皇子の記憶
「クソッ! 馬鹿にしてんのかアイツ!」
研究所で大暴れした俺は、一度王都まで戻って、自分の部屋でゆっくり寝た。
ふて寝である。
そうして冷静になって考えてみたんだが、どう考えても
暴れ回ってやろうか?
そんな事を思いつつ超高速でカッ飛んで帝都に舞い戻ると、帝城の屋根に着陸した。
今の俺は、この世界の端から端、帝都から王都までだって横断するのに三十分も掛からない。
翼を広げ羽ばたく俺の姿に、皆が空を見上げる。下ではガヤガヤと奇跡だなんだと騒いでいるが知った事じゃない。
俺は、コレでも心配してたんだ。
凶化した俺が、暴れ回って市民も、アイツらも、全員殺してしまう事を。
なのに、全部要らん心配だと、お前なんて簡単に殺せる。それどころか他人の心配するのがらしくないって、
「う~っ!」
考えれば考えるほど腹が立つ。
いっそ暴走して、グチャグチャの化け物になってアイツに噛み付いてやろうか?
田中も木村も、全員食い殺して死ぬ。
そんな終わりだって悪くないような気がしてしまう。
いや、落ち着け、そんなんで本当に化け物になったら余りにも間抜けだ。今の精神状態ならマジであるから困る。化け物になりたいと願えば、すぐに変じてしまうだろう。
――今だって、危なかった。
俺は体の内で暴れ回るエネルギーを歯を食いしばり制御する。
「ふぅ……」
何なんだろうな、もう。
自分の体が、どんどん制御出来なくなっている。凶化の暴走がすぐソコまで迫っている。
こんなんが俺の死因だとしたら、もうどうしようもないだろう。こんな『偶然』を止める術などドコにも無い。
いや、本当にどうしようもないだろうか?
さっきみたいに、自分を捨て、変わろうと願えば、化け物に変わってしまう。
ならば、今の自分が大好きで変わりたくないと強く願えば、少しは抵抗出来るんじゃないだろうか?
善は急げだ、とびきりに可愛くてカッコイイポーズを取ろう。
俺は城内の壁から大鏡を引っぺがすと、目指した先は玉座である。
最高にカッコイイポーズを取るなら、最高に偉そうに出来る場所。そこでカッコ可愛い自分の姿を再確認するつもりであった。
身の丈を超える大鏡を持って、あてどなく宮殿をフラつく。
巡回する王国兵がギョッとした様子で見てくるが、ひと睨みして下がらせた。
そうして、ようやく見つけた。
この扉の向こうが謁見の間、そこに玉座はある。
入り口は思ったよりもこぢんまりとしている。
大理石の扉は小さく、簡素だ。
コレでは見つからない訳である。王宮のど真ん中になんか物置あるなって、何度か通り過ぎていた。
しかし手で押すと扉は尋常じゃなく重い。大理石の扉と言うより、大理石そのものだ。きっと人間が一人で開けるもんじゃない。その時点でまともな場所ではなかった。
俺は力を込めて大理石をズラすと、隙間から謁見の間にすべり込む。
「おおっ!」
謁見の間は、圧倒される程に。美しかった。
お姫様として生まれた俺でさえこうなのだ、庶民はビックリ仰天、貴族だって腰を抜かし、皇帝を神と崇めるのも無理はない。
ココに至るまで宮殿はドコもかしこもキラキラと目に痛いほど豪華絢爛、しかし、それは前フリだったに違いない。
「こう来るか……」
打って変わって、謁見の間はシンプルに白い。
ただ、ひたすらに白い世界が広がっていた。
絢爛とは程遠い、簡素な空間と言える。
白磁の輝きで、見渡す限りの白だけの世界。そこに唯一、天へ向かって橋が架けられている。
長い長い、純白の階段。
真っ白な架け橋はそのまま天国へと通じているかに思われた。
死後の世界を思わせる演出だが、俺だけは天に至る階段など無い事を知っている。
今日だって空を飛んで来たし、一度ならず二度まで死んだ事すらある。
だから神秘に圧倒されずに済んでいた。
それだけ、踏み込む事を躊躇させる空間。だけど俺は、鼻を鳴らし、鏡を背負って、ズカズカと階段を上がっていく。
真っ白い部屋だから、遠近感がおかしくなる。階段の幅は上に上がるほどに極端に小さくなって、下から見上げた時に感じたよりも、実は高さがなかった。
錯視トリックだ。
……なるほど、下から見上げると上段の皇帝はずっと大きく見えるだろう。
天空の彼方から巨大な皇帝が階下を見下ろす、そんな演出になるハズだ。
いよいよ最上段、設えてあったのは、拍子抜けな程、シンプルな白い椅子。
コレが玉座? この、ただ背もたれがちょっと長いだけの椅子が、玉座?
