第7話 露天風呂


「……飯、うまかったな」

「ふふん。おすすめは餃子だよ。あれすごいおいしい」

「仮にも半分吸血鬼なのに、ニンニクってどうなのよ……」


 風呂掃除から始まり、廊下の雑巾がけ、中庭の落ち葉掃除、食器洗いと新人らしくあくせくと働いた俺とミィは、やっと休めるといった面持ちで食堂で食事を済ませてきたところだ。


 ほかの従業員はまだまだ仕事があるようで、おそらくは初仕事となる俺たちにアイリが気を使ってくれたのだろう。


 それから、食事が終わって早々にカサゴさん――旅館の料理人――に風呂に入ってきた方がいいと言われた。


 曰く、


「さっさと入らないと、お前らの先輩たちが浴場を占拠し始める。肉に挟まれながら足も広げられないような狭い湯船の中でしか安息を得ることができないというのならばまだしも、そうでないなら早くに入った方がいい」


 とのこと。新人の分際で早く上がった上に、風呂にまで先に入るのはどうかと思ってしまうのは社会人の性だろうか。


「ありがとうございます。それなら先に入らせてもらいますね」

「肩まで浸かれよ」


 ともかく、俺は風呂に入ることをすすめてくれたカサゴさんにお礼を言いつつ、仕事の時から俺の後ろをてこてこと付いてくるミィと一緒に、売店のばあさんから着替えをもらいつつ従業員用の浴場へと向かうことにした。


 てこてこてこてこ。相変わらずミィは俺の後ろをついてくる。あれから血は飲ませていないため、いつ腹を空かせて襲い掛かってくるか気が気ではないが……しかし、ちらりと後ろを向けば、なにかあったのだろうかと疑問符を浮かべながら、こてりと小首をかしげる小動物のようなしぐさの彼女に警戒を維持することは難しかった。


 とはいえ、ここからは風呂だ。聞けば混浴というわけでもなく、しっかりと男女別で風呂場が分けられているため、ミィの影におびえる必要はない。不意の事故ではあるが、ミィが女子であることはしっかりと確認してしまったからな!


「んじゃ、またあとで」


 ひそかな勝利宣言をした俺は、ひらひらと男女別の風呂の出入り口前でミィへと手を振って、彼女の歯牙とはおさらばし、安息の地たる露天風呂へと足を向けた――


「……おい、ミィ。なんでついてきてるんだよ」

「……? 私もお風呂に入るから」

「こっち男風呂だからな!?」

「裸ならもう見られてる」

「そういう問題じゃないだろおおお!!」


 しかし、そうはうまくいかなかった! 

 ……とまあ、それからなんともマイペースで何を考えているかわからないミィを女風呂の方へと叩き込んでから、いろんな意味で疲れた俺はやっとの思いで露天風呂へと入場するのだった。


 一通り体を洗ってから、湯船につかって空を見上げる。

 四六時中この旅館を覆い隠す霧のせいであまりよくは見えないが、時折顔をのぞかせる夜空からは、星のような影がちらほらとみることができた。


 とはいえ、霧すらも貫いて地上へと光を落とす月光に比べれば、それら星々の光など取りに足りないもので、気が付けばくっきりと円を描くその光を俺は見つめてしまっていた。


 思えば今日、俺はずいぶんと思い切ったことをしたなと一人過去を振り返る。

 あの月の光のように、俺はこの旅館とそこで働くアイリに惹かれて、元の世界にあった少ないながらも光を発していた星々を見捨ててこの世界に居座ることを選んだのだから。


 ただ……俺には、それだけあの時のアイリが輝いて見えた。……それだけ、元の世界の放つ光が鈍かった。


「ああ、どうもどうも。どうやらこっちに住み着くことになったみたいですね」

「……あなたは、サトヤさん」


 月を見上げていると、見覚えのある男が一人、俺の横に座った。その人は、俺をここに連れてきた張本人――サトヤさんであった。


 この従業員用の浴場にいるということは、どうやら彼もここの従業員の一人であるようだ。


 ……しかし、今考えてみれば、従業員用の風呂も露天風呂になっているとは、なんとも豪勢な旅館だな。


「さて、旦那。ここでの仕事はどうですか?」


 旅館の待遇に感心していると、俺の呼び名をお客さんから旦那へと変えたサトヤさんが、無精ひげを指で擦りながら話しかけてきた。


 確かに、従業員になってからもお客さんというのはおかしな話だ。とはいえ、ナオとでも呼んでくれればいいものを……。


「まあ、ぼちぼちとやらせてはもらってますよ。めんどくさいのが同僚になってしまいましたが」

「そりゃいい。それはつまり、その相手は裏表がない人間ってことに違いないですよ」

「俺は、サトヤさんのようにそうポジティブにはとらえられませんよ」

「ハハッ、あっしなり処世術ですよ」


 そういう彼は、愉快そうにカラカラと笑っていた。


「……一ついいですか?」

「なんなりと」

「狭間の旅館と聞きますが……実際のところ、ここはどういう場所なんですか?」

「あー……」


 俺は常々疑問に思っていたことだ。ここに来るところからして、元の世界ではありえないようなことの連続。あまりにも希釈きしゃくされた現実感が、それらの異常に対してそれなりの受け止め方をしてくれてはいたが、こうして一人思い馳せれば、地獄にでも着てしまったかのような不安ばかりが俺の中に渦巻くのだ。


 鬼とかいるしな。半分だけだけど。


 ともかく、俺はその不安の答えを求めて、サトヤさんにそう聞いた。

 ただ――


「さてね。あっしも詳しく知っているわけじゃありやせん。それに、そう難しい意味ではなく、驚くほど簡単で、本当にそのまんまの意味ですよ、ここは。世界と世界。三次元と、これまた別の三次元の間にぽつりと空いた小さな小さな亜空間。私が聞く限りじゃ、今の主さんが、そんなところに居を構えたのが始まりだったとか」

「……この旅館を一から?」

「一から。まあ、いろんな世界と隣り合ってるってのもあって、材料にも人材にも困りはしなかったそうですよ」


 つまりここは、俺のいた世界じゃない――異世界ってことになるのか。

 ともすれば、龍も鬼も妖精も納得ができるものだ。

 じゃあ――


「んじゃ、あっしはそろそろ上がらしていただきます。旦那も早いとこ上がっといた方がいいですよ?」

「……確かに、この湯舟は熱くてのぼせかねない。ご忠告痛み入ります」

「そうだなぁ……その敬語、解いてくれると嬉しいですよ、あっしは。そうすれば、客人と従業員ではなく、同僚として接することができましょう」

「……お、おう」


 男二人。裸の付き合いをしてみれば、どこか絆が深まったような気がした夜のこと。


「それじゃあ、よろしくな。サトヤ」

「おう。よろしく、ナオ」


 俺よりも少し年上に見えるサトヤにため口を使うのは少し憚れるが……まあ、これも縁というものなのだろう。

 にしても、少々口調を砕いただけで、サトヤの方も随分と砕けた口調になったな……。

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