらもてきぱきと掃除の必要な場所や、タイムスケジュールの管理をこなしている。


 正直、あのぐーたらな幼馴染にこんな一面があったのかと俺は驚きを隠せなかった。


 とはいえ、食への執着心は相変わらずであり、俺がせっかく用意した――例の見たこともない色をしたお菓子――なんとも絶妙な青色の羊羹を、たった一日で食べつくしてしまっていた。

 相変わらずの自分の欲望に対して節制のない態度に、ああ、やっぱりアイリは愛理なんだなと、俺は再開した幼馴染に懐かしさを感じていた。


 まあ、そんなこんなでアイリに抱いていた俺への誤解は解け、無事仲直りは成功した。

 だからといって上司と部下、教育係と見習いという関係は全く変わっていないのだが――


「あ、ナオさん」

「まだなんかあったか?」

「蜜柑の部屋で終わりですけど……その、前の品のお礼でちょっと渡したいものがあるので、業務終わりのいつでもいいので、時間ありますか?」

「まあ、特に予定はないが」

「で、では、夕食後に従業員館一階で待ってますから!」


 ……やはり、嫌われるよりも好かれる方が心地がいい。何の興味も抱かれていない薄暗い目で見つめられるよりも、ずっといい。


「(くいくい)」

「ん? どうした、ミィ」


 アイリと仲直りで来た実感と安堵に浸りながら、俺の背丈ほどある振り子時計に降り積もっていたほこりを払っていると、床掃除を終えた様子のミィがバケツを片手に俺の服の裾を引っ張ってきた。


 俺が振り向くと、彼女はこてりと首を斜めにかしげて、俺の前の方を指さしてこう言った。


「時計止まってる」

「え、まじ?」


 時計が止まっていると彼女に言われ、俺はさっと時計の方に振り返って、その文字盤を見て――俺の腕にかみつこうとした彼女の襲撃をひらりとかわした。


「甘いぞ、ミィ。その手はもう俺には通用しない!」

「むぅ……ひどい」


 ……あれから。

 勤務初日にミィが俺の首筋に歯を立てて、吸血鬼らしく俺の血を吸ったあの日から、ことあるごとに彼女は俺の血を狙ってきていた。


「減るもんじゃなし、ちょっとぐらい吸わせてくれてもいいと思う」

「減るんだよ、俺の血が」

「……いいと思う」

「よくねぇよ」


 とまあ、この女は、時には先ほどのように俺の気を逸らし、時には寝ている間に、時には食事中にと、虎視眈々と彼女は俺のすきを窺っている。

 実際、以前にアイリが俺の人格を疑う原因になった同衾の件も、アイリのびんたによってあまりに気にしていなかったが、首筋にかまれたような跡が残っていたところから、ちゃっかりとミィは寝ている俺の血を吸ったのだろう。


 いつか風呂やトイレにも現れるのではないかと内心ひやひやしている俺は、いつの間にか人の気配を察知するなんて技術を手に入れてしまっていた始末だ。


「ほらほら、蜜柑の間の受け入れ準備するぞ」

「むぅ……」


 どうにかして血を飲んでやろうと、あれやこれや策謀を巡らせる彼女の首根っこをつかんだ俺は、アイリの指示通り蜜柑の間の布団を敷きに行くのだった。


「あにい……」

「……?」

「……なんでもない」


 ただ、その道中で彼女は何事かを呟いた。空気に溶けて消えたその言葉は、俺の耳に言葉としての意味を成す前に鳴りを潜め、後には何も残らなかった。


 そこにいるのは、俺の後ろをてこてこと付いてくるばかりの、ミィに他ならない。

 ただ、「なんでもない」と答えた彼女は……俺の知らないミィであった。



 

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