しかし、シンプルながら、静かに輝いて見えるのは、気のせいか?
はたして後光が差すように計算された照明の所為だろうか? 天窓から注ぐ真っ直ぐな光が、ちょっとした奇跡をその場に作っている。
コレは、違う。
想像していた玉座とはまるで違う。
てっきり豪華絢爛な黄金の彫金に、赤い布地のテンプレ玉座だと思っていた。
偉そうにゴテゴテ飾られた玉座にどっかりと座り込み、不遜で可愛い自分の姿を目に焼き付ける予定だった。
だが、コレはコレで?
俺はこの椅子に座った自分を見てみたいと強く思った。
玉座の前に大鏡を設置。
コチラはロビーから引っ剥がした彫金のゴテゴテした大鏡である。この部屋の中ではかなり浮いてしまったな。
……或いは、浮いてしまうのも計算の内か。
あのゴテゴテしたダンスホールに合わせた衣装でノコノコとこの謁見の間に踏み込めば、ギラギラと着飾って虚飾に満ちた自分と向き合うハメになる。
ここで美しくあるためには、シンプルな純白の衣装が必要だ。
そして、偶然にもウェディングドレスを意識した今の俺の装いは、その基準を満たしていた。
天国みたいな場所で、シンプルな椅子にちょこんと腰掛ける。
なかなか、悪くない。
豪華な椅子で、不遜に足を組んで高笑いするつもりだったが、コッチの方がずっと良い。
鏡に映っていたのは、まさに天使だ。
天国みたいな場所で、肌を晒す純白の衣装を着こなす銀髪の少女。背中には羽、頭には獣耳、そして尻尾。
現実感が空気に溶けて、鏡の中に幻想を映していた。
しかし、この耳、馬の耳っぽいんだよな。この世界の馬は元の世界よりも大きな耳だから、どうにもバニーっぽい印象になってしまう。
そして、頭には俺の秘宝たる王冠めいたティアラもある。白で埋まったシンプルな世界の中にして、ゴテゴテと宝石が輝いて主張する。
そして宝石よりも尚、大きく輝く俺の瞳がその主張を塗りつぶす。
手には身の丈よりも巨大な王剣を持ちながら、何でもないとすまし顔。
降臨した天使が、玉座で王様の真似ごとをしているような、不思議な光景。
俺は、この姿を絵に残したいと思った。
そうと決まれば絵師を呼ぼう。帝都にも絵師ぐらい何人も居るだろう。木村に任せてアニメ調にする事は無い。
まずはこの邪魔な大鏡を持って帰ッ――
その時、俺は階段の上から足を滑らせた。
なんで?
階段上部は足場が狭かったから?
大鏡を持って前が見えなかったから?
王都から飛んで来て、体に疲れが溜まっていたから?
落下しながら、走馬灯のようにアレコレと考えるが、違う。
コレは? 記憶?
記憶の片鱗に触れたのだ。
そう気が付いた時には、最上段から落下した体は抱えた大鏡の上に墜落していた。
鏡が割れ、無数の破片が体を切り刻むのを感じながら、俺はゆっくりと意識を失った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
【睨まれた従軍絵師】
ユマ姫に睨まれた兵士は、小さな少女を恐ろしいと心底思った。
何より美しく、何より恐ろしい。
コレは人間ではない、神だ。
そうとしか思えない存在だった。
暴力と狂気の化身がソコに居た。
あまりの事に、一度は逃げた。しかし、その恐ろしさは脳を灼き、麻薬の様にもう一度会いたいと、少しでもその姿を目に収めたいと、そう思わずに居られない。
そして従軍絵師でもある彼は、ユマ姫の姿を絵に残したいと神に祈った。
キャンバスと絵の具を手に、兵士は宮殿の中、ユマ姫の姿を捜し回る。
そして気が付いた。謁見の間に続く大理石の塊が、僅かにズレている事に。
覗き込んだ先、兵士は神秘を目撃する。
真っ白な部屋に、鮮血が広がる。
――その中心に少女が居た。
天へと続く階段の更に上から真っ直ぐに光が差し込んで、散乱する鏡の破片がキラキラと反射する。
その鋭い切っ先が少女を切り刻み、じわりと滲んだ鮮血が、白だけの世界を強烈な赤で彩った。
奇跡の様な、神秘の光景がソコにはあった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
【皇子の記憶】
皇帝は孤独だった。
少なくとも、息子である皇子から見て、そう見えた。
皇帝とは何か?
皇帝とは始まりの民の末裔である。
始まりの民とは何か?
寄る辺ない民を導いて、荒野を切り開いた神の使い。帝国の礎を作った英雄。
そう言われているが違う。
始まりの民の末裔だけが代々語り継いできた。
ホムンクルスと旧人類の間に生まれた新人類。
ソレこそが始まりの民である。
新人類と言えば聞こえは良いが、旧世界に於いて、彼らは不義の子でしかなかった。あやまちの象徴だった。
奴隷である
人造人間とは地下深くにて魔力資源を採掘するべく旧人類に作られた存在だ。薄暗い地下で活動するため、光を取り込む目は巨大に、音を拾う耳は長く設計された。
なにより、彼らは汚染された高濃度の魔力下でも活動出来る様に作られている。
彼らにとって魔力は毒でも資源でもなく、食糧だ。肌から魔力をエネルギーとして活動出来る。口にする食事は僅かで良い。余分に取り込んだ魔力は、魔法として行使すれば無駄もない。
魔法とは何か?
古代人は回路に魔力を通し、魔道具を作った。
魔道具で光を生み出し、地下世界へと進出する。
更には寒い冬には魔力を燃やして暖を取り、プロペラを回して風を作って夏を過ごした。
いつしか古代人は魔術回路で演算し、ドローンを飛ばし、銃を作って戦争を始める。
地球人が電気で行う殆ど全てを
――彼らは魔力で実現した。
だが、電気と魔力のもっとも大きな違いは、人の意志に反応する性質だった。だから古代人は悪魔の計画を実行する。
人造人間は改造された脳に魔術回路が焼き込まれている。
脳こそが意志の力がもっとも強く働く場所だから。
念じるだけで穴が掘れるし、暗闇を照らせるし、体が壊れた時は、自分達で修理もこなす。
それが魔法だ。
地下で暮らす古代人にとって、彼らはどんな重機よりも経済的な道具だった。魔力で変異した怪物と戦う兵器にもなる。
そんな怪物を奴隷として使役して危険じゃないか?
心配無用だ。奴らは魔力で生きている。人類が住む場所には決して入って来れない。健康値の膜で遮られ、立ち入れない。
だが『あいのこ』はどうだろうか?
魔力が無くても奴らは生きていける。健康値の膜にも入れる。思うだけで自在に魔法を使う恐ろしい怪物が、いつか人類に牙を剥くかも知れない。
だから古代人類は『あいのこ』を酷く恐れた。
実際の『あいのこ』は魔法も使えず、目も耳も弱く。魔力にだって強く無い。ただただ脆弱なだけの存在なのだが、人類は不確定要素を嫌った。
不義で生まれた『あいのこ』は秘かに檻の中で飼い殺しにされる運命だった。
だが、ある日を境に状況は一変する。
地下から魔力が溢れ出し、押し出される様に健康値の膜は空の彼方に消えてしまった。
奴隷である人造人間から、支配階級の旧人類を守る壁は無くなった。
その時、あの『事故』が起きたのだ。
反乱は苛烈を極めた。
人造人間は瞬く間に古代人類を制圧。奴隷に堕とし、狼藉の限りを尽くした。
結果、新たに大量に生まれたのが古代人類と人造人間の『あいのこ』だ。
その『あいのこ』の管理を任されたのが、飼い殺しにされていた元々の『あいのこ』。不義の子供達だった。
反乱の後も、彼らは人造人間にも仲間と見なされず、奴隷として扱われていた。
奴隷にされた古代人類は濃厚な魔力に耐えられず、バタバタと死んでいく。もちろん『あいのこ』として生まれた子供達も見捨てられ死にゆく運命だった。
管理を命じられた不義の子供達は、同じ『あいのこ』である幼子を連れて逃亡する。
なるべく人造人間が追って来られない、魔力が薄い土地を目指して。
彼らこそが始まりの民である。新しい人類の誕生だ。
『あいのこ』は多少の魔力には耐えられるし、魔力が無くても生きていられる。
新しい世界に生きるには、とても適した生き物だった。
国はみるみる大きくなった。
作物は魔力だけでなく太陽の光を受けてすくすくと育った。
危険な魔獣は薄い魔力の土地には住み着かない。
不義の子供達が旧世界から持ち出した魔道具の数々は聖遺物となり、開拓を助け、自然災害を鎮めた。
それらを使いこなす始まりの民の末裔が、いつしか皇帝と呼ばれ君臨するのは自然な流れと言える。
だから、初代皇帝として祭り上げられた始まりの民の末裔は、ただの不義の子供の末裔だ。神の使いなど大層な存在ではない。
それを知っているから、語り継いで来たからこそ、皇帝の悩みは深い。
皇帝は恐れていた。
薄い魔力を克服した人造人間達が大挙して帝都に押し寄せる未来を。
なにせ彼らが使う魔法は強力で、旧人類から奪った魔道具の数だって桁が違う。脆弱なだけの新人類など瞬く間に滅ぼされてしまう。
毎夜毎夜、人造人間の大群に攻め入られる悪夢にうなされる初代皇帝。
だが、皇子にしてみればそんな心配は無駄な事。
全ては百年も昔の話。父である皇帝をお伽噺に怯える老人ぐらいに思っていた。
だけど、違った。
ある日、悪夢の一端が皇帝を襲った。神話はお伽噺では無かった。
旧人類からの使者が、皇帝を尋ねて来たのだ。
皇帝を絶望させるに足る情報を携えて。
謁見の間で旧人類の使者は皇帝に迫った。
魔力の噴出は止まっていない。
このままでは千年、いや数百年でココも魔力に飲まれ人の住めない土地になる。
魔力の噴出を止めなくては、早晩新人類は滅びる。
旧人類も人造人間も、争っている場合ではない。魔力を止める方法を見つけなくては。
皇帝は顔色を変え、苦悩に揺れた。
しかし、皇子はそんな与太話は信じない。
魔力の噴出など、穴を塞ぎ止めてしまえば良い。それが大森林にあるのなら進軍するまでだ。
人造人間なんたるモノぞと軍を動かし、人造人間が住む大森林へと攻め入った。
いや人造人間と言う言い方はマズい。
古代人類の存在が明るみになれば、自分達が『あいのこ』であると言う事実もまた明るみになってしまう。
始まりの民の神話が崩れる。
だから帝国は人造人間に新しい名前をつける。
森に住む悪魔をそう呼称した。皇子の軍は悪魔討伐の軍となる。
弱腰の皇帝を隠居させ、玉座にて堂々と進軍を命じた。
すると、再び旧人類の使者が現れる。
突然だ。前触れもなく。
「残念です」
そう言って、剣を抜き、皇子を貫いて、玉座へと縫い付ける。
当時の謁見の間は、今の様な洗練された空間ではなかった。
雑然と豪華な調度品が飾られていた。まるでおもちゃ箱の中、壊れた人形みたいに、皇子は死んだ。
ユマ姫が見た、今の様な白一色の謁見の間が作られるのは、この後の事である。
おそらくは天へ至る場所として作り直されたのだ。無念にも道半ばで殺された皇子の魂をその場所に保存するために。
死の間際。
皇子は使者の顔を、間近に見ている。
気の強そうな赤い髪の女性だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ゼナ!」
声を張り上げ、叫んだ。
使者は俺の実の母、ゼナの姿にソックリだったから。
しかし、おかしい。アレは千年近く昔の記憶だ。アレがゼナだなんてあり得るだろうか?
ご先祖様? クローン? そのどれもが違う。
アレは母であるゼナ本人だ。
俺には『参照権』がある。ちょっとした癖だって見比べられるし、ほくろの位置だって比較出来る。
アレは間違いなくゼナだった。
なんでだ? 何が起こっている? 意味が解らない!
意味が解らないのは今の状況もだ。
気が付けば、俺の体はベッドの上。体は酷く、重くて怠い。
なんだ? ココはドコだ?
「ユマ様! 気が付いたのですね!」
「あなたは、グリード?」
現れたのは親衛隊隊長となったグリードだった。
「ココは医務室です。大変だったのですよ。大怪我した姫様が謁見の間で見つかって」
「それは……申し訳ありません。足を踏み外したようです」
余りにも間抜けだ。そうだ、神は言っていた。皇帝の息子に魂を宿したと。
アレは帝国初代皇帝、その息子の事だったのか。それぐらい想定しておくべきだった。
それにしても……体調が悪い。
「あの、姫様?」
「なんです?」
見つめると、グリードの顔には焦燥が浮かんでいた。
「いえ、心配で。なにしろ発見から、助けるまで、随分と時間が掛かってしまって」
そう言えば、フラフラする。体中の血が抜けてしまって、考えが纏まらない。
きっと、俺の体は数時間も放置され、出血し続けて居たのだろう。
「出血が酷く、四日も寝込んでいたのです」
「まぁ!」
ソコまでの重傷だったか。いや、そうだな。あの時の俺は体に力も入れられず、重要な血管を鏡の破片でズタズタに引き裂かれてしまった。
そんな状態で放置されたら、今の俺でも死んだっておかしくない。
しかし、なんであんな目立つ場所で倒れて、放置されにゃあならんかったんだ?
イライラする。
田中も、助けてくれない兵士の連中も。
腹が減った。血が足りない。
喰ってやろうか? 目の前のグリード。喰い頃だ。
そんな事を続ければ、化け物になってしまう? いいじゃないか、もう化け物で。
「ねぇ、グリードさん?」
「なんですか? 何でも言いつけて下さい」
「何でも? でしたら、食べる物を提供して下さいませんか?」
「もちろん! 今すぐ何か――」
「いえ」
俺は立ち上がるグリードの上着の裾を掴み、止める。
――喰うのは、お前だ。
ギチギチと体が悲鳴をあげ、人間の殻を突き破ろうとしていた。
「なんです? 姫様」
「…………」
しかし、殺す寸前。どうしても気になった。
「どうして怪我をした私は、長い時間放置されて居たのです?」
「放置……いや、そうですね。皆が何かの儀式では無いかと不安に思い、姫様を動かせなかったのです」
「……そうですか」
クソッ! 何が儀式だよ!
馬鹿にしやがって。
「そう思ってしまう程に美しい光景だったのです。見て下さい」
「?」
グリードが指差す先には、書きかけの絵があった。
いや、書きかけに見えて、絵は完成している。
真っ白なキャンバスに描かれたのは、あの真っ白な謁見の間だ。だから書きかけかと思う程に、殆どが白い。
そして、謁見の間に倒れ込む俺。そこから染み出す鮮血だけが、毒々しいまでに赤かった。
真っ白なキャンバス。色らしいモノは鮮烈な赤だけ。
「これは……」
確かに、新手の儀式を疑う光景だ。
偶然、こんな事になったとはとても信じられない。
真実、足を踏み外しただけなのだが、グリードは信じていないだろう。ソレだけ不思議な光景だ。
この絵は、俺の痛々しいまでの狂気と美しさを余すところなく表現している。
美しい、この芸術を崩したくない。このまま美しい自分で居たい。
この美しい絵の一分として死ねるのなら悪くない。
そう思った。
「綺麗でしょう? 我々としても儀式の内容を考え、手が出せなかったのです。しかし、出血が激しくこれ以上は危険だと判断し、治療をするために医務室に運びました。念の為状況を絵に起こしたのがコレです。お役に立てば良いのですが」
「ええ、とても役立ちました」
お陰で、怪物にならずに済んだ。
俺は、今の体を失いたくないと。強く願った。願えたのだ。
可愛い自分のままでありたいと。
「それは良かった。絵師は何度も正気を失いながらも、この絵を描き上げ、描き上げると同時に、亡くなりました」
「まぁ!」
気持ちは、解る。
もう、コレで終わりで良いと、そう思える絵だ。
命をそのまま叩きつけた様な絵であった。
一見雑に書き殴った箇所ですら、却って危うい美しさを表現していた。
「覚えていますか? 王宮を警備している時に姫様に睨まれたと言っていましたが、ソイツが従軍絵師でして」
「そう、だったのですね」
そう言えば、誰か睨んだな。
結局、俺は誰かに生かされている。
病床に腰掛け、描かれた絵を見ながら、俺はそう思わずに居られなかった。
誰かに生かされたと言えば、紛れもなく最初のピースは母ゼナだ。
ゼナは。一体何者なのだろう?
ひょっとして、数千年の時を生きて、今も何処かに居るのだろうか?
不思議な縁に導かれ、俺は何時か必ず出会う事になるのだろうと確信していた。
